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館日記・海の見える窓


「夢」と「出会い」をテーマに  2009年4月19日

 4月18−19日の2日間にわたって開催された「第一回現代龍馬学会」が終わった。準備から1年、立ち上げから半年。いよいよ総会が始まるんだという2日前の緊張は晴れ渡った空に消えていった。初夏の海も目に鮮やかである。

現代龍馬学会・尾ア高知県知事来賓あいさつの風景

 『何もかもが混迷を極め、未来へのヴィジョンが失われてしまったかに見える現代。坂本龍馬の思想と行動に学び、その精神を今日に生かそうとして、高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会は発足した』。
 7人の研究発表者の一人として、また、現代龍馬学会発表のトップバッターとして、私も演台に立たせていただいた。与えられた時間は短いけれど、掘り下げれば内容はどこまでも深い。どういった発表にするべきか、ずぼらな私なりに少しは悩んだ。
 諸先輩、諸研究者の発表の口火切り役であるということは、初めて甲子園のマウンドに立つ高校球児のような気持ちである。しかも初めての龍馬学会。が、マウンドにいる神様(龍馬)も一緒なので何とかなるだろうという気持ちで臨んだ。
 1日目の総会、発会式のあと、自分の発表を終え、他の発表を聞き終わったとき、えも言われぬ気持ちの良い風が吹いた。2日目、分科会での討論。西村直記さんのトークコンサートの後の総括と宣言文発表。2日間を終えた会場に、充足感が加わった心地よい風が吹いた。
 『三十三年の生涯で龍馬が夢見たもの、それはヒューマニズムに根ざした新しい日本の建設だった。道義が廃れ、理想が失われつつある現代、龍馬の意志と情熱を受け継ぎ、私たちの時代と社会を見つめ直していきたい』。
 『  』は2日間を終えた現代龍馬学会の宣言文(部分)である。学会とともに記念館の方向性が端的に表されている。いよいよ龍馬の風が吹く。
                                                              (ゆ)

「今月の賑わい」(独り言16) 2009年4月9日

 4月の記念館は大忙しである。
 まず、海の見える・ぎゃらりいでは1日〜5月10日(日)まで生野宏宜さんの「土佐の山間よりいずるもの」と題して石彫小品展を開催中。会場には河原の石に彫りこまれた様々な表情の顔が並んでいる。生野さんによって魂を吹き込まれた仁淀川の原石達には独特の雰囲気がある。間近に作品を見ていると、石に命が宿るまでの旅を想像してしまう。あなたは何を感じるだろう?

 12日(日)には“龍宮祭”だ。今年も春の桂浜に小学生扮する浦島太郎と乙姫様のパレード、大人と子どものペンギンダンス、紙芝居、そして今年の龍宮祭の圧巻は、大漁旗を掲げた漁船団が桂浜沖を舞い踊る!空と海の青をバックに心地よい風に吹かれながら桂浜を体感してみてはどうだろう。いつもあっという間に売切れるチラシ寿司とてんぷらも、もちろん販売される。みんなで気分はもう桂浜!?

 その次の18日(土)・19日(日)には「第1回 高知県立坂本龍馬記念館・現代龍馬学会」が開催される。2日間に渡って総会、発会式、研究発表、分科討論会、コンサート、宣言文発表と龍馬一色。盛りだくさんのプログラムである。“単に歴史研究ではなく、龍馬を現代にどう位置づけていけばいいかを広く考察する”という考えから立ち上がった「現代龍馬学会」。一般の方も参加自由!

 学会準備も最終段階に入り、どんな意見が飛び出してくるかスタッフも期待いっぱいだ。各イベントの詳細は記念館のホームページをごらんいただくかお問い合わせください。それではみなさん、どこかでお会いしましょう!!
                                                              (M)

「土佐の焼き物勢揃い」 2009年3月31日

明日から「近世土佐の焼き物」展が始まります。

伊万里や唐津に劣らないとも評される土佐の焼き物「尾戸焼」「能茶山焼」がズラリ勢揃い!
これまであまり人目に触れる機会のなかった個人所蔵の名品だけを一堂に集めました。

本物のかつおと見間違うほどにリアルな「尾戸焼 鰹形蓋物」。
かつおの身の部分が蓋になっていて、中に蒸し物などを入れて蓋をしておくと
いつまでも温かいままで食べられるようになっています。

こちらも本物そっくりな「尾戸焼 南京形振出」。
野菜売り場にあったら、気付かずに手に取ってしまいそうです。
“振出”とはお茶道具の一種で、金平糖を入れる器。
かぼちゃのヘタ部分が蓋になっています。

「尾戸焼 いられ燗」です。
“いられ”とは土佐弁で“せっかちな人”という意味です。
通常、日本酒の熱燗は沸かしたお湯の中に徳利を入れ湯煎をして温めますが
この徳利は上から見るとドーナツ形をしており、すばやく熱が伝わる仕組みになっています。
さらに、湯煎ではなく炭をおこしたところに直接くべて温めます。
“いられ”な土佐人独特の文化です。

「ワシはいられ燗でも酒が沸くのが待てんきに、最近は“冷や”で飲みよらーよ。」
とは土佐歴史資料研究会のAさんの言葉。

この他にも、茶道具や徳利、皿など100点あまりの焼き物がご覧いただけます。
ぜひこの機会に土佐の焼き物に触れてみてください。
そして、土佐の焼き物を通して江戸・幕末の雰囲気を感じていただければと考えています。


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 「近世土佐(江戸・幕末・明治)の焼き物」展
 平成21年4月1日(水) 〜 7月17日(金)
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                                                              (雪)

「坂本家の葛篭(つづら)」 2009年3月20日

 坂本家の葛篭(つづら)
  札幌・坂本家に伝わる葛篭(つづら)を「坂本家の居間」に展示している。
   蓋つき、木製、クロス張り。
  「坂本」の金文字が印象的だ。
  明治末期から大正時代の初めに郷士坂本家7代当主・坂本弥太郎が作り、活用したもので、
  かつては20個以上あったのだろう。
  龍馬の資料もこの葛篭に入って北海道内を移動していたのかと思うと胸に迫るものがある。
  葛篭には無造作に「坂本 桂 山内容堂 武市半平太 中岡 勝海舟 吉村虎太郎」という
  シールが貼られているが、この中には弥太郎が集めた画家・公文菊僊(きくせん)の描いた肖像画が
  入れられていた。
  坂本直寛(龍馬の甥)に認められただけあって、婿養子の弥太郎は熱心なクリスチャンで、
  実業家としても大成した。坂本家への執着も強く、彼によって坂本家や龍馬資料は守られてきた。

直寛の長女・直意との間に10人の子どもがおり、その時々、正装した家族写真には弥太郎の意気込みが撮られている。
ここ数年、弥太郎さんをはじめ古今の坂本家の人々とおつき合いさせていただいた。
写真を見れば、誰がどんな様子だったのか、だいたい分かるようになった。
坂本家に対してどこか懐かしい親戚のような気持ちも生まれている。
龍馬精神を受け継いできた坂本家の人々や、海援隊約規についての半年に及ぶ企画展示はまもなく“千秋楽”。
土佐に旅した葛篭とともに、龍馬の資料や高松太郎らの遺品が北海道へ帰っていく。別れと出会いの春である。
さて、次の企画展は「近世土佐の焼物」展(24日〜7月17日)。
名品、逸品が並びます。乞うご期待!ぜひご覧ください。
                                                              (ゆ)

「元気印のおばあちゃん」 2009年3月7日

ひなまつり色紙  春めいてきた。
  張り詰めたような弧が緩み、水平線がかすむ日がある。
  三寒四温を繰り返しながら、確実に春は来ている。 
  入館者の服装もずいぶん軽くなってきた。
  3月3日ひなまつり。2階の一角に、短歌愛好家たちの「乙女姉やんのひなまつり」
  という小さな展示が行われた。
  70代から80代(もしや90代も)の方たちが張り切って色紙に書いた短歌を持ち寄ったもの。
  失礼ながらお世辞にも“上手”とは言えないが、館長同様、龍馬も乙女姉やんも苦笑していそ
  うなくらい元気がある。
  龍馬ファンの方たちらしく、昨年の龍馬像建立80年の時も、記念の5月27日に賑々しくお
  祝いの会を自主的に開催された。とにかく元気。記念館でやるのが一番ふさわしいという
  意気込みがメンバーにあふれている。
  中には最近まで九州で学ぶ高校生の孫を毎週末ごとに高知から送り迎えしたという70代の
  方もいる。
  おばあちゃんパワーはすごい。
  介護だ、デイケアだと、福祉施策がかまびすしく言われた時期が去り、今は派遣切りにニュース
  は集中している。 ニュースが騒いだ後にいったい何が残るのか。
  生きるということはブームではなく生きるという現実である。
  語呂合わせのような短歌に苦笑しながら夜間に色紙を貼ったが、若者に負けない元気なお年寄りたちの姿はうれしい。老いていく両親を見ている身にはうらやましくもある。
「館長さ〜ん」とやってくるおばあちゃんに、「もう来んでもえい」と館長。言われても屈せず、かくいう館長も追い返すではない。おばあちゃんのめげない精神に笑いがあふれる。
春の光が明るい。
                                                              (ゆ)

「風のリーフレット」 2009年2月24日

手元に一部のリーフレットがある。
表紙の題は「龍馬と歩く」。
龍馬・桂浜プロジェクトの作成である。

龍馬と歩くリーフレット写真

このプロジェクトには地域の活性を目指す7社(公、民)が参加している。
坂本龍馬記念館もメンバーの一員。
思うところは、それぞれの“特技”を生かして、
桂浜を“龍馬の聖地”にしようと燃えていることだ。
 先日、リーフレット作りのために、熟慮したモデルルートをバスで試走してみた。
龍馬生誕地を皮切りに、坂本家の墓所、田中良助邸、八畳岩にも立った。
寄り道して、岡田以蔵のお墓。
息切らせながら和霊神社の階段も上った。
 解説、ガイドは館の学芸員。
「やっぱり、違う。面白かったし、龍馬がぐんと近くなった」
評判上々の試走となった。
 その成果が、このリーフレットに変わった。
龍馬が胸を張っている。
桂浜の海はあくまでも青い。
リーフレットはやがて旅立つ。
風になって日本のあちこちを旅する。
そして、龍馬ファンを連れて桂浜に戻ってくる。
 その様子を想像して、独り笑いしてしまった。
                                                              (揺)

「龍馬からの手紙」 2009年2月12日

 開館前の誰もいない展示室。企画展コーナーに入ってすぐ左にある、腰の高さの小振りな展示ケースの前で足を止める。
 中に納まっているのは龍馬直筆の本物の手紙。ガラスに顔を近づけ、しゃがんでみる。手紙との間隔はわずか。龍馬はこの紙をこれくらい近づけて書き、手にして紙面を見つめたのかもしれない。濃く、薄く、かすれ、また濃く、薄く、かすれ…。のびのびと踊るような筆遣いの文字が、言葉が、心の声が直に語りかけてくるような不思議な感覚。
 書き留められているのは龍馬の生きた時間の中の一瞬。気持ちのまま一気に筆を走らせた手紙そのものをこんな間近で目にしているなんて…。
 宛名は「乙様」。遠く離れた大事な弟の手紙を乙女姉さんは何よりうれしく読んだのだろう。全く関係のない他人ながら読ませてもらった私まで、包み込まれるような温かな気持ちになれる。
 142年の時を経て、今彼の手紙はすべて、読む人皆に宛てられた龍馬からの励ましの手紙になったのかもしれない。共感し、笑顔になり、涙がこぼれ、元気をもらい、勇気づけられ…。どれだけ時が経とうと、人の思いは色褪せないものなのだ。
                                                              (床)

「弟、龍馬の手紙読む、姉、乙女…」 2009年1月31日

 先日、女優の小林 綾子さんと、シンセサイザー奏者・作曲家の西村 直記さんが館に来られた。



実は今年、お二人に「龍馬の手紙」を読む朗読・コンサートなるイベントをお願いしてある。
来高はその第1回目の打ち合わせ。
龍馬の手紙は、館の目玉である。
中でも、龍馬が姉の乙女に宛てた手紙は、龍馬の真情にあふれている。
龍馬を人間的に理解するには最も分かりやすい資料と言っていい。
そこで小林さんに「乙女」になってもらって、
弟、龍馬から届いた手紙を読んでもらう。
龍馬の心だけでなく、
弟を思う姉の心も表現していただく。
 資料だけでは窺えない“幕末の世界”が生まれるはずである。
西村さん作曲の龍馬の曲がサイドを固める。
館の学芸員の解説が事態をコメントする。
打ち合わせは2時間あまり。
 話は一挙に確信に及んだ。
「やりましょう」小林さんの目が光った。
西村さんは「いい曲、考えます」とはや天井を見上げる。
目はつむっていた。
「あの姉ヤンに書いた手紙が読まれるがか。こそばいけんどまあえいか。たのしみぜよ。」
龍馬の声が聞えた。
 本番は11月14日。高知県立美術館ホールだ。
                                                              (揺)

「隣の熱気」 2009年1月19日

 今アメリカが熱い!
 世界中がオバマ大統領を注目しているからだ。
 それは私のようなアジアの一市民を含めた多くの人が疲弊し行き詰まった世界への「change 変化」を求め、「Yes,we can!そう、できるんだ!」と、熱い思いを奮起していることに他ならない。
 ホワイトハウスに黒人の大統領が入ることの凄さ。アメリカは今、独立宣言当時の原点に返ろうとしているかに見える。久々の感動である。
 有名なリンカーンのゲティスバーグ演説にある「人民の人民による人民のための政治」。明治時代、自由と平等を掲げ土佐から起こった自由民権運動家たちの思いであり、昭和には日本国憲法に引き継がれた民主的な言葉である。その言葉を胸に、オバマ大統領は進む。
 私が子どもの頃、アメリカは輝いて見えた。アトムとともに育った私たちはアポロの活躍に心躍らせ、アメリカに自由と平等、明るい未来を感じることができた。アメリカ留学をする友が眩しかった。
 アトランタオリンピック(1996年)では、キング牧師の“夢”を思い出したが、それもつかの間、私たちはアメリカへの失望を大きくするしかなかった。日本の政治が彷徨し始めてからも長い。
 今、忍耐と理想主義を掲げながら新しいアメリカを再建しようとするオバマ大統領や米国民の熱気が海から伝わってくる。その波動は大きいようだ。
 西部劇を観、フォスターを奏で、古き良きアメリカを愛する父は、子どもの私によく言った。高知の隣はアメリカ…だと。ジョン万次郎に教えられたのかもしれない。事実、この海の向こうにはアメリカがあるのだ。
 大統領就任式を前に、私はそのことを強く感じている。 
                                                              (ゆ)

