国史跡・岡豊城跡散策

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岡豊山

岡豊山歴史公園

岡豊山歴史公園

岡豊城跡

岡豊城跡散策ポイント
1:詰 つめ 2:詰下段 つめかだん 3:二ノ段 にのだん 4:三ノ段 さんのだん 5:四ノ段 よんのだん 6:伝厩跡曲輪 でんうまやあとくるわ 7:伝家老屋敷曲輪 でんかろうやしきくるわ

 (つめ)

詰で発掘調査された遺構
詰で発掘調査された遺構
(北東より撮影)

詰は岡豊城跡の中心となる曲輪(くるわ)で、標高97mの岡豊山頂にあります。詰は1辺40mの三角形状をしており、建物の基礎と考えられる石敷遺構や礎石建物跡、雨水を溜めたとみられる土坑や柱穴などが確認されています。西部には土塁が残されており、築城当時は周囲に巡らされていたと考えられます。

詰(礎石建物跡)

礎石建物跡は詰の西南部で確認されました。その南端は40~60cmの割石を幅1~1.5m、長さ16mにわたって敷いた敷石の遺構で、建物の基礎として造られ、南側に土壁などの強固な外壁をもっていたと考えられます。またその北側には石敷遺構につながる東西方向の大きな建物跡の礎石が続いています。建物跡は5間×4間(10.4m×7.2m)と1間×1間(1.4m×2.0m)の2棟で、面積は約75平方メートルと約3平方メートルとなっています。このようなことから、詰には近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと推定されています。
※礎石建物跡/礎石(石)の上に柱を建てた建物跡。

地鎮(じちん)の遺構
地鎮(じちん)の遺構
地鎮(じちん)の遺構

12枚の土師(はじ)質土器の坏(つき)に91枚の銭貨が入れられ、土坑(どこう)に納められていました。土坑に納められた坏や銭貨は、築城の時に土地の神を鎮める祭りに用いられたと考えられます。
※土坑/土に掘られた穴

 詰下段(つめかだん)

詰下段で発掘調査された遺構
詰下段で発掘調査された遺構
(詰側南西より撮影)

詰下段は詰の東の一段低いところに付随する曲輪で、礎石の上に柱を建てた礎石建物跡1棟、土塁、段状遺構、土坑や三ノ段への通路と考えられる遺構が確認されています。堀切に面して造られた土塁や建物跡などから、詰下段は二ノ段から詰への出入口を守るための曲輪であったと考えられています。

詰下段(礎石建物跡)
復元された詰下段の遺構
復元された詰下段の遺構
(詰側/南西より撮影)

礎石建物跡は2間(5.8m)×5間(9.2m)、面積は約53平方メートル、東の土塁と西の詰斜面に接して建てられ、詰下段全体を占めています。礎石には40~60cmの割石が使われ、5間の一辺は半間ごとに礎石が置かれています。

土塁

土塁はおよそ幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留めのために2~3段の石積みがあります。

 二ノ段(にのだん)

二ノ段発掘調査
二ノ段発掘調査(北東より撮影)
 

発掘調査で確認された土塁
発掘調査で確認された土塁

二ノ段は堀切により詰からへだてられた曲輪です。長さは約45m、幅は最大幅約20mあります。南部には、高さ60cmの土塁が30mにわたり残っていました。発掘調査をしたところ、土塁は幅約3m、高さ1mであることが確認されました。建物跡の遺構は確認されませんでしたが、多量の焼土や炭化物にまじって瓦や土師質土器片、陶磁器片などが出土しました。二ノ段は、詰などから運ばれた土により造られた曲輪と考えられます。

二ノ段と詰の間の堀切には、井戸跡があります。二ノ段で確認された炭化物を含んだ層は、永正5~6年(1508~09)の19代長宗我部元秀の代の落城に関する資料を含むと考えられます。また、ニノ段・三ノ段にこれらが存在するのは、永正13年(1516)前後の国親による城再興時における整地の跡と考えられています。

堀切
堀切
堀切

尾根などを鉈(なた)で切ったように掘った堀で、敵の侵入を防ぐ施設です。岡豊城跡には詰と二ノ段の間に1本、北に延びる尾根上に2本、西の伝厩跡曲輪との間に2本、同曲輪の北西に2本などが残っています。幅は約3~4m、深さ約2mです。

