高知県立歴史民俗資料館:ホーム > 国史跡・岡豊城跡
岡豊城跡は、南国市岡豊町八幡の通称岡豊山にあります。高知県を代表する城跡の一つで、平成20年7月28日付で、その一部が国指定史跡「岡豊城跡」となっています。四国を代表する戦国時代の武将長宗我部氏の居城跡です。
さらに平成29年4月、岡豊城は「続日本100名城」に選出されました(公益財団法人 日本城郭協会発表)。
香長平野にはいくつかの丘陵が点在していますが、岡豊山もその一つで、山は蛇紋岩からなっています。標高は97m、山は東から南斜面にかけて急傾斜で、北側はややゆるい斜面となり、西部には標高49mの小さな丘陵が続いています。南斜面の下には、国分川が流れ、西から南にかけて湿田となっています。築城当時も湿地帯が存在していたと思われ、自然の要害となっています。北は、低い尾根により四国山地に続いていたようですが、県道(旧国道)により分断され、またかつての公園化による山頂部への道路などの建設により城跡は変化を余儀なくされています。
岡豊城跡の発掘調査は、高知県立歴史民俗資料館の建設に伴う周辺環境整備の一環として、県史跡整備に先立つ確認調査として昭和60年から平成元年に第1~5次発掘調査(国庫補助)、平成2年に第6次発掘調査を高知県教育委員会が実施しました。調査は、史跡部分の詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段で行われました。詰では、石敷遺構や礎石建物跡、地鎮の遺構、三ノ段では土塁・石積み、礎石建物跡、階段状の遺構などが確認されました。また、多量の土師質土器や輸入陶磁器、年号の刻された瓦などが出土しました。これらの遺構は、発掘調査の成果にもとづき城跡の現状を変更せずに伐採や植栽を行いながら、遺構には盛土をし、出土状態を復元しました。岡豊城の築城年代は不明ですが、15世紀後半から永正5~6年(1508~09)に落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで存続したものと考えられています。
岡豊城跡の詳しい内容はこちらから
県指定
木造長宗我部元親坐像
高知市秦神社蔵
長宗我部氏の家紋
丸に七ツ鳩酢草(かたばみ)
元親は、天文8年(1539)、長宗我部国親(くにちか)の長男として岡豊に生まれました。
国親は、他の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていましたが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけた本山氏との激戦の最中に突如病死。ただちに元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となりました。
その後、元親は父の志を継いだ戦で本山氏から朝倉城を奪い、土佐中央部を手中に収めます。また、本山氏・安芸氏・津野氏ら他の有力国人を相次いで降伏・滅亡させ、天正3年(1575)、念願の土佐統一を果たしました。
詰 礎石建物跡、石敷遺構〈復元〉
城跡からは、瓦片や土師質土器片とともに、青磁・白磁・染付(そめつけ)とよばれる輸入陶磁器片、瀬戸・備前・常滑(とこなめ)などの国産陶器片、青銅・鉄製品、銭貨などが出土しています。また年号が刻された瓦や火縄銃の弾丸や信仰関係の遺物、鉄製品、銭貨も出土しています。
![]() 天正三年銘瓦 |
長宗我部元親が土佐国を統一した天正3年(1575)に大規模な改修をしたことがこの瓦から考えられます。瓦には「おかう之御…」「瓦工泉州…」「…天正三年」「□□…」と刻されています。 |
![]() 犬形土製品 |
![]() 弾丸 |