「一本の襷(たすき)」 2009年1月6日

 正月恒例の箱根駅伝を見た。
 といってもテレビ観戦なので、CMが入ったり、途中コーヒーを淹れたり、別のことをしたりで、始終見ていたわけではない。寒風の中の観戦と違って、箱根の山や大手町など盛り上がった場面だけの応援は安気なものである。
 それにしても今年はいつもに増して、全ての走者の健闘を讃えたいという思いが強かった。
 ダークホースだった勝者・東洋大。早稲田アンカーは2位にもかかわらず仲間に申し訳ないという仕草でゴール。選抜チームの踏ん張り。棄権となり記録に残ることがなくても走り通した城西大。選手に選ばれた者、選ばれなかった者。大学生が一本のたすきをつなぐために200キロ余りの道をひたすら走る感動に理屈はいらない。
 勝敗へのこだわりと走ることへのこだわりは同じものなのだろう。順位によらず、たすきを渡し、受け取る選手の顔には走ることへの誇りがにじんでいる。
 一本のたすきに託す夢と誇り。
 時代も同じだ。一人の力で歴史はつくれない。あまたの人生を集約して時代はつくられ、道なき道に歴史が刻まれていく。人々が、時代が、一本のたすきを次につないでいくのである。
 今、時代が龍馬を希求している。龍馬のたすきは重い。しかし、後部集団で走っていた龍馬が、ごぼう抜きで先頭集団に躍り出て、一年後には大河ドラマで日本を駆けてゆく。私たち応援団にも力が入ってきた。
 ゴールを切った選手たちがそのまま練習へと駆け出すように、毎日の積み重ねが勝負の強さにつながる。走るのみ。牛歩のごとく、うまずたゆまず前進するのみ。
 駅伝を見ながら、私は自分自身にそう言い聞かせていた。
                                                              (ゆ)

「新年に思う」 2009年1月1日

 忙しなく喧騒の中に暮れた平成20年。
けじめがなくなった生活サイクルは、
多くの課題を引きずったまま、平成21年へと滑り込んだ。
 混沌世相の平成を殺伐幕末に重ね合わせると、
「平成の龍馬よ、出でよ!」巷の声が真剣である。
実際、館も入館者の皆さんから、そんな気配を感じている。
“龍馬を体感したい”
“龍馬をもっと知りたい”
“うわさに聞く龍馬はやっぱりすごい”
皆さんの感動の熱気にたじたじである。
今年予定の企画展は、その熱気に応えるに十分だと自負している。
 メイン企画は秋に予定している「風になった龍馬」(仮)。
館の創立20周年(平成23年)に向け、初めての3年連続企画である。
龍馬・勝海舟・ジョン万次郎に焦点を合わせ、
世界と海をベースに彼らの夢見た世界を追う。
夏場は、―龍馬の嫌った戦争・戊辰戦争―を予定している。
戦争のもたらすもの、その意味を考える。
いずれも思うところは「自由と平等」その先にある「平和社会」の実現よりほかにない。
 龍馬を常に頭に置きながら、「チャレンジ」「前進」。
それが館の今年の目標。宜しくお願いいたします。
                                                              (揺)

「侮れない子どもたち」 2008年12月24日

 当館では今年9月、小学生向けの龍馬紙芝居を作成した。現在はそれを持って県内の小学校巡りをしたり、館を訪れた子どもたちに読んだりしている。まだ歴史を学ぶ前の低学年の頃から龍馬に親しんでもらいたい、というねらいで、いじめをテーマに簡単で分かりやすい内容にできている。今まで館を訪れる小学生は大抵5・6年生だったが、紙芝居を始めてから、2・3年生の来館が目立つようになってきた。とても嬉しい傾向である。
 基本的にはこちらから出向いて、1時間目の授業が始まるまでのわずかな時間を頂いて読むのだが、先日は45分頂いて、3年生に紙芝居と龍馬の話をしてきた。紙芝居の前に、子ども用パンフレットを配って龍馬のプロフィールや家族の紹介を行い、その後に紙芝居を読んだ。興味深そうに聞いてくれて、所々笑い声もあって上々の手応えだった。紙芝居後に、龍馬の行った仕事について話しをしようと考えていたが、意外にも質問の手が次々と挙がり、それに答えるだけで時間を費やしてしまった。
 最初の質問は、「龍馬が写真を撮った時は白黒写真だったんですか?」というものだった。「そうです。昔の写真は・・・」と答えていると、横から別の子が「昔の写真は薬品を使ってたんだよ」と教えてくれた。「えっ!そ・その通りです」(なぜ知ってるの?君は本当に小学3年生?)と思いながら私は答えました。その他「篤姫と龍馬は友達だったんですか?」など大河ドラマ関係の質問もあった。それから、パンフレットの「龍馬は新しい物好き」の文章を見て「今の高知県の人は新しい物好きで、新しいお店ができるとすぐに駆け付けて満員になるけど、龍馬も同じ高知県人なんだと思いました」という感想もあった。
 先生が「この質問で最後ね」と言ってからも4・5人手が挙がるほどで、3年生といえども侮れないなと思った45分だった。紙芝居のお陰で、今まで接する機会が無かった学年と接することができ、とても新鮮でこれからが楽しみになってきた。
                                                              (抜)

「過ぎ行く日々」 2008年12月17日

もう師走も半ばになり、今年もあとわずか。
受付に座るとちょうど目の高さに見える歩道の上、降りそそぐように落ちゆく木の葉が風に舞う乾いた音。
その先の遊歩道にびっしりと落ちていたシイの実も今はまばら。
勤務時間前に早く来てたくさん拾ったシイの実を、家で水にくぐらせて干してきたからと、いつも明るくまじめな警備員さんKちゃんが分けてくれたのはほんのこの前だったような・・・。彼女の心遣いをうれしく思いながら、大喜びの娘とフライパンで煎ったシイの実はなんとも香ばしい秋の味だった。
短かった秋・・・。
寒い朝、「はや正月が来るぞ。…いよいよ(土佐弁:本当に)早い。」としみじみつぶやく館長。
思えば歳を重ねるごとに、月日は加速度を上げて飛ぶように過ぎていく。
展示室の龍馬の写真を目にすれば、彼の33年の生涯もまるで駆け抜けるようであったろうと思いを馳せずにはいられない。
その短い33年間、命を賭けても成し遂げたい熱い思い、心揺さぶられるできごと、すばらしい人々との出会いと交流・・・、あんなにも多くの手紙に書き残せるほど人に伝えたいことがあった龍馬の人生は、本当に豊かなものだったのだと思える。
信念を持って何かを成す達成感は容易に得られるものではない。
それでも様々なものを自分なりに感じながら、
心豊かに生きていきたい。
美しいものを目にする感動、人の温かな心、大切な人達とのつながり、その中で何気なく交わす会話、笑顔、さりげない優しさ、思いやり・・・。
足早に過ぎ行く日々だからこそほんのひとときの小さな幸福感も大事にしたい。
                                                               (床)

「思いは同じ」 2008年12月8日

龍馬記念館には老若男女問わず、毎日たくさんの方が来館される。
全国、はたまた海外からもやってくる。
育った土地も環境も違う人達が龍馬を知って同じ思いを抱いて帰っていく。
思いをつなげる龍馬はすごいと日々実感する。
他人と他人が分かり合うことは簡単なことではないし、時間もかかる。
けれど、何か一つでも同じ思いを持っていれば、分かり合えるのだと、たった1時間前までは全く知らなかった人達と龍馬を語って、そう思う。
龍馬は人と人とのつながりを大事にしていたが、ここで働く中で、そのことの大切さを身を持って学んでいる。
龍馬記念館で働く者として、もっともっと龍馬の魅力を伝えられるよう、思いと思いをつなげられるよう、日々頑張っていきたい。                                                               (西)

「改めて、龍馬の魅力」 2008年11月29日

「 ― 拝啓龍馬殿 ―
  一介の、何の身分も力もない“普通”の男であった龍馬さんがこの日本を“センタク”したということは
  同じ“普通”の男である僕に“ヤル気”と“勇気”をものすごく与えてくれました。
  何かにめげそうになった時には龍馬さんのことを想い起こし、
  失敗を恐れずに、常に前向きに頑張っていきたいと思います。
  これからも龍馬さんの事をずっと尊敬させていただきます。
  また高知の方に寄らせていただきます。

   H11.11.1 大阪 Y・N
                                  高知県立坂本龍馬記念館編集
                                 『ほいたら待ちゆうき 龍馬』より 」

 どうして龍馬はこんなに人気があるのか―――

 手紙などを見るとよく分かるが、坂本龍馬という人物は
 とても人間味があり身近に感じられる人であると同時に、
 今では考えられない、ひとつの国を動かすほどの活躍をした人でもある。
 身近に感じられるから大好きになるし、
 憧れの存在としてその背中を追い続けることもできる。
 たとえ途中でくじけそうになったとしても、
 幾多の困難を乗り越えて、なおも夢を追い続けた龍馬の行動力を思ってまた励まされる。

   “親しみやすさ”と“憧れ”の両方を持ち合わせた人物はそうはいない。
 それが龍馬の魅力。

 夢を持つことの大切さを教えてくれた龍馬と一緒に夢の実現に向けてがんばっている人が、
 日本に限らず、この世界中にたくさんいる。
 そんな人たちにおススメしたいのが、

  『ほいたら待ちゆうき 龍馬』

   夢の実現に向けてがんばっている人、夢を叶えた人、まだ夢の模索中の人、
  みんなそれぞれ形は違うけれど
  龍馬に、いや“龍馬の生き様”に励まされてがんばっている人たちのメッセージがつまった一冊です。

   龍馬の見た海の「青」と、ニッポンの夜明けの「オレンジ」の表紙が目印です。
  ぜひ一度ご覧ください。

  ほいたら待ちゆうきね。
                                                                (雪)

「生涯無料」 2008年11月21日

 いよいよ始まった。
インターネット龍馬検定上級編である。
スタートから1週間に足らぬが、30人がチャレンジしている。
しかし今のところ合格者はいない。
学芸員が練りに練った問題だし、
合格点90点のハードルも厳しい。
“難し過ぎるかも”ふと、そんな思いが胸をよぎった。
ただ、それだけに合格者には、館も大いに敬意を払っている。
坂本龍馬記念館の生涯無料パス、
それに「龍馬SK大使」つまり龍馬の“知識普及員”としての称号を贈ることになっている。
100点だと2泊3日の旅行付き。
館としては思い切った賞品である。
 100点続出などの事態は、
うれしさ半分、正直、懐算用に泣きべそだろう。
“難しいかも“と懸念したその翌日その思いは吹き飛んだ。
皆さんじりじり点数を上げてきているのだ。
すでに80点台を記録した人も数人。
 第一号上級合格者の姿が視界に入ってきたように思う。
その日は近い。そう感じる。
                                                                (揺)

「人祭ーじんさいー」 2008年11月12日

「この街のために−魅せます、心意気−」
これをテーマに行なわれたイベント「人祭」(じんさい)に龍馬記念館もブース出店してきました。
「人祭」は、今年が第1回目となる、新たに立ち上げられたイベントで
11月8(土)9(日)10(月)と、高知市の中央公園で行なわれました。
高知市の中心街で飲食店を営む方たちのブースでは、ビールやカクテルなどのアルコール類から
コロッケ、焼きそば、豚汁、そして高知名物「塩たたき」までが販売され
公園中央に設けられたステージの上では、地元バンドによるライブやよさこいパフォーマンス
「RYOMA生誕記念クイズ」などが催されました。
小雨の降る中にも関わらず、多くの方がお祭りに参加し、普段から中央公園を通り道にしている方たちも
ビール片手にブースをのぞいたりと、お祭りは大盛況でした☆

が・・・、龍馬記念館のブースは足を止める人もまばらで、吹きっさらしのテントの中
色々な意味で寒さが身にしみる2日間となりました(T−T)。。。

しかし、この経験から見えてきたことも!

