紀貫之と土佐日記

我が国最初の日記文学「土佐日記」。
紀貫之(872〜945?)が国司の任を終えて京の都に帰るまでの旅程を、女性の筆に託し、仮名文字で書いたものです。
華やかな平安日記文学が花開くさきがけとなった、古典文学史上たいへん重要な意義をもつ作品です。

 


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紀貫之

最古の歌が見えるのは、寛平5年頃の『是定親王歌合』『寛平后宮歌合』。
新進歌人としてデビューし、その才能が知られはじめます。
延喜5年、勅撰和歌集である『古今和歌集』の撰者となり、「仮名序」を書いてからは、歌人としての地位を確立しました。
延長7年、『新撰和歌集』の撰を命じられ、延長8年からの土佐守の赴任中に撰を完成させました。
しかしこれを命じた醍醐天皇はこの間に死去し、完成を見ることはありませんでした。
承平4年、土佐守の任とけ、翌年帰京。帰京ののち、『土佐日記』を書き上げます。
歌人としては一流でしたが、藤原氏に勢力争いで負けた紀氏である貫之は官人としての位は生涯低かったようです。
60歳を越えて土佐守という厳しい任を命じられたのも、このためだったのでしょう。

 

 

作品

足かけ5年の国司の任を終えた貫之が、京の都へ帰ることになり、土佐を後にしようとしているところから場面は始まります。
今でこそ数時間で行ける行程ですが、当時は海賊におびえ、天候に悩まされながらの命がけの旅でした。
折りにつけ貫之は土佐で亡くした愛児への哀惜の思いを込めて歌を詠みました。


都へと思ふもものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

50数日間という長い旅を経て、貫之が京に帰ったときには、もとの自分の家は荒れ果ていました。

この家で生まれた我が子がもういないことにも改めて気づき、世の無常を感じるのでした。

 

 

展示

伝貫之筆の「寸松庵色紙」(複製)や、土佐に残る唯一の伝貫之筆の「月字額」拓本など展示しています。

 


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