井戸
井戸跡
井戸跡

堀切の中央部に掘られ、方形をしています。上部の幅は約3m、底部は0.8mで、二ノ段からの深さは約4.7m、岩盤を3.6mほど掘り込んでいます。湧き水はなく、雨水を溜める溜井として使われたようです。

 三ノ段(さんのだん)

三ノ段で発掘された階段状遺構と全景
三ノ段で発掘された階段状遺構と全景
(北より撮影)

三ノ段は詰の南から西にかけて造られた曲輪で、南部は幅約5m、長さ約45m、西部は幅約4~6m、長さが約50mほどあります。南部では遺構はほとんど確認されていませんが、焼土と炭化物を含む層が確認されています。西部では礎石建物跡1棟と、中央部に詰にいたる通路となる階段状の遺構、土塁の内側に20~40cmの石を1mほど積んでいますが、南半分はほとんど崩れていました。

階段状遺構は岩盤を削って造られ、両側は石積みとなっていました。階段の北には礎石建物が接して建てられており、通路は南から階段を通って詰に登るようになっています。

三ノ段(礎石建物跡)
三ノ段で発掘された土塁・石積み
三ノ段で発掘された土塁・石積み
(東より撮影)
三ノ段で発掘された土塁・石積み礎石建物跡
三ノ段で発掘された土塁・石積み
礎石建物跡

(南より撮影)
三ノ段で発掘された土塁・石積み
三ノ段で発掘された土塁・石積み
(南より撮影)

三ノ段では、西部の西半分に礎石建物跡が確認されました。この建物は三ノ段の幅いっぱいに建てられており、土壁などを用いた強固な建物であったと想像されます。建物は南北が9間(16.8m)、中央部に南北を分離する間仕切りの礎石とみられる石列があり、東西は北半分が4間(8.7m)、南半分が3間(6.2m)と2つに分かれています。面積は約124平方メートルと大きく、詰に接しています。礎石も50~60cmと大きく、半間おきに置かれています。
また、北半分には礎石間に列石がみられます。北半分は4間×4間、南半分は5間×3間に分かれていることから、同じ棟でも構造に違いがあったようです。建物跡と土塁・石積みの間は南が低くなった溝となっており、排水用と考えられます。建物跡からは鉄鍋片や石臼など城の生活を物語る遺物が出土していますが、瓦片はほとんど出土していません。

 四ノ段(しのだん)

四ノ段発掘調査
四ノ段発掘調査(南東より撮影)

三ノ段の西部を囲むように造られた曲輪で、中央部にある虎口により二分されています。北部は方形の曲輪で、約12m×15mの広さです。南部は南北約32m、東西約16mです。北部郭からは土塁、礎石建物跡1棟、土坑1基、粘土盛土遺構1基、集石遺構1基が確認されました。南部からは土塁裾部の割石が確認されましたが、建物跡などは確認されませんでした。

虎口
虎口
虎口

城の出入口を虎口と呼んでいます。虎口にはいろいろな形があり、敵から攻め込まれないように造られています。四ノ段の虎口は土塁を東に曲げて造られています。

空堀
空堀
空堀

ひとつの曲輪や一定の区画を囲む水のない堀のことで、戦闘時には敵の侵入を防ぐのに重要な役割を果たします。この空堀は一部削られているようですが、幅は2.5m以上あったと考えられています。

 伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)

詰の西南方向にある出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれています。長さ約30m、幅17mの楕円形状で、周囲は急な斜面に囲まれています。北西には2本の堀切、南斜面には竪堀群があります。戦いの時には、西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城としての役割を果たします。


竪堀
竪堀
竪堀

竪堀は斜面に掘られた空堀で、堀切に伴い敵の侵入を防ぐ目的で造られました。また、溝状の形状を利用して山城で必要な物資の上げ下げに使われたと考えられます。

 伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)

詰の南に位置しています。この曲輪自体の発掘調査はおこなわれていませんが、国分川と接した曲輪の出入口部にあたる場所の発掘調査の結果、堀切、竪堀、土塁、土橋、柱穴等の遺構が確認され、15世紀後半~16世紀後半にわたって使用された土師質土器、土鍋、擂鉢、輸入陶磁器などが出土しています。

主郭部への登城口として国分川から発掘調査された地点を通り伝家老屋敷曲輪を経て詰に至るルートを想定することができ、また踏査による縄張り調査では、この曲輪は広い平坦面をもち、周囲は堀切、横堀、竪堀がめぐらされるなど防御性を強く意識して造られ、城郭全体の中でも重要な曲輪であることがわかりました。

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