記念館のミュージアムショップに来てくださる方と言えば、龍馬が大好きで、桂浜の龍馬像と記念館を目当てに
全国各地からはるばる訪ねてくださる方ばかりなので、龍馬グッズへの反応もとても良いのですが、
高知の人にとって龍馬は、“英雄”ではなく、“詳しくは知らんけどちょっとスゴいことをしたおんちゃん”
なので、中央公園で龍馬のグッズが売られていても、誰もが、「ふ〜ん、龍馬ねぇ〜」という顔で通り過ぎてしまうのです。
龍馬にさほど興味のない高知の人々のそうした反応はとても新鮮に感じられました。
以前にとったデータから、龍馬記念館の来館者のうち、高知県内の方は1割にも満たないことが分かっています。
龍馬記念館の今後の課題は、やはり、高知県内からもっとたくさんの方にお越しいただくことなのです。

* * * 高知県のみなさんへ * * *
「坂本龍馬記念館」って知っちゅう?
聞いたことはあるけど、どこにあるか分からん??
龍馬記念館は浦戸城の跡地、桂浜の龍馬の銅像から車で2分の所に建っちゅうで。
みんなも、小さい頃に遠足で桂浜に行ったことあるろぉ。あの近くやき。
ここからの眺めは最高で!
みんなが子どもの頃に遠足で見た海と、龍馬が170年前に見た海と、
今ここから見える海と、なんちゃあ変わらんで。
そんなん見んでも分かっちゅう?
いやいや!まぁえいき、いっぺん見に来て!!
ほいたら待ちゆうきね〜。
* * * * * * * * * * * *
 
一度、ここに足をお運びいただき、龍馬の見た海を眺めてみてください。
そして、龍馬の手紙をちらっとでもいいので読んでみてください。
「あぁ、坂本龍馬って、けっこうスゴいことした人ながやね」
そう思っていただけるはずです。
「まぁ、眺めもいいし、今度県外から友達が来たら連れて来ちゃろぉかな」
と思っていただければ大喜びです☆

もちろん!高知県外の龍馬ファンのみなさんのお越しもお待ちしております。

ほいたら待ちゆうき。

                                                               (雪)

「龍馬像原型」 2008年11月8日

 本山白雲作、桂浜の龍馬像原型が、企画展示室に座って一ヶ月になる。
毎朝、「おはよう」と挨拶するのが日課になった。
なぜか「おやすみ」は言ってない。
と言うことは私にとって龍馬像は朝型イメージかもしれない。
仕事前に元気と勇気をもらう。
 像の前に立つと、その時々、表情を変えるように感じる。
いかめしい日があれば、穏やかな目線に和んで見える日も。
毅然とりりしくそれでいて優しさがこたえられない。
後ろ姿の肩の辺りに優しさを止まらせている。

龍馬像原型ポストカードセット

   そんな龍馬表情をポストカードに作ってみた。
7枚組。一枚は実際の桂浜像。原型の表情は6枚である。
厳選の6枚。
初めての公開記念。1セット500円で限定販売を開始しました。

 そう、「龍馬伝」の龍馬役が福山雅治さんに決定です。
原型の龍馬サンも異存なさそうですよ。
                                                               (揺)

「晩秋の夕空」 2008年11月2日

 夕刻、辺りが少しずつ暗くなり始めた頃。
「今空がすごくきれいなき、カメラ用意して。」と誰か(館長?)の声。
薄暗い海と空を想像しながら、居合わせた職員とともに海側の広場に出て息をのんだ。

   

  空一面に広がる雲は美しすぎる茜色。ほの暗いブルーグレーの空との幻想的なコントラスト。沈みきったはずの太陽の残光が、複雑な形の雲を染め、海原にも淡いピンク色を映して・・・。
 しかしそれもつかの間、ふと気づけば茜の光は消え、群青の空わずかに星の瞬き。
 自然の成せる神秘な美しさを皆で共感し、笑顔を交わして心和んだひと時だった。
                                                               (床)

「“会いたい”思い」 2008年10月26日

 見つめ合った瞬間、もう目が赤い。
親指と人差し指が目頭にゆく。
口元は震えていた。
「やえきさん!覚えちゅうかね。須崎の!」
「分かる、分かる!すさきの ○○さん!」
男同士、握り合った手がもう抱き合っていた。

 館の「海の見える・ぎゃらりい」が今、演歌そこのけ、“涙の再会場”になっている。
ギャラリーでは洋画家、挿絵画家の吉松八重樹さん(82)の油絵と挿絵の展示している。
題して「吉松八重樹と故郷との出会い」展(11月16日)
上野の森美術鑑賞を受賞した大作50号の油絵、川端康成もほめた「雪国」駒子の挿絵。
約100点が並ぶ。
東京在住の吉松さんは地元浦戸の出身である。
ただ、機会に恵まれず、30年ぶりの帰郷となった。
 地元の人たち、吉松さん、互いの“会いたい”思いがスパークしたのだ。

 次から次へと現れる友人、知人。
見つめあい抱き合う。
取り巻く絵と広がる海が、時代の歯車を逆回転させ、止める。
幸せ気分が館内に満ちてゆく。
「涙を流して体重が軽くなりました」 三日目、ベレー帽の吉松さんは言いながらもう涙であった。
窓の外は、季節を急ぐ秋雨が、灰色の海に消えてゆく。
                                                               (揺)

「桂浜に『RYOMA』を描く」 2008年10月15日

来月11月16日(日)桂浜で「龍馬まつり」が開催される。
少年剣道大会や宝探し、綱引き大会など多彩な行事が予定されている。
地元、浦戸地区の皆さんの企画は、
龍馬を呼ぼう!大漁旗と人のパフォーマンス“おーい龍馬”である。
これが面白い。
面白いが、結構手がかかる。ま、それだけにやりがいもあろうと言うもの。
簡単に言えば、桂浜の砂地に大漁旗を使って『RYOMA』の文字を描く。
ただ、立てたり敷いたりするのではない。
一枚2メートル×2.5メートルの大漁旗の四隅を人間一人ひとりが持つ。
これが“ミソ”である。
リーダーの合図で上げたり下げたり。
一回15分間のパフォーマンスを、午前と午後の2回演出する。
中で「おーーい龍馬」を合唱だ。
机上の計算では、動員800人が目標。
これが難題。地元だけでは当然足りそうにない。
そこで他のイベントに参加している人も、
観光客にも、もちろん大人、子供関係なし。
お手伝いを呼びかけることにしている。
桂浜の波と風。
大声で「おーーーい 龍馬あーーーー」
大合唱。
気分いいと思いませんか。
                                                               (揺)

「鳩がとまった」 2008年10月6日

  10月の声を聞いて雨になった。
 最初の土、日が雨。
 季節はどうも一挙に秋を深める魂胆らしい。
 煙る雨をついてその日曜日。
 県知事と高知市長を先頭に観光行政に関わるお歴歴が桂浜にやって来た。
 しかも浦戸湾を船で渡って、桂浜に上陸である。
 実は、再来年のNHK大河ドラマが“龍馬伝”に決まったのはご承知のとおり。
 これを県勢浮揚のきっかけにしよう、というのは日本国中同じ事だが、
 しかし高知はやはり本家。
 本家の中でも本家は銅像の立つ桂浜である。
 必勝を期して銅像前の祈願祭となったわけだ。
 「雨でも龍馬はやっぱりかっこいい」「世界を見ゆうぜよ」
 一同、龍馬像の前に勢ぞろい。宮司さんの祝詞に頭を下げ、思いを込めた。

  ふと、龍馬を見上げた。
 眼鏡にかかった雨粒のせいか全体にぼやけ気味。
 龍馬の頭頂部が少し変に見えた。
 ちょんまげが前方にせり出してきた格好。
 しかもそれがぴこぴこ動いた。
 目を凝らす。13メートルの上空でやっと焦点を合わせた。
 鳩ではないか。鳩が止まって下界を見下ろしている。 そうだ、鳩は平和の使者。
 龍馬のオーラが呼んだに違いない。
全員の玉ぐし奉奠が終わるのを待って、鳩は雨空に消えて行った。
眼鏡の雨粒をハンカチで拭った。
龍馬がまた幸せを運んできてくれるそんな気がした。
                                                               (揺)

「9月が往く」 2008年9月29日

「幕末土佐の刀剣と鍔展」。
 9月はこの企画展の賑わいで館は例年のとは違う9月の賑わいであった。
ともすれば、愛好家だけの世界だったのが、広く若者、女性の域まで広がったように思う。
いつもと違うといえば入館者に地元の方が多かったこともある。
アンケートにはっきりその傾向が現れていた。
「10年ぶりに来たら様変わりしていた。今度は友達を誘って」
そんなメッセージに触れるとうれしくなる。刀剣展ではそんな気持ちにさせられることが、たびたびであった。
 暑い熱い夏は、見事に白刃が“暑い”を切り取った感じで、9月が往く。
 しかし“熱い”は残って、むしろヒートアップする構えだ。
10月からの企画は「海援隊約規物語」展。
今度のテーマは「家族」。龍馬の坂本家を紹介する。
また、話題性でいえば、桂浜龍馬像の原型が、初公開になる。
龍馬が自分の刀の目釘と下げ緒で作らせ、妻のお龍に送った帯締めも登場する。
 見飽きぬ逸品が、幕末の世界、龍馬の世界へ連れて行ってくれるのは間違いないだろう。
                                                               (揺)

「独り言 ]X」 2008年9月22日

 “海の見えるぎゃらりい”は記念館の二階南端にある。名前の通り、海と展示作品、両方が一度に見られるギャラリーだ。天候の変化に伴い刻一刻とその表情も変わってゆく。作品の背景として見えていた海が、時として前面に躍り出る瞬間があり、すると作品も違って見えてくるから面白い。
 9月17日から“第2回現代俳画「秋だから 桂浜」展”が始まった。先の展覧会でも出品頂いた山岸孝子先生主宰“かぶらの会”門下生の作品50点余りが、賑やかに展示されている。俳句と花々・静物・自然などが奔放に描かれ、皆さん思い思いに楽しまれている様子がよくわかる。
毎日ここに立って作品と海を眺めていると“何かをしたくなる”そんな気持にさせてくれる不思議な場所でもある。
 龍馬も忙しい日々、短い人生の中で色々なことを嗜んでいた。私もこの秋何かを始めてみようかしら。
                                                               (M)

「名札が掛かった」 2008年9月20日

図書、テレビコーナーのある館地下1階、事務所入り口の壁面に名札ボードができた。
横3メートル、縦2メートルの立派なものだ。
ブルーの板に漫画の龍馬が得意げな顔つきである。
お龍、西郷隆盛、高杉晋作、近藤勇もいるぞ。
「インターネット龍馬検定合格者」と表記されている。
「上級」「中級」。
「中級」欄に20日現在、掛かった札は22枚。
札には名前とその方の所在地域名が明記してある。
22枚は22人の合格者ということになる。
『三重』『東京』『茨城』『兵庫』『長野』『群馬』『高知』『愛媛』
『埼玉』『北海道』『大阪』『静岡』『奈良』。

ネット龍馬検定掲示板

二人合格の県もある。
初級と違って中級は有料だけに、やはり遊び気分では難しい。
しかし、中級開始2ヶ月足らずで22人の合格は正直、驚いている。
さすがだと思う。
 11月にはいよいよ「上級」もスタートだ。
ボード上級欄、現在は合格者として「坂本龍馬」の名札を一枚掛けてある。
龍馬に取って代わるのは?誰だろう?
                                                               (揺)

「一度に1500人の友達」 2008年9月13日

 入館者の皆さんが、龍馬に寄せた手紙「拝啓龍馬殿」を、一冊の本にまとめた。題が「ほいたら待ちゆうき 龍馬」。
 書店に並んで一ヶ月余りだが、「題名の意味がわからない」との声を聞きます。聞かれるたびに「土佐弁で、“そしたら待っていますから 龍馬”の意味です」と説明する。すると「何で龍馬が待つわけ?」。質問が追ってくる。そこが“ほいたら・・・”の狙いとするところなのである。よく聞いてくださったとこちらも唇、湿して熱がこもる。館には人生の節目に来られる方が多い。誰でも悩みはある。しかし相談相手がいない。悩みが深ければ深いほど親にも話せない。そんな時、海の彼方にいる龍馬に悩みを相談する。相談できるのは、龍馬が答えてくれるからである。しかも相談者だけにしか通じない“専用回線”を使って。「勇気もらいました」「決断します」「約束する!」など相談結果を報告して行かれることからも明らかである。龍馬はそう、相談されるのを待っている。相談する気で私は一日1回必ずこの本を開く。一度に1500人の友達ができた気がしている。
                                                               (揺)

「鍔」 2008年9月7日

現在、龍馬記念館では「幕末土佐の刀剣と鍔」展が開催中だ。
龍馬は刀剣好きだったというが、私自身はどちらかというと刀剣よりも鍔の方に興味を持った。
鍔を間近で見るのは今回が初めてだったが、見ていてあきのこない面白さがある。
細やかで丁寧な装飾が施されており、その中でも興味を惹かれたのは、兎の形をした鍔で、毛の一本一本まで描かれており、思わず見とれてしまう。
派手さはないが、小さな鍔の中に「書」や「水墨画」のような色のない色彩感覚を感じることができる。
これが職人技というものだろうか。
龍馬は新しいもの好きで色々身につけていたが、龍馬に限らず武士はなかなかハイセンスなものを身につけていたように思う。
開催期間中、じっくりと当時の美意識を勉強したい。
                                                               (西)

「学芸員の役得」 2008年8月31日

 学芸員の仕事をしていて、「得をしたなぁ」と感じる瞬間があります。学芸員は展示や調査などの目的で、“お宝”と呼べるような逸品に触れることができるのです。
 今、9月1日から始まる『幕末土佐の刀剣と鍔』展の準備で、色々な刀を借りて廻っていますが、刀剣ファンならよだれが出そうな素晴らしい刀を何点かお借りしています。その刀を手に取り眺めていると、本当に役得を感じてしまいます。間近で見る日本刀はとても美しく、魅入られて何本も収集する方の気持ちがよく分かります。
 刀の他にも、今年は当たり年なのか、役得を感じることが既に何回もありました。ある所で、幕末史を研究する上で非常に重要な資料が発見され、いち早く見せていただけたのも役得だと思います。
 また、個人の方から世界的にも珍しい時計を見せていただいたこともあります。幕末に活躍した志士が拝領した物で、ご子孫の家に伝わっていました。博物館でもめったに展示されることがない種類の時計で、本の中でしか見たことがありませんでした。まさに“お宝”中の“お宝”です。私は時計好きなので、一度は見てみたいと思っていましたが、まさか手にする機会に恵まれるとは思っていませんでした。これこそ役得以外の何ものでもありません。
 今年巡り会った貴重な資料の数々は、まだまだ調査が必要な段階ですので、公表はできていません。しかし、いずれ公表されたあかつきには、当館でも展示できるように努力したいと思っています。ご期待ください。まずは、その第一弾として美しい日本刀や鍔を展示しますので、ぜひ足をお運びください。
 これを書いていた今日、偶然にもまた一つ興味深い資料と巡り会うことができました。今年は本当に当たり年です。
                                                               (抜)

