貫之が国司として土佐在任中に、雅の道をどの程度土佐にうつし得たかあきらかでないが、『土佐日記』が後世の土佐のみやびの士によき刺激をあたえ、文心をふるいおこし、土佐文学の光明となったことは忘れることができない。
だが、この時代の土佐には、まだまだ文学的土壌は成立していなかった。
『銜悲藻』(かんぴそう)、『三教指帰』(さんごうしいき)が生まれ、『土佐日記』がつくり出される土壌となった土佐ではあったが、これらの作品は、土佐人の手になるものではなかった。
室町時代初期にいたって、義堂・絶海らの吸江文学の出現は、土佐人による土佐の文学の開幕を知らせるものであった。
■紀貫之(872〜945?)
理知的にして情的歌風で実力を認められた貫之は、『古今和歌集』の選者をつとめ早くから歌よみとして世に知られた人であったが、官位は低く、土佐守に任ぜられたときは六十歳を越えていた。
任を終えた承平四年暮れからの帰京の旅が『土佐日記』であるが、土佐で亡くした愛児への思慕と、都への望郷の思いが文学性を高め、我が国最初の日記文学としてその史的価値は高い。土佐在任中に『新撰和歌集』を撰した。
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■五山文学・近世詩壇
五台山吸江庵の禅林文学は、十四世紀、十五世紀の土佐文学の中心であったが、この吸江庵の創設者は夢窓疎石であった。
義堂周信(ぎどうしゅうしん)は、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)と並んで、夢窓の法嗣であり、五山文学の頂点に位置する禅僧詩人で、明に留学中、高皇帝から和韻の詩を賜ったことは有名。
十七世紀に入ると、土佐では南学の流動のなかで、大高坂芝山、黒岩慈庵、谷秦山らがすぐれた漢詩をのこしたが、なかでも秦山は気概に富む堂々たる詩を詠じた。
十八世紀には、画家的視野で脱俗の境地を詠んだ中山高陽、謡曲・神儒の学にわたる戸部愿山(とべげんざん)、秦山の流れを引き和漢の道に秀でた谷真潮、愿山の弟子で孤独清貧の野見嶺南などを輩出し、十八世紀末から十九世紀には、北原秦里(きたはらしんり)、日根野鏡水、僧月暁、森田梅かんなど、生気あふれる漢詩人たちがあらわれている。
■鹿持雅澄(1791〜1858)
幕末の頃、高知城西、福井の人だった鹿持雅澄は、土佐の誇るべき国学者・歌人である。
荷田春漢(かだのあずまろ)、加茂真淵、本居宣長、平田篤胤のいわゆる国学四大人に、雅澄も加えて五大人と言ってもよい。
国学は徳川封建制度を支えていた朱子学に対立するヒューマニチックな立場で、神代の事跡を古典に尋ねる文献学的日本学だが、雅澄は、この国学の徒として、歌作にいそしむとともに、『万葉集』を軸に古代文化の究明に生涯を捧げた。没後、明治天皇のご下賜金で出版された『万葉集古義』は、独創的注釈も多い万葉学集大成の大著である。
藩政前期、谷秦山の築いた土佐的古代研究の風土の中で、雅澄の形成した皇朝学・復古思想は、門弟武市瑞山ら土佐勤王党の原動力ともなった。