「夜の印象」 2008年8月23日

夜、信号待ちの車窓から景色を見る。
川面にゆらめいて広がる淡い金色の輝き。
見上げれば漆黒の空に雲に包まれ眩い光を放つ真丸な月。
浮かび上がる浦戸大橋のシルエット。
見慣れた昼間の風景とは別世界にも思われた。
昼間多くのお客様で賑わう龍馬記念館。
8月の土日は夜8時までの開館。
夜のとばりが降りたあとの2階展示室。
照明にてらし出される近江屋八畳間。
あの龍馬運命の日へと誘われるような夜の闇と静寂を
ガラス張りの展示室の向こうに感じて…。

昼間とはまた違う何かを感じに
夜の龍馬記念館に足を運んでみられませんか。
                                                               (床)

「独り言 ]W」 2008年8月15日

 館の「海の見えるぎゃらりい」に新しい出会いの風が吹いている。
「珊瑚とジュエリー“和”のコラボレーション」というタイトルで、谷内信之氏、森謙次氏の2人の作品が加わった。
 谷内氏は珊瑚に銀製品を中心としたジュエリーで「和と龍馬」を、森氏は珊瑚の他に鯨歯・猪牙・鹿角・木彫を使用して根付を中心に「ユーモア」をそれぞれ表現している。
 作品は30点あまり。ショーケースの中を覗き込むと、細かくリアルな小品が、自由と無限の広さをを感じさせ時間さえ忘れさせる。
 また、そばに飾った2人の写真が楽しい。高知市内の武家屋敷で写したという。和服姿の2人が、縁側に座って話をしている。とても晴れやかにいい顔をしている。取り巻く空気がよい。手を広げて2人は何を話しているのだろう?話題を想像していると、きっと龍馬もこのように気の合った仲間同士、“新しい日本造り”を語り合っていたのだろうと、その姿がダブって見えた。
 とにかく是非一度、ご覧になってみて下さい。彼らの作品を。
                                                               (M)

「龍馬の一日」 2008年8月10日

「館長サン、ここのところお客さん多いでしょう!」朝、出勤と同時に清掃のおばちゃんに声をかけられた。
にっこりの挨拶、声が弾んでいる。
「当然、夏休みお盆も近いし」と階段を下りながら私。
「いえ、特に今年はお子さんの姿が多いのでは、そうですよ」
「なんで?何で?また」
「ガラスに小さな手型が多いのです」
おばちゃんが喜んでいた。
 言われて展示ケースを蛍光灯の光の下ですかして見ると、なるほど転々と小さい手型が踊っている。
お父さんが、覗き込んでいる展示ケースの中を、背が足らないお子さんがぶら下がった拍子に付いたらしい、読みにくかったのだろうか、擦ったり、じっと手を突いていたものまで色々ある。
その手型をつけた子供らの姿を想像するのも楽しい。

 今日も、子供の声が館内にこだましている。
時に、ぐずる幼児の声も混じる。
テレビから「ウオーウオーウオウオーウオ・・・・」
そうアニメ「おーい竜馬」がかかっている。
子供も、大人も一緒になって今日は龍馬の一日。
町は“よさこいまつり”。
龍馬も踊っているかもしれない
                                                               (揺)

「ほいたら待ちゆうき 龍馬」発売! 2008年7月30日

 龍馬記念館の入館者が龍馬に寄せた手紙「拝啓龍馬殿」が一冊にまとまった。
一年がかりの労作である。
題して「ほいたら待ちゆうき 龍馬」=その意味は、そしたら待っていますから、龍馬=である。



新本の香りも新しい。
何より、作家1,500人である。
いや、12,000通の中の1,500通だから、皆さんの代表である。
 一通、一通に人生がある。
悲喜こもごも。同じものは無い。
校正途中で何度筆が止まったことか。
ひとりうなずくことも。
胸熱くも。
小説よりもドラマティックで、ドキュメンタリーより真実である。
 これほど皆さんに“読んでもらいたい”と願う本は無い。
読後の感想を語り合いたいとも思う。
不思議な一冊だ。
今日も鞄に入れている。
                                                               (揺)

「龍馬と私」 2007年7月26日

 高知の「さんさんテレビ」(フジ系)の、毎週金曜日夕方のスーパーニュースの中で、「龍馬と私」というコーナーが話題になっている。
 地元局制作の5週連続で、昨日4回目が終わった。
 内容は、龍馬記念館入館者の皆さんの中で、龍馬に手紙を書いたその筆者を取材したものである。10分そこそこのリポートだが、面白い。瞬間ジンときたりもする。それぞれの龍馬への思いが、それぞれの人生で綴られる。
震災、若さゆえの挫折、外国でのチャレンジ、戦争。
年代も、生活エリアも違う皆さんが「家族」のキーワードでしっかり結ばれている。
教えるのは、そう、「龍馬」。「龍馬さん」「龍馬サマ」「リュウマ」

  桂浜の龍馬像ははるか水平線を見やっている。
波の音、夏雲の広がり。蝉の声。
沖ゆく貨物船の船腹に白いラインが揺れる。
風はほんの少しだ。
「龍馬と私は」あと一回。8月1日の金曜日である。
                                                               (揺)

「1万件を突破」 2007年7月18日

 館のインターネットを使った「龍馬検定」のアクセスが1万件を突破した。
3ヶ月での達成である。
さすが龍馬さんの実力だと思う。 それだけ、広く浸透しているということになろう。
25問、1問1分の制限つき。
これが思ったよりプレッシャーだ。

 現時点で100点を3割ぐらいが占めている。
まだ徐々に増えてきている。
つまり、1度敗れて、なにくそ!もう一回!のチャレンジ組がいるらしい。
実は私も、3回アタックした。
100点「見事ぜよ」キャラクターの龍馬君にほめられて、
パソコンの前で独りニヤついている。

 8月から、中級編の開始。
これは有料である。
よほど自信なくして挑戦できまい。
ただし、それなりに賞品を用意する。
それも12月開始の上級編の前哨戦。
中、上級合格者の氏名は、館内の目に付くところに表示したいと考えている。
                                                               (揺)

「喝!」 2008年7月12日

大沢の"親分"は日曜の朝のテレビ番組でスポーツ選手に喝を入れる。
アントニオ猪木は頬をひっぱたいて喝を入れる。
龍馬はもうこの世にはいない人なのに、その存在が多くの人に喝を入れている。
スゴイと思う。
                                                               (雪)

「出版社のAさんの話」 2008年7月5日

 出版社のAさんが、このところ、龍馬記念館に日参である。
 日を追うごとに足どりが軽くなってきた。
 口も軽い。
 笑顔も出てきた。
 Aさんには、今回、龍馬記念館の入館者が龍馬に寄せて書いた手紙「拝啓龍馬殿」の製本化を依頼している。これは手紙12,000通から1,500通を選び一冊にまとめたものである。本の題名は土佐弁で「ほいたら待ちゆうき 龍馬」。訳すと、龍馬が「分かった、待っていますよ」という意味。作業に着手してから1年になる。いよいよラストスパートに入った。

 ただ、ここにくるまでに、Aさんとは幾度となく意見が衝突した。
 その苦労がやっと実ろうとしているのだ。
 笑顔のAさんが今や主導権を握った。
「さあ、皆さんがどう反応してくれるか。内容は言うことなしなんだから」
Aさんは龍馬ファンでもある。龍馬とファン、両者は“個人回線“で繋がっている。会話は心のやり取りである。
「龍馬監修の“心の辞書です“」AさんのVサインは肩の上であった。
 本は月末から全国の書店に並ぶ。
                                                               (揺)

「旅」 2008年6月27日

「旅」を一言で言い表すのは難しい。観光を目的とした旅、思い出を巡る旅、気持ちをリフレッシュさせるための旅、自分を見つめ直す旅、修行の旅…。旅の表情は色々ある。
龍馬も多くの旅をしている。特に、京都での死を迎えるまでのわずか5年間の間に福井、京都、下関、熊本、長崎…西へ東へ北へ南へ、新しい日本を夢見て命懸けの旅を続けた。
人間以外の生き物も旅をする。しかしそれは生きるための旅。寒い場所から暖かい場所へ、食べ物の少ない場所から豊かな場所へ、子育てをするのに適した場所へ。
彼らは旅をしなければ生きてはゆけない。
だが、人間は旅をせずとも生きてはいける。
でも、旅することで生きる勇気や元気のエネルギーを得る。

これは、私の推測でしかないのだが、太古の昔に生きていた私達の祖先の記憶がそうさせるのではないだろうかと思う。身体の中に刻み込まれたDNAが騒ぎ出すのかも。最近、日米英の国際研究チームが人間の祖先が「ホヤ」よりも、ヒトなど脊椎動物の祖先「ナメクジウオ」に近いと突き止めたという記事を見た。「ナメクジウオ」は実にヒトと遺伝子の6割が共通しているという。
つまり、何億年経った今でも人間も、そして人間以外の生き物、いずれも生き物としての原点は変わらないといえるのではないか。結局、生きるために旅をし続ける“運命”なのかもしれない。
旅する理由は変わろうともである。そう、龍馬は時代を超えてまだ「旅」している。
                                                               (西)

「風になった龍馬」 2008年6月20日

 6月は一年で館が一番静かな時期である。
梅雨の真っただ中。
駐車場に停車している車の下で、野良猫が雨宿り。
時は静かにけだるく流れていく。
 2階フロアに上がってみる。
「近江屋」のセットが妙にシンと鎮まっている。
若い学生風、女性の二人ずれが無言で部屋を見つめていた。
頭の中にそれぞれの龍馬と慎太郎がいるに違いない。
ひとりが、ゴックンとつばを飲み込んだのが分かった。
それを合図に、二人はふわりとその場を離れた。

   気が付いた。
館内に音楽が流れている。
緩やかに、緩やかに、疲れをとかすように。
「出会いの達人・龍馬」展に合わせて2階で開催中の「もう一つの展覧会」展。
歴史資料の中に、現代作家の作品が架かっている。
絵画、書道、俳画そして音楽も。
そう、流れているのは、
シンセサイザー奏者、西村直記さんの「風になった龍馬」だ。
西村さんは、この展覧会に龍馬をイメージして10曲を用意した。
それが、エンドレスで回る。龍馬の世界である。

 さっきの二人づれが、並んで“龍馬の見た海”を眺めていた。
曲は「龍馬フォーエバー」に変わった。
                                                               (揺)

「身近なヒーロー」 2008年6月14日

「お久しぶりです。昨年結婚して、今日はヨメさんと一緒に来てみました。・・・・・」
「お久しぶりですね…。7年ぶりになりますか…。・・・・・」
「龍馬さん、久しぶり!・・・・・」
これらはすべて、「拝啓龍馬殿」に寄せられたメッセージの一文。

ときに、“英雄”とまで称される龍馬。
“英雄”と言えば、ナポレオン。
だけどナポレオンに、「ナポレオン、久しぶり!」と語りかけたり、
「結婚しました。」と報告する人はいないのではないだろうか…。

龍馬の最大の魅力、それは“身近に感じられる”というところだ。
そこが、他の“英雄”と呼ばれる人たちと違っている。

土佐の郷士の次男に生まれた龍馬は、特に恵まれた環境にいたわけでもない。
でもほんのちょっとだけ大きな夢を持っていて、
様々な人たちとの出会いの中で、色んな知恵・考え方を吸収して行動した結果、
日本の歴史を動かすことにつながった。

特別ではなく、龍馬より年下の人にとっても、年上の人にとっても、頼れる・憧れのお兄さん、
それが、世界で唯一の“身近なヒーロー”坂本龍馬なのだ。
                                                               (雪)

「独り言 TV」 2008年6月9日

 今、開催中の「出会いの達人・龍馬」展にアクセントをつけるねらいで、館の2階スペースを使って「もう一つの展覧会」展というのを始めた。展覧会に重ねての展覧会だ。これは以前、館のギャラリーで企画展をお願いしたアーティストの先生方に“出会い“をテーマに新たに作品を制作して頂き、その作品を常設展示空間に置こうという試みである。
 各先生方のメッセージパネルを作るために、制作現場をのぞかせていただき、写真を撮った。書の先生宅では部屋に入るなり、すりだちの墨の香りに足が止まった。精神的にとても落ち着く筋の通った芳香であった。そこから生まれた作品は、非常に勢いよく大胆で、男性的に思えた。次は洋画の先生のアトリエ。油と絵の具の匂いがプーンとして、自由に動く筆のタッチに懐かしさを覚えた。

 作曲をお願いしてあった先生からは“風になった龍馬”というタイトルの楽譜が届いた。ト長調のメロディーだけがModeratoでと記されている。早速ピアノで弾いてみた。生まれたての音符たちから聞こえてくる主旋律は、優しく、柔らかく頬を爽やかに撫でてゆく風のような龍馬だった。

 作家の制作現場を拝見出来るというのは、特別な空間の貴重なエネルギーを感じ取れる、私にとってはわくわくさせられる場所で、かつて舞台装置を制作した時と同じ感情である。そのエネルギーの集結が一枚のパネルになる。龍馬が引き合わせたアーティストの面々、皆さんそれぞれになんとも魅力的なお顔をされていると思うのです。会場でお楽しみください。
                                                               (M)

「出会わせの達人・龍馬」 2008年5月29日

現在「出会いの達人龍馬展」を開催しています。
龍馬はその時々にぴったりの人物と出会い、話を聞き、その考えを取り入れて、
新しい時代を創った男と言われるまでの活躍をすることができた。
これは龍馬の人柄もあるが、生まれ持った才能のような気がする。

そんな龍馬には、人を人に“出会わせる”才能もあるようで、
龍馬と出会って5年、私にも龍馬が縁となってたくさんの出会いがあった。

龍馬記念館をとりまく人達との出会い。
龍馬を尊敬する熱い人達との出会い。
記念館のお客さんとの一期一会の素敵な出会いもあった。

今年の11月、「拝啓龍馬殿」の書籍化の中で連絡を取らせていただいた方に
高知にお集まりいただいて、“同窓会”をおこなうことになった。
日本各地の、年代も性別も違う方達が、“龍馬”が縁で集まる。
みんなで龍馬の話をしながらお酒を飲んで盛り上がっているところに、
ちゃっかり龍馬も加わって、ニコニコしながらお酒を飲んでいる姿が目に浮かぶ。
                                                               (雪)

「迷惑なカラスの遊び」 2008年5月23日

 記念館が建っている浦戸城跡には、たくさんのカラスが住み着いている。そのカラスたちが、最近妙な行動をしており、困っている。
 館の屋上や事務室、スロープの屋根などに小石を落とすのだ。仕事をしていると、突然「ガーン」と頭の上で大きな音が響き渡る。最初は何が起こったのか分からず、事務室を飛び出して屋根を見渡した。すると、屋根の上には一羽のカラスがおり、小石をもてあそんでいた。さらにその上の屋上にもう一羽。こいつらが犯人か、と目星はついた。次の日、館の上に落とされた小石を拾い集めてみると、直径3〜5cmのものが7・8個あった。館の周りにもそれらしき不自然な小石が落ちているので、一日で10個以上落としていることになる。
 なぜ急にこんな行動を始めたのだろう?来館者の頭や駐車場の車に傷を付ける恐れがあり、大変危なく感じている。最近、館の南にあるカラスの遊び場だった旧ホテルが撤去されつつあり、それに対する抗議行動か、という憶測も生まれた。
 しかし、今日カラスの行動の謎が解けた。警備員のKさんが偶然にも決定的瞬間を目撃したのだ!何とクチバシにくわえていた小石を空中で落とし、それが地面に達するまでにまた自分でキャッチする、という遊びを行っていたらしい。Kさんが目撃した時は、2回までは成功したが、3回目は失敗して落としてしまったらしい。もう少し人に迷惑の掛からない遊びを開発してほしいものだ。木の枝か葉っぱ程度の物に変えてもらえないだろうか。
 この遊び、いつまで続けるつもりだろうか?被害が出る前に止めて欲しい。その内、上達して絶対落とさない程の腕前になるのだろうか?
                                                               (抜)

「お龍サン」 2008月5月19日

 一枚の写真が、日本国中を話題の風に巻き込んだ。
坂本龍馬の妻「お龍」の写真である。
小粋な芸者さんスタイルで、これは誰が見ても美人サンだ。
ただし、この写真が「お龍」かどうかについては両論あって対立している。
確かに「お龍」晩年の写真は確認されている。
しかし、その写真と若いこの芸者姿の写真が、同一人物かどうか。
歴史背景、伝言などが根拠になって、声高なのは、否定派である。
 館では、昨年「幕末写真館」展という企画展を開催した。
龍馬や志士たちの古写真を和紙に伸ばして幕末を演出した。
その中にくだんの「お龍」の写真を入れた。
もちろん、「お龍と思われる」のコメントつきである。
一方、二枚の写真を、科学警察研究所に送り鑑定をお願いした。
なんと、4ヶ月を経て科警研から鑑定書が届いたのである。
顔の形、造作から、科学的に鑑定したものである。
結果、「この2枚の写真を別人と判断できる理由はない」。
つまり、同一人物との可能性が高いとの判断といっていいだろう。
 なにせ今度は科学的判定なのである。
“論争”はどう動くか。
「龍馬の嫁さんはやっぱり美人サンだった!」。
2枚の写真を「同一人物と見る」支持派が、勢いを取り戻すだろう。
しかし、一番喜び、胸をなでおろしているのは天国の「龍馬」。
あれ!側に“お龍サン”の姿も。

【写真鑑定−坂本龍馬の妻、お龍】のページへ

                                                           (揺)

「龍馬ハ生キテイル」 2008年5月11日

吹き抜ける風の如く“大型連休”が往った。
 「帰省ラッシュ」、やれ「Uターンラッシュ」。そんな言葉が耳元をかすめた。
かすめたと思ったら“祭り”の後を、洗い流しの一雨が来て、
今日の“龍馬の見た海”は、水平線しんなり、すっきり。
早、夏の匂いを運んで来る。

 現在、館の表看板は「出会いの達人・龍馬」展―友情編―である。
人生、出会いの大切さはいうでもないが、昨今の殺伐世相がその思いを増幅させる。
弱者の命が、たわいなく奪われていく。
連鎖反応を起こしたかのように、日本国中が殺人現場。
お金に眼がくらむ。一方、理由はないというのが不気味ではないか。
もっと、怖いと思うのは、そんなニュースのすぐ隣チャンネルで、お笑い番組が同時進行中なのである。“現代は幕末よりもっと病んでいる“などと少々憂鬱になっていた。

 と、そこへ一枚の額が届いた。書道家、沢田明子さんからの作品である。 6月から、出会いの達人展に歩調を合わせて企画している「もう一つの展覧会」展、少し説明すると、過去、館の「海の見える・ぎゃらりい」で展覧会経験のある先生方に、今度は”出会いと龍馬“をイメージしてそれぞれ制作して頂き、作品を古い資料などのスペースに展示しようというもの。もちこまれたのはその展示用と言うわけ。 早速、見せてもらった。額の台紙は英字新聞。そして赤い紙にあっさり
 「龍馬ハ生キテイル 33才ノママデ」。
引き込まれるような波動が伝わってきた。気分まで晴れてきた。
                                                               (揺)

「今あるもの」 2008年5月3日

地方に住んでいる私は将来都会に住でみたいという願望があった。そのせいか、仕事以外で都会から地方へ移り住む人の気持ちは正直少し理解できなかった。しかし最近、自分にとって納得のいかない環境でも、見方の側面を変えて見つめ直してみると、『そこにしかない幸せ』が存在するかもしれないと思うようになった。現在、自分の興味を誘うものだけを見つめて、退屈だと感じるのはあまりにも惜しいと。
そんなことを考えていると、あるドラマのセリフを思い出す。「目の前のことに一生懸命になれないやつに将来を語ってほしくない」。目の前のことを悲観的にとらえて正面から向き合おうとしなければ、今あるものの大切さや尊さを感じる事はできない。今あるものが大切だと感じた時、語ることのできる理想の将来がそこにはあるのではないかということだろう。
とはいえ、目の前のことに一生懸命になることは、なかなか難しい。日々同じことのくり返しで毎日が同じように過ぎていく中、一日一日をどれだけ一生懸命過ごせるか、自分を見失わず今あるものを大事にしていけるのか。
自分自身との闘いである。
                                                               (西)

「大型連休」 2008年4月26日

 さあ、連休のスタートである。春から夏へ季節は動く。館の前にあるクスノキはもくもくと新緑を噴き上げている。坂道を登って来られる入館者の皆さんの額に汗が光る。水平線は春霞の中にある。しかし、海は青い。青くかすんでいる。漁船が白く航跡を曳いてその霞の奥に消えていく。

 館内にも浮き立つような気分が満ちてきた。展示資料自体が居ずまいを正しているように見える。「よーく見てくれ」、と胸張って正座しているものもあれば、つんと澄ましているものも。龍馬が乙女姉さんに書いた手紙なんかは、「内々に」などと言いながら実は読んでもらうのを待っているかのごとくオープンである。朝、館内をひと回りするとそんな空気にやる気を刺激される。

  折から館の企画展は「出会いの達人・龍馬」展。人と人の出会いが社会を創る。それが平和の原点だと龍馬の生き様に感じるわけである。前期は「友情編」、後期は「恩師編」となっている。
 あだ名で呼び合う“先輩”武市半平太。身分を越えた"友人”小松帯刀。頼りがいある"友人”西郷隆盛。尊重、信頼し合う"友人“桂小五郎。いわずもがなの”友人“高杉晋作。ずばり”戦友“中岡慎太郎・・・・・・まさに、出会いが人を”創る”のである。
 連休期間中、館は例年多くの人でにぎわう。龍馬を通せば皆さん知り合い。県下では「花・人・土佐であい博」も開催中。出会いを満喫しようではありませんか。
                                                               (揺)

「高知の旨いもの発見!」 2008年4月20日

 先日、龍馬の脱藩ルートである梼原町へ行ってきた。梼原龍馬会の方に招かれて行ったのだが、お土産に梼原町で作っている「お山のドレッシング」を頂いた。「あっさり味」と「こってり味」があり、これがこじゃんと旨い!今まで食べたドレッシングの中で最高と言ってもよい。特に「こってり味」が気に入った。今までより野菜が数倍おいしく感じられ、最近サラダを食べるのが楽しみになっている。添加物や化学調味料の類が一切入っていないので、体にも良い。
 容器に貼ってある説明書きには、ナスを揚げてかけるとおいしい、と書かれてあったので、それも試してみたが絶品だった。また、冷しゃぶのドレッシングとしても大変合う。
 難を一つだけ言えば、保存料も入っていないため、消費期限が短い点だ。これも体に良いが、買い置きができない。高知市内で売っている所を知らないため、近々梼原の太郎川公園まで買いに行かなければならないと思っている。実家の家族も気に入ったらしく、買ってきて欲しいと頼まれている。高知市から車で2時間かかるが、買いに行く価値のある一品だ。
 龍馬ファンの皆さん、脱藩ルートを辿る時には、ぜひ買ってみてはいかがですか?味見をしたい方は、梼原町太郎川公園内にあるレストラン「くさぶき」で食べられるようです。
                                                               (抜)

「独り言 ]U」 2008年4月13日

 記念館周辺の桜はほとんど葉桜になっている。桜を楽しめるのはほんの一瞬で、その短命さがまた美しい。
 記念館では現在2階企画展示コーナーで「刀は“語る”坂本龍馬記念館所蔵品」展を開催している。展示ケースには刀が並び、その後方に慎太郎、半平太、龍馬を描いた公文菊僊の掛軸がかかっている。
 朝、ケースを見ると描かれた慎太郎の立像に桜の枝が寄り添っていた。まるで掛軸に描かれているかのようにバランスよく桜が収まっていた。ガラスに映り込んだ桜の樹である。
 私はそれを見た時、以前観た舞台とドラマの一場面を思い出した。満開の大きな1本の夜桜にライトが当たり、地面には花びらが幾重にもなって落ちて行く。「その桜の樹の下には短い命を惜しげもなく散らしていった人々の魂が眠っている。」と言ったナレーションが入った。あまりにも昔で記憶が定かではないが、そういった内容だったことは覚えている。ライトアップされた花の異常な赤さが印象的に蘇る。
 まさに、幕末の志士たちとシチュエーションが重なった。映り込んだ桜が描いた偶然の掛軸。その全ての一致が胸を熱くした。
 桜には特別な想いがある。その潔く限られた時を大切にしたいと思う。
                                                               (M)

「桜映して」 2008年4月7日

 4月になって、記念館周辺の桜が満開である。
県道から館への導入路も、行き着いた先の駐車場もピンク化粧だ。
そして1週間も経つと、早、はらはらと落ちかかり、道路が花びらの絨毯になっている。

    館では今年、季節のカレンダー制作を企画している。
そのために館を取り巻く四季を昨年から写真に収めてきた。
1月、2月の透明な海。一文字の水平線は緊張感さえ感じさせる。
3月は、ジャコ漁、豊饒の海である。そして4月とくれば、これは桜しかない。
「早く撮らないと、散ってしまいますよ」。
職員さんに言われて、カメラを持って外に出た。
こぼれんばかりの桜に、圧倒される。館を背景にパチリ、パチリ。
「桜」「船中八策の広場」「ガラス張りの館」「海」「空」。
アングルには事欠かない。

  「ここにもいい所がありますよ」と教えられたのは、なんと2階の展示室であった。
「桜テーマだから」「まさに桜ですよ」
「屋内じゃあ」「まあ来て、これを見てください」
展示室では、現在常設展「刀は語る」の展示中。
メインに5振りの刀が光っている。
刀の背後には龍馬、中岡慎太郎、武市半平太らの掛軸。
「ほら、ここから見てください」促されて示された場所に立って驚いた。
展示ケースのガラス面に玄関外の桜がくっきり映っているではないか。
桜の下を行く龍馬らの姿がある。時代を暗示する刀。
「たまたま、この光景を見てなんだか胸が熱くなりました」。その職員さんの感想であった。
 展示ケースに映った桜が、カレンダーに登場するかも知れない。
                                                               (揺)

「記念館”装備“着々」 2008年3月30日

 晴れ、雨、晴れ、雨・・。これに寒暖が加わる。わずか一週間の間での季節の変化だから、気を抜くと風邪にやられる。春のおとないは気を持たせながら、やって来る。

 龍馬記念館に来た“はる”は大阪から、クレーン車でやって来た。
まるで晴れ着衣装で着飾ったかのごとく、分厚く梱包されていた。
「エアタイト型展示ケース」という。ケース内を密閉状態にするのが特徴で、つまり、中に展示された資料は破損されない、いや、厳密には破損されにくい。
 博物館や美術館では企画展ごとにお互い資料の貸し借りが行われる。重要、貴重な資料になればなるほど当然慎重になる。
 そんな時「エアタイトにしてくださいよ」。貸すほうから指定される。持ってない場合は、展示ケース自体を借りてこなければならない。算段がつかぬ場合は、資料を借ること自体が不可能になったりもする。
 龍馬記念館も美術館から借りた経験がある。企画展のグレードを上げるためにも、目の肥えた入館者の要求に応えていくためにも、エアタイト式展示ケースの設置が望まれていた。それが、今回一挙に4基入った。かなり充実した展示が可能になった。

 クレーンで下ろされ、地下2階のドアをくぐって、企画展示室の中央に腰を据えた。「ちかっ」とライトが入る。一見、他の展示ケースと何ら変わりはない。入館者の皆さんも気づきはしまい。しかし、なんとなく頼もしげに見えるのだ。
 近じか、驚くような資料をこの展示ケースで、お見せすることが出来ると確信している。
                                                               (揺)

「独り言 XI」 2008年3月23日

 2月の末に記念館2階から1階へ通じるスロープの壁面に、ポスターを掲示する枠付きボードが設置された。昨日までは「幕末写真館」展と次回の企画展「出会いの達人・龍馬」のポスターを貼ってあった。15枚ポスターが並ぶと結構壮観であり賑やかだ。
「幕末写真館」展では思うところ、反省すべき点もあったけれど、お蔭様で昨日無事幕を降ろすことが出来た。そしてこの企画展に携わったことで、色々なことを知り、多くを学んだ。
 アンケートの集計結果を見ると、ポスター・チラシを見てこの企画展を知ったという方が大変多かった。いかに地道にこの基本的な宣伝活動をするかという事の大切さである。
 先日“アートボード”の定期総会に初めて出席した。“アートボード”とは、地元の方ならご存知の方もいらっしゃるでしょう。高知の繁華街、帯屋町商店街のアーケードの1本南側おびさんロードで(みずほ銀行裏側)展覧会やイベントのポスターを貼れるガラス扉付、鍵付の掲示板のことである。街行く人がちょっと足を止めてポスターを眺めてゆく。14,5枚違ったポスターが並んでいるので、自然と人々は興味のあるポスター前に立ち止まる。当記念館も、「幕末写真館」展から利用させていただき、総会参加への運びとなったわけだ。アートボードもこのシステムを始めて10年目を迎えるそうである。年に1度は「いい感じポスター展」も開催し、街行く人達にその年に展示されたポスターに投票をしていただき、「いい感じポスター賞」を表彰しているそうである。
 それぞれ皆さん高知を楽しめるよう、また好い街になるよう、思いを込めて創意工夫をされていることがひしひしと伝わってきた。そして、やはり地道に活動されている。
 今年は5月25日に「いい感じポスター展」が「おびさんマルシェ」に参加して開催されるそうだ。興味のある方はご覧になってみてはいかがだろうか。
 願わくば、アートボードのようなものが、街中あちらこちらに設置されると、高知市の繁華街にももっと活気が出てくるのではないだろうか??
 とにもかくにも、まずは龍馬記念館のポスターをあちらこちらで目に触れられるようにしていきたいと思っています!
                                                               (M)

「花に思う」 2008年3月16日

 日々春めく景色に心浮きたつ3月。
 館駐車場の早咲きの桜はもう満開。ふくよかなピンクの花に思わず手を添えるとほっと心も和む。花咲く春の到来。
 花といえば、冬の間も館内でひそかな人気を集めたのが、鉢植えの土佐寒蘭。香りをかいでみる人もいるほどだが実は和紙でできていて、人間国宝の方が漉かれた土佐和紙を使い、土佐和紙工芸作家の伊与田節子さんが紙に命を吹き込むように制作されたもの。
 龍馬にはさほど興味なく退屈そうに館内を巡るお客様でも、この土佐寒蘭の前では必ずといっていいほど足を止め、とても熱心に鑑賞していかれる。これにはさすがの龍馬も形無し。
 花の美しさはどんな人の心をも動かし、引きつけて止まない。
 龍馬の甥の孫、坂本直行さんが愛し描き続けた、厳しい北の大地に咲く花々。昨年その絵画の企画展に例年に増して多くの方々が足を運んでくださったことも思い出される。
 龍馬もある花の印象を姉乙女への手紙に綴っている。
 最愛の女性お龍さんを伴って旅した、鹿児島の霧島山。そこに「オビタゞシク」(「」内は龍馬の文面。)咲いていた霧島つつじ。「なる程きり島つゝじが一面にはへて実つくり立し如くきれいなり」。二人仲良く「はるバるのぼり」、お龍さんの手を引き、山上で大いに笑い合った。かけがえない大切な人との思い出にそっと寄り添う花。
 後年お龍さんが龍馬を偲ぶ時、龍馬の面影とともにこの霧島つつじの記憶がよみがえったかもしれない。
 人それぞれ、様々に花を思う。
 花々がもたらしてくれる喜びを感じながら春を満喫しよう。
                                                               (床)

「人間の達人」 2008年3月9日

 「出会いの達人」。へえーそんな“達人”がいるんだ?。聞いた時には一瞬シラケてしまいそうだが、「龍馬のことだよ」と説明されると、「なるほど、そうだな」と、一も二もなく納得してしまう。剣術だけでなく、そういえば何につけても龍馬は“達人”なのである。
 行動範囲の広さからして、“早足の達人”、桁外れの想像力から言えば、“知恵の達人”、女性のファンも多かったらしいから、“恋の達人”。大金にしろ小金にしろ、お金を他人から引き出すのが上手かったことからすれば、“借金の達人”。ブーツやピストル新しい物に目がないのは、“流行の達人”。まだあるぞ。子供の時には10歳越えて不始末していたから、“おねしょの達人”。
 ああ、ただ一点、”無警戒の達人“だったことだけは悔やまれる。しかし、”人間の達人“であったことは紛れもない。

 館では、4月19日から「出会いの達人・龍馬」展を開催する。前期を友情編、後期を恩師編として130日に及ぶ特別企画展である。桂小五郎、高杉晋作、西郷隆盛、中岡慎太郎、勝海舟、横井小楠、河田小龍・・・。幕末を動かし近代日本の土台を築いた面々が貴重な資料と共に登場する。“達人”の腕前をじっくり披露できる企画展にと、“龍馬の達人”を目指す学芸員が作戦を練っている。乞うご期待である。
                                                               (揺)

「カムサハムニダ」 2008年3月4日

「カムサハムニダ」韓国語で「ありがとう」という意味だ。
最近、記念館を訪れた韓国人観光客の方にそう言われた。日本語でなくとも意味さえわかっていれば、言われた時うれしい。韓国語を少し知っていて良かったと思った。記念館を訪れる韓国の方は多い。韓流ブームもあって、いまではすっかり身近になった隣国であるが、まだまだその文化には知られざる側面がある。
 私も昨今の韓流ブームに乗っている1人なのだが、ここ最近、はまったドラマがある。韓国を初めて統一した実在の人物をもとに描いた歴史ドラマで、なかなか見ごたえのあるものだった。しかし驚くべきことに、このドラマなんと全80話近くある。日本では考えられない放映回数だが、韓国では当たり前のことらしい。当時このドラマが始まる時間帯になると街から人の気配が消えたという。それだけ、皆、自分達の国の歴史に興味があるのだ。
 自分達の過去を知ることは今を知ることになり、そして、未来を知ることになると何かで聞いたことがある。たしかにそうかもしれない。過去の歴史を知ることで変えられる今や未来がある。

 記念館に勤め始めて歴史をより身近に感じる今日この頃だが、これからもより多くの歴史に触れ過去を知りたいと思う。過去から学べる今を見つけられるように。
                                                               (西)

「装道」 2008年2月26日

和服姿の3人の女性が「坂本龍馬記念館」に現れた。
皆さん背筋が伸びておられる。
応接室がびんとシマって華やいだ。
「装道」=そうどう=
舗装した道ではないだろうし・・・
聞き慣れぬ言葉に、一瞬詰まった。不勉強も恥じた。
それを、見透かしたようにやんわり説明いただいた。
着物姿に「装道」だから着物に絡むことだとは少しは想像した。
「単に着物の着方とかではなくて着物を着ることで、人の心、礼儀作法を学び、内面から美しくなろうというという”道“です」
説明を受けて納得である。
「お節句、お正月、節分・・・・現代のドサクサに紛れて薄れていくしきたりは“日本の心”の喪失です。こんな世の中だからこそ、失ってはならぬと思います」。説得力も充分。「だから子供たちに伝えたい」と念をおされ「龍馬記念館と何か一緒にやりましょう」。身を乗り出していた。
 それで一つ提案があった。
 桂浜での“時代パフォーマンス”。単なる仮装大会ではなく、自宅の箪笥深く仕舞ったままの古い着物や服を取り出し、袖を通して桂浜をあっちぶらぶら、こっちぶらぶら、空気を“昔”にしようというものである。折から県下は“であい博”。ならば「時代との出会い」。その日一日、桂浜は昔に戻る。昔から今を考える。
 面白いと思う。
                                                               (揺)

「龍宮祭」 2008年2月19日

 “龍馬の見た海”が、時折かすむようになった。
西の山を見れば、頂上付近は雪化粧だ。
遥かなる水平線に雪の峰々。
冬と春とが競争を始めた。
 突然というか、機が熟したというのか桂浜に一陣の風が起こった。
浦戸住民皆さんが巻き起こした思いの風とみる。
熱い、熱い。「桂浜再生促進協議会」という。
「坂本龍馬記念館」もその風の中にある。
根底にあるのは、このところ低迷している桂浜の活性化にほかならぬ。
龍馬思想の普及、新たな龍馬ファン獲得を目指す館にとっては由々しき問題に違いない。
 熱い風が渦を巻きだした。
浦戸は昔、漁業で栄えた。船を持っていた。新造なると記念に大漁旗や祝いの旗を作った。皆で祝った。そんな旗類、現在は押入れの奥く深くにしまわれている。この旗をもう一度取り出して、桂浜をその旗で埋めてみては、そんなアイデアが提言された。ちょうど4月20日(日)は桂浜の「龍宮祭」。歴史を刻んだ古い旗は迫力だと思う。
祭りの景気付けにもなるから一石二鳥、いや、折から高知は「花・人・土佐であい博」開催中。一石三鳥だ。
 砂浜を埋め尽くした祝いの旗が、桂浜を訪れた観光客を迎える。まさに浜ごと“出会い”ではないか。それに動き出したのが平均年齢だと70歳に近い、昔ならじいさん、ばあさんパワーというのもユニークである。
 息子の代、孫の代への“これは責任”と頑張っている。
祝い旗、大漁旗で埋まった桂浜。想像するだけで、胸が躍る。
                                                               (揺)

「独り言 ]」 2008年2月12日

 人と人との繋がりは出会いから、あるいはモノとの関わりも出合いから始まる。「幕末写真館」展の写真を通して私は一人の女性の存在を知った。奥村五百子である。この企画展に関わるまでは、顔はもちろん恥ずかしながら名前すら知らなかった。けれど何故かこの女性に惹かれた。
 幕末から明治の時代を生き抜いた奥村五百子は、幕末の尊皇攘夷運動、自由民権運動、朝鮮半島における農業指導に学校建設、そして愛国婦人会の創立者であった。乱世の中を多彩に生き抜いてきた奥村女史だが、一貫して言えるのは「供養と援助の精神」をモットーにひたすら己を捨てて人のために生きてきた人物であるということ。写真で見る限りその目から意志の強さ頑固さは十分に感じられる。けれども男勝りというよりは静かで穏やかな印象を受ける。幕末にもこのような女性が居たことを教えてくれたのも、元をただせば龍馬である。「幕末写真館」展に携わらなければ、もっと言うなら坂本龍馬記念館で仕事をしていなければ知りえなかったことである。出会いとはそんなものであり、人生を豊かにしてくれるものに他ならない。
 4月からは「龍馬・出会いの達人」展も始まります。しかしその前に、皆様も写真との何気ない出合い、してみてはいかがでしょう!?
                                                               (M)

「讃える」 2008年2月5日

 「世界観をひろげれば、人生に対する理解も深まります。
 ・・・試みようとしているのは、新しい文化の種を植えつけて、世界中の伝統と音楽の声を讃えることです。」
 世界的チェロ奏者ヨーヨー・マの、ジャパンツアーのリーフレット。
 彼のコメントの最後、「讃える」という言葉に目がとまる。
 讃える、称える=ほめる=物事を良しと認め、その気持ちを表す。
 称えると言えば、健闘を称え合う、業績を称える、などとよく耳にする。
 でももっと何気ない日常的な人間関係の中でも、「讃える」ことはとても大切であるように思う。
 人からほめられたり認められるのは嬉しいし、自信がつき力も湧く。
 そのことで相手への信頼が生まれ、よりよい結果につながる。
 さりげなく添えられたこの言葉は、
 心豊かに生きていくための大事なキーワードのひとつなのかもしれない。

 龍馬にはその天性が備わっていたに違いない。
 そうでなければ、身分の高い人達や才能に秀でた人達からの惜しみない協力など得られなかっただろう。
 日本を変えた大仕事も、ひとりの力だけで成し得たのではない。
 人を讃え大切にできる、そのことが龍馬の人間としての評価につながり、人の心を動かしたのではないだろうか。
 不可能と思われたことも龍馬だからこそ実現した。

 開催中の幕末写真館展では、そんな人々の顔ぶれを見ることができる。
 150年の時を経て、生きて出会うはずの無い人に、写真を見ればどこかで会ったかのような、
手紙を読めば心情を語られているような、そんな不思議な感覚にふととらわれる。
 それぞれの志を持つ仲間同士、認め合い、信頼し合って生きた彼らの姿が、
「讃える」ことの良さも思い出させてくれるかもしれない。
                                                               (床)

「独り言 \」 2008年1月25日

 現在開催中の企画展「幕末写真館」展準備のために、久しく独り言から遠のいていた。約4ヶ月の準備期間をひたすら走り続けて、12月17日のオープンを迎えた。4週間を過ぎようとしている今、来館者の皆様が回答してくださるアンケートが面白い。質問の1つに「お好きな写真がありましたか?」という項目を設けてある。今のところ、龍馬と土方が人気を集めている。もちろんその他の写真の表記もある。最終的には集計をとって結果発表をするつもりでいるので、皆様も1度来館されてアンケートにご参加いただければと思います。
 さて、140点あまりの写真に囲まれ過ごしている数ヶ月、色々な経験が出来たことに感謝している。幕末というわずか15年の間に立場はそれぞれ違えども、皆信念を持って未来の平和のために行動していた。人のために命を捧げ、散って行ったひとりひとりの眼差しに触れることも出来た。今回の企画展においても色々な方々の何気ないご協力を得て、無事初日を迎えることができたことは本当にあり難くうれしい。とかく自分のことしか考えられない自分勝手な話を多く聞く現代の世の中で、私も含め人のために何かするということを、大げさでなくさりげなく出来ればいいと思う。
                                                               (M)

「新しい試み」 2008年1月18日

 最近の龍馬記念館は、新しい試みを色々行っている。今回の「幕末写真館展」にも、普段と大きく違う点がある。それは、写真一つ一つに添えられている解説パネルだ。今回は、写っている人物や背景の解説を単純に書いたものだけではなく、写真を見て感じた「イメージ」を添えている。
 通常、博物館の展示解説パネルでは、職員が感じたことや思い入れを込めて書かれたものは少ないと思う。展示や解説パネルに感情を込めると、イメージの押しつけや誘導に繋がり、来館者に見方を限定させる恐れがある。そのため展示担当者は、できるだけ事実をありのままに展示し、解説しようと努める。そうすることによって、来館者はそれぞれの受け止め方ができるのだ。しかし、それはある意味、無味乾燥な世界で堅苦しい文章といえる。展示する側も人間なのだから、感情も思い入れもある。今回の展示では、理解の手助けの意味で、展示する側の思いをあえて出すことにした。
 案の定アンケートには賛否両論の声があった。「イメージを書いてくれているので分かりやすい」「イメージの文章と写真が合わない」などである。イメージなんて人それぞれなので、確かに合わないものもあるが、ご容赦いただきたい。たまには人間味を感じる解説があっても許されるのではないかと、勝手ながら思っている。今回は学芸員二人の他に、館長と解説員Mの4人が解説を書いた。それぞれの人柄が出た「イメージ」の文章も楽しんでいただければ幸いである。
 私は龍馬記念館学芸員でありながら、幕末の中で大久保利通が一番好きだ。そのため、大久保に関しては「イメージ」の部分だけでなく、解説の部分にまで感情が少し入ってしまったが、今回だけは大目に見てください。
                                                               (抜)

「憧れ」 2008年1月9日

憧れは人に夢を見させてくれる。憧れがあるから夢に向かって走れるような気がする。
龍馬もかつて海の向こうにある世界に憧れ、夢を追っていた。
昨年、親しい人が一流の料理人目指してフランスへ修業に出た。身近な人が行くとなるとぐっとその存在を近くに感じる。母国でない国で活躍することは並大抵の努力ではかなわぬことだが、ぜひとも本場のシェフに負けない料理人となって活躍してくれることを切に願う。
私自身、海外には憧れや興味があってテレビの旅番組を観ることや旅行することが好きだ。
海外に行くと今まで自分が持っていた価値観が変わる瞬間を感じることができる。
価値観が変わるといえば少し大袈裟かもしれないが、その国ならではの文化や宗教、生活習慣といった自分が今まで知らなかった違いを目の当りにした時、なんともいいがたい驚きをおぼえる。紙面上、画面上で知り得るものはごく一部で、実際その地に降り立ち知る情報の多さには、何時の場合でもたじだじとさせられる。
また、私の海外に行ってみたいと思うきっかけはいつも何かに憧れてである。「憧れ」は興味や好奇心をかりたてる。それは勇気を起こさせ、夢実現へ行動の第一歩を踏み出させてくれる。龍馬も憧れを抱き、夢の実現のため奔走した。叶えた夢、叶えられなかった夢もあっただろう。それがまた、次の夢への弾みとなると思う。
現在当館では『幕末写真館』展が開催中だが、龍馬も含め写し出される写真の中の人々はどんな憧れを持ち、どんな夢を抱いていたのだろう…。
                                                               (西)

「謹賀新年2008」 2008年1月3日

 あけましておめでとうございます。

 寒波が入り込んだ海は深い藍色に染まっている。海と空を分ける水平線は真一文字に伸び、まるで新年を言祝(ことほ)ぐ水引のようだ。例え今日という日が昨日の続きであってとしても、正月を迎えるということはなんと新鮮なことだろう。大気さえ違って感じられる。気持ち新たにこの風を深呼吸しよう。
 昨年度は坂本直行展による特別開館だった年末年始の開館が、今年度から本格的に無休となり、いつもと同じように年末年始も開館してお客様をお迎えしている。
 カルチャーサポーターの皆さんがつくった大きな門松が入館する人たちを新年に誘い、2日には同好会の皆さんによる土佐一絃琴の演奏がお正月らしさを演出した。
 高知では3月から「花・人・土佐であい博」が始まる。龍馬は“出会いの達人”と評されるし、その精神を掘り下げていくことも課題。であい博とのコラボレーションも楽しみだ。今年もまた多くの方たちのご協力や関わりの中で、記念館は成長していくことだろう。
 指定管理者続投が決まった記念館にとって、今年も新しい挑戦が始まる。どんな出会いが待っているのか。いや、どんな出会いをつくっていけるのか。正念場が待っている。

 よい年でありますように。本年もよろしくお願いいたします。
                                                               (ゆ)

「龍馬年齢」 2007年12月29日

『 拝啓龍馬殿
  私は貴方が脱藩したのと同じ28才になりました。
  将来のことを色々悩んでいたのですが、そんな小さい事にとらわれず、
  大きな視点で日本、世界を見ないといけないと勉強させていただきました。
  私も頑張ります!
                               H18.10.9 広島市 Y・M 』

   ↓
   ↓(平成19年・近況)
   ↓

『 脱藩された28才の時、私も意を決して転職いたしました。
  次は33才までに何が出来るのか考えて行動していきたいです。 』


これまで「拝啓龍馬殿」に寄せられたメッセージの総数は12000通にもなる。
そこで、このたび、これらのメッセージを一冊の本にまとめようということになり、
今、出版に向けての編集作業を進めている。
12000通の中から3000通近くのメッセージを選び、掲載のOK・NGや近況を
お知らせいただく往復葉書を送らせていただいている。

返信のハガキには「今でも龍馬が大好きです」というメッセージとともに、
「28歳」「33歳」という年齢がよく出てくる。
28歳は龍馬が土佐を脱藩した年齢、33歳は龍馬が暗殺された年齢である。
この5年間に龍馬は日本というひとつの国を変えてしまうほどの偉業を成し遂げた。

龍馬が好きで、龍馬を尊敬する人達にとって、28歳や33歳という年齢は節目の年となっているようで、
この年に、一人旅をして自分と向き合ってみたり、夢の実現に向けて一歩を踏み出したり、
または、思いきって転職をしたり、結婚を決めたという人もいる。
そこまで人の人生に影響を与えてしまう龍馬を、改めてすごいと感じる。

私が28歳になるまであと4年。
今の自分も、1年前には想像もしていなかった毎日を過ごしていることを考えると、
4年間にどんなことが起こるのか、自分のことながらワクワクしてくる。
2008年はどんな一年になるのかなぁ…。
                                                               (雪)

「古写真と土佐和紙」 2007年12月22日

「幕末写真館」展がいよいよスタートした。
今回、企画展では館としていくつかの新たな取り組みをしている。
 まず、展示場所として普段は使う地下二階の展示室は一切使用しなかった。その代わり、二階を全て展示室、つまり写真館にした。南北の通路は“幕末通り”、北隅の展示室は“龍馬スタジオ”の暗室に作り上げた。
 幕末15年の幕開けはペリーの浦賀来航である。眠りを覚まされた日本は蜂の巣をつついた騒ぎとなった。歴史が動き出すのである。桜田門外の変、生麦事件・・・・カメラマンの龍馬に休む間なし。

 古写真は140枚になった。借り先は、全国に散らばる資料館や博物館、もちろん個人所蔵のものもある。何回か連絡のやり取りをして希望通りの枚数をそろえることが出来た。さて、次は借りた古写真をデーター化して、和紙に大きく引き伸ばし、パネル化する。この作業がなかなかであった。等身大に引き伸ばしていくため何枚かの和紙を繋ぎ合わせていかねばならない。継ぎ目がずれたりしてはお話にならぬ。それが和紙は柔軟性があって、微妙なずれは紙を延ばすことによって対応できた。何よりの長所は、焼付けた写真がどの角度から見ても反射しないことである。和紙独特の柔らかさが写真の雰囲気を高めている。ちょっと触れると分かるが、手触りもいい。
 パネルに和紙を貼る作業で、大方の志士に触れた。最後のほうは心意気にまで触れた。

 久々雨の土曜日。カルチャーサポーターの皆さんが早くも門松を作ってくれた。しとしと雨は降り続く。「いつもより立派に出来た。年々上手になる」リーダーの I さんが顔の雨滴をぬぐいながら満足げである。頬高潮させて、幕末の志士たちとの対面を楽しんだ入館者の皆さんが、門松と龍馬像を背景に「パチリ」。龍馬記念館にはやお正月が来た。
                                                               (揺)

「ありがたい」 2007年12月15日

 一つ重荷を下ろした感じである。
そうはなるだろうとは自信はあったが、決まるまではなんとなく落ち着かなかった。
例の、坂本龍馬記念館の運営管理に絡む「公募」問題である。
館はこれまでどおり県文化財団傘下の施設として運営を続けることになった。
この半年あまり、次の企画展の準備をしながらも、
乗り切れないムードが館に満ちていた。
やっと枷の解けた猟犬のようなものである。
一挙にエンジンがかかってきた。それもトップギアで。
面白いもので、そうなると館の雰囲気までが一変する。
職員の足取りまでが気のせいか弾んでいるよう見える。
 ふっと気がついた。どうも周辺の人たちも気遣ってくれていたらしい。
まるでなにかの試験にでも合格したかのように「よかったですね!」の声が舞い込んできた。わざわざ訪ねて来てくれる人も。
「これで話がし易くなった」などと当人よりも気を揉んでいてくれたり。
ありがたい。
 胸のつかえをとって見る冬の海は、光のじゅうたん。地球の裏側までも巻いていそうな、光の道である。来週からの企画展「幕末写真館」展の準備もほぼ完了。館は一足早い新年である。
                                                               (揺)

「黒潮に乗った龍馬と真吉」 2007年12月9日

 樋口真吉は幕末、自らの使命を全うすべく地道にひたすらに生き、病に倒れた。龍馬との接点もいくつかあるが、これはほかの誰にも代わりようがない巡り合わせのようにも思える。真吉もまた幕末という激しい時代を生き抜いた男の一人だ。そして、当館でまもなく終わろうとしている「樋口真吉」展の開催以前にはほとんど知られることのない人だった。
 樋口真吉のことを樋口一葉の関係者だと思っている人がいたり、「ひぐちまきち」と呼ばれたり。(まあ、これはあながち違うとも言えないが、ご子孫がしんきちと言っているのでやっぱり違うのでしょうね)。出身の四万十市庁舎でも「それは誰?」という声が聞かれるような人物だった。そんな真吉のことを今回の企画展を通じて、少しは知っていただけたのではないかと思っている。
 維新から140年。龍馬がいなくなってからもまた…。140年前というのはずいぶん昔のような気もするが、その上に積もる時間はまだ薄いベールのようなものじゃないかな。真吉の残した記録を見ているとそんな気持ちが強くなる。龍馬も万次郎も慎太郎も半平太も藩主も門弟も、真吉の記録から見ればそれぞれが幕末ドラマの配役だったようにも思う。もちろん真吉自身も。さしずめドラマ全般にかかわるナレーターのような役だろう。
 真吉の文武両道は長刀と勤王日記『遣倦録』に象徴的だが、もうひとつ忘れてならないのは彼の人と情報のネットワーク。信頼のおける真吉の人柄と多くのメモが、時空を超えて人をつないでいく。真吉の資料を通じて、今回の企画展は新しい動きを生み出した。
 静岡県下田市。勝海舟が山内容堂に龍馬脱藩赦免を請うた場所・宝福寺を中心に市民の方たちが下田にいた龍馬を探し始めた。真吉や海舟、寺村左膳らの記録を手がかりにして。太平の眠りを覚ましたペリーやハリスゆかりの場所で龍馬が動き始めている。
 黒潮でつながる伊豆下田と四万十市下田。潮流に乗って太平洋から四万十川を遡り真吉の眠る土生山に、龍馬の最新情報が運ばれてきている。そんな風のささやきが聞こえてくるようだ。

 「樋口真吉」展は16日(日)まで。
                                                               (ゆ)

「龍馬の洗濯板」 2007年12月6日

 龍馬記念館のショップに、一つ新商品を置いた。
題して“龍馬の洗濯板”。ご想像の通りです。
龍馬の手紙、文久3年、龍馬が姉の乙女宛に書いた手紙、通称「日本の洗濯」からとったものです。 「・・・日本を今一度せんたくいたし申候事ニ・・・」、幕府のだらしなさから、乱れた日本を立て直そうという内容です。“洗濯板”はそこからの発想です。

   で、生まれた洗濯板ですが、縦21センチ、横10センチ、横幅は葉書サイズです。ただ、厚さが14ミリで頑丈に出来ています。そんじょそこらの洗濯板とちょっと違うのは、まず材がトサザクラ。裏面には「高知県立坂本龍馬記念館」と刻印が打ってあります。つまり、高知ならではの館のオリジナル商品。
 少々自慢なのは、これがそのままポストに投函できる葉書としても使えることです。用意してある葉書に便りを書いて洗濯板に貼る。当然、切手(240円)が必要ですがそれでOKです。ちょっとしゃれたおみやげだとは思いませんか?

   まだ、ショップに並んで1週間です。先日、こんなお客さんがお見えになりました。“面白い”と手に取って一個お買い上げになりました。ショップの職員がすぐに添付の葉書を渡そうとしました。
 すると、「葉書は要りません」
 「えっ」と不審がる職員。
 「いえ、これは私が使いますので、洗濯板として」
 職員は、目パチクリでした。
 因みにこの“龍馬の洗濯板“のお値段は一個1,500円です。
                                                               (揺)

「古写真の面白さ」 2007年11月26日

 次の企画展、12月17日スタートの「幕末写真館」展が迫ってきた。
古写真を和紙に引き伸ばして展示し、館の2階に“幕末”を創る。
館が写真館になるわけだ。カメラマンは、坂本龍馬。
龍馬の目で見た幕末が浮かび上がる趣向である。
 今、その仕掛け作りに追われている。
 気付いたことがある。
写真を大きく引き伸ばすことで、見慣れた写真でも、これまで気付かなかった事実が見えてきたりすることだ。
「あれ、手に何か持っている?」「同じスタジオの写真だ!」等々。
納得もすれば、新たな疑問が現れたりもする。
 西郷隆盛は写真嫌いもあって、現存の写真がないのが有名である。
よく見かける西郷さんの顔は実は似顔絵。
しかも描いたのは外国人で、彼は西郷さんと面識はない。
弟やいとこの写真の合成画だという。それが、西郷さんの顔で通っている。
 逆に、龍馬には7種類もの写真が残っている。龍馬は写真好きだったとみえる。ただ、どの表情にも「チーズ」はない。
 一人で3枚という人も。
新撰組の近藤勇がそうだ。同じ時に撮っているが表情は異なる。
社会風俗の写真も用意した。写真から時代背景を想像する。
新しい歴史事実がみえてくるかも。
 楽しみながらの残業が、当分続く。
                                                               (揺)

「龍馬臨濤」 2007年11月20日

高松紅真先生が、「海の見える・ぎゃらりい」で個展を開いている。
 “龍馬臨濤“。
この空間になんともふさわしい。
激しく、それでいてたおやかな筆致が、どきどきさせる。
真っ黒な墨、淡い墨。
跳ね上がった筆の力。
紙の奥くに押し込めてゆく圧力。
「風」「夢」「窮」「光」「人」「遂」。
どれも、語りかけてくる世界がある。
 「親子孫」「一本の鉛筆」、海際に「天道」。
龍馬の見た海が、そのままここに存在している。

 着物姿の高松先生は気さくに対応する。
館の職員の如く、館の展示品まで説明しているから面白い。
違和感がない。
「私も詳しくは知りませんけど・・・・」と県外から来られた観光客のおじいさんに、
龍馬が襲われた「寺田屋」の説明である。
説明途中、分からないところで、
お二人顔見合わせて、てれ笑いだ。
外はくっきりの水平線。冬近し龍馬の海は光っている。
                                                               (揺)

「龍馬に導かれて」 2007年11月14日

 『 拝啓龍馬殿
   桂浜へ来て龍馬殿と会ったら、つまらないことで悩んでいる自分がなさけなくなりました。
   マイペースで頑張っていこうとおもいます。
                                       H5.9.13 東京都 T・H  』

ここには様々な悩みを抱えた人が、龍馬に会いにやってくる。
そして悩みを解決し、スッキリして帰っていく。
龍馬の手紙を読み小さなことにこだわらない性格に触れたり、
眼前に広がる太平洋を見ていると心が晴れてくるのかなとも思うが…、
”龍馬のおかげ”と言うよりは、”龍馬のいる場所”にその理由があるように思う。

最近、自分で色んな所へ旅行に行くようになって、
高知からはどこへ行くにもものすごく時間がかかることを実感している。
飛行機やバスの直行便も少なく、色んな乗り物を乗り継いで行かなければならない。
可愛い甥っ子に会いに山口へ行くには、JRと新幹線を乗り継いで4時間半!

一人で車窓からの景色を眺めていると、本当に色んなことが次々と頭の中に浮かんでくる。
考える時間はたっぷりある。

全国各地からそれぞれに深い悩みを抱えて、龍馬に会いにやってくる人たちも、
この高知までの遠い道のりの中で、龍馬と話をする気持ちで”自問自答”し、
桂浜に到着する頃には、自分なりの答えを見つけているのではないだろうか。

でもそれは、現代の悩める人々に、
自分と向き合ってゆっくりと考える時間を与えるため、
龍馬がこの地へと導いているのかもしれない。
                                                               (雪)

「新しいもの」 2007年11月2日

 最近、気に入っている飲み物がある。
 ミルク、シナモン、その他香辛料の入った紅茶、チャイティラテだ。ホットとアイス両方あるのだが、どちらも美味しい。このチャイティラテ、最近オープンしたばかりの店で見つけた。都会では人気もありよく目にする店なのだが、高知での店舗展開は初めてということで、オープン当初から朝晩行列ができ、連日賑わっていた。行列の中並ぶのは気が引けて、少しほとぼりがさめてからにしようと、オープン後数ヵ月ほど経って訪れたのだが、相変わらず、時間帯によっては行列ができるほどの盛況ぶりだった。
 高知の人は個人差はあれど大多数が新しいものを好む傾向があるように思う。それが、都会で人気のあるものならなおさらだが、新しいものには敏感であるように感じる。ファッションにしても高知の若者は他県に比べて流行に敏感だと聞く。私もどちらかというと新しいものには目がなく、「新発売」と聞くとついつい手がでてしまう。私も高知の人間ということだろうか。
 坂本龍馬。彼は特段新しい物が好きだったという。これも彼に高知県民の血が流れていたからなのだろうか。龍馬の「新しもの好きは」=「先見性があった」がゆえのことかもしれないが、県民性として新しいものが好きだということが影響してなくはないように思う。龍馬の血=高知県民の血、血で結論を出すことは安易な考えだと思うが、全く無関係ではない気がする。ひょっとすると、高知県民の血の中にも先見性を持つ遺伝子が隠れているのでは…。
 そう、考えているとついつい新しいものをいつも以上に真剣にみてしまう今日この頃である。
                                                               (西)

「独り言 [」 2007年10月27日

  一日一日が、最近本当に早く過ぎてゆく。12月17日(月)から始まる「幕末写真館展」の準備に追われているせいもあるだろう。とはいえ、色々な処からお願いしてあった古写真が次々と届く日々は楽しいものである。古写真とはいえ百数十年前の写真にもかかわらず実に鮮明であり、被写体を眺めていると確実に何かを語りかけてくる。そう、無言の声を感じることが出来る。

  ところで、コンサートへ行くとほぼ毎回思うことがある。それは演奏者の演奏がまだ終わらない内に、我先にと拍手をする人が大概いるということである。演奏者が最後の音を出した途端に拍手するなんて、折角の演奏が台無しである。音には余韻というものがあり、その響きの余韻はまだ演奏の一部であって、奏者は当然そこまで聞かせていると思うのだけれど。先日赴いたコンサートでも、わずかな余韻を楽しむことなくせっかちな聴衆が多かった。どうして急ぐのと言いたくなった。演奏者が同じことを言っていたのを、何かで読んだこともある。

  余韻を聞いたり感じたりするのは、何も音だけではなく五感で感じ味わうものである。とはいえ、今の世の中余韻を味わうなどと優雅なことを言っていられないほど余裕がないのかもしれない。けれどもせめて、五感を楽しもうと自ら出向いた環境では、余韻を是非堪能してみてはどうだろう。
  そこで「幕末写真館展」では、幕末のあらゆる写真の中でどっぷりと幕末を体験し、当時を体感していただければと思います。そして、願わくば何らかの余韻を是非ご自分なりに味わっていただければ幸いです。
                                                               (M)

「近江屋・対談」 2007年10月19日

 館に設置した原寸「近江屋」=龍馬・慎太郎暗殺現場=が人気である。
 中に上がりこむ入館者の皆さんも少なくない。記念写真を撮る組もいる。龍馬の座っていた場所がポイントである。わずか8畳。歴史はここで回転した。そう思うと、不思議な感覚に捕らわれる。神聖な場所のように見える。そのうち、考えが浮かんだ。

 この部屋で、いろんな道を歩む人たちに、“時代を動かす話”をしていただこうと。
 政治、社会、経済、文化・・ジャンルは問わない。熱い思いをそれぞれに語っていただく。月に一回。まさに「近江屋・対談」。
 スペースが狭いのがちょっと難だが、限定30人ほどなら何とかなる。早速、人選に入った。そしてトップバッターがあっという間に決まった。 この人しかいないという人物である。
坂本家、9代当主、坂本 登さん(東京在住)だ。
 登さんは11月15日、龍馬の生誕祭に出席のため高知へお見えになる。そこでお願いの電話を東京にかけた。受話器の向こうで、いつもの「フフフ・・・」の笑い声と「いいですよ。難しい話抜きで」。快諾していただいた。
 坂本家9代当主が、「近江屋」に座る。床を背にして火鉢の前に。
 その光景を想像しただけで興奮している。
 11月15日午後5時半(予定)館は“幕末”の風が吹く。
                                                               (揺)

「龍馬に願いを☆」 2007年10月10日

龍馬記念館地下1階の図書閲覧コーナーに「拝啓龍馬殿」と題して、龍馬へのメッセージを寄せていただくスペースがある。
まだ字の書けない子供さんは龍馬の似顔絵を、龍馬が大好きな方は用紙の裏側にまで、熱心に1枚の紙に向かう姿をよく見かける。
その中からいくつかご紹介。

「りょうまさまこんにちは。おひめさまになりたい。
 どうしたらなれますか。おしえてください。おげんきで。」

「天下一の貴殿に頼みごとがある。
 1.それがしを世界一の男にしてほしい
 2.全世界の人々が平和でくらせるようにしてほしい
 以上のことを頼みます。                   」

龍馬の声が聞こえてくる。

「わしは魔法使いじゃないき…。
 けんど、目標に向かってずっと頑張りよったら、
 いつか絶対に、夢は叶うぜよ!!」
                                                               (雪)

「樋口真吉展始まる」 2007年10月6日

“歴史街道”を歩いていると、思わぬ人物に出会ったりする。
声をかけて、ちょっと話したのがきっかけで、生涯の友になったりもする。
樋口真吉さん(1815〜70)がそうである。
「えっ知らない?やっぱり。ちょうど、真吉展を始めました。ご覧になってください。真吉と龍馬の関係を通じて、幕末が見えてきます」。

 詳しくは−龍馬を見抜いていた男−「樋口真吉展」12月16日まで。
第一会場(B2)でいきなり見せます。真吉の剣豪としての一面です。独特の剣さばきを支えた、独特の長い刀。肉厚の先細、無反り、一見槍である。作は名刀工「左行秀(さのゆきひで)」。刀剣ファンなら見逃せない名刀という。朝に晩にこれを鑑賞している。まこと、美しくて、柔らかくて、それでいて毅然としている。吸い込まれそうな魅力とはこのことを言うのだろう。これを腰に帯びていた「樋口真吉」という武士を想う。

 二階会場は、20センチほどの人形になった真吉と、和紙に焼付けられた等身大の真吉が待っている。中心になるのは、真吉が残した日記「遣倦録(けんけんろく)」だ。小さなノートだ。だがそこに真吉が龍馬に寄せる深い思いが一言で残されている。「坂竜飛騰(ばんりゅうひとう)」。“龍馬がいよいよ、新しい日本国を創り出すために、動き出したぜよ”そんな思いが込められている。先に書かれた字の上に黒々と重ね書きしている。真吉の確信に満ちた気持ちの高ぶりを、太字の迫力に感じるのだ。
 龍馬と真吉には20歳の年の差がある。若い龍馬と年上の真吉が“幕末街道”を駆け抜けた。砂塵を巻き上げて。
 ご鑑賞下さい。
                                                               (揺)

「草莽崛起(そうもうくっき)」 2007年9月28日

 この言葉は、吉田松陰や弟子の久坂玄瑞の書簡に出てくる言葉で、「在野の人々が立ち上がる」というような意味になる。松陰は、「藩や幕府や公卿に頼っていても何も変わらない。志を持った在野の人、一人一人が立ち上がるべきだ」と呼びかけた。龍馬はこれを久坂から聞いて触発され、脱藩した。
 先日、夏休みをとって石垣島へ行ってきた。旅行前の高知新聞夕刊の1面には、石垣島西側のサンゴが白化し、死にかけている記事が出ていた。原因は海水温の上昇によるものだ。行ってみると確かに白く変色したサンゴが多くあり、地球温暖化の影響をまざまざと見せつけられた。
 ちょうど石垣島滞在中に台風12号が直撃して、1日ホテルに缶詰状態となり、「運が悪いな」と思っていたが、白化したサンゴには恵の台風だったそうだ。台風によって海水が掻き回され、水温が下がり、白化が食い止められるそうだ。
 温暖化を防ぎ、美しい自然を守るためには、今まさに草莽崛起が求められている。行政や国だけに任せていても守ることはできない。幕末の志士のように、一人一人が自覚して立ち上がることが必要なのだと強く感じた。
 余談だが、私は今年の夏、3回旅に出て3回とも台風に追いかけられた。3館合同展の資料借用の時に台風5号。その返却の時に9号。そして今回12号。見事に私が行く場所に向かって台風が進んできた。「日頃の行いが・・・」という声が聞こえてきそうだが、3回目の台風はサンゴのためになったので良しとしよう。
                                                               (抜)

「タイムリープ」 2007年9月22日

「タイムリープ」…自分の戻りたい時間に時を戻すこと。
あるアニメ映画に登場するものだが、辞書には載っていなかった。
この映画の大まかなストーリーは、主人公である一人の少女が偶然この便利な能力を得て喜び浮かれ、それを使い時間を行ったり来たりするのだが…。
過去に戻り、起こるはずの出来事を変えてしまったことで、それに関わる他人の人生までも変えてしまい…。結末は切ない気持ちを残すものであった。
自分の人生は自分のものである。しかし、自分の人生であるからと動かした現実が、周りの人間の人生も一緒に変えていることがあるかもしれない。それが、故意であろうとなかろうと、いつの間にか自分だけの人生ではなくなっていることもある。自らのものであり、他人のものでもある。人生とは、そういうもののような気がする。
記念館に、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された近江屋の実物大セットがやってきた。ここで、起こった事件でいったい幾人の人生が変わったのだろう。実物大セットに触れ、想像の中で、「タイムリープ」を味わってみようと思う。
                                                               (西)

「独り言 Z」 2007年9月16日

 近江屋のセットが復元設置されて1週間が経った。その間お客様の色々な表情を見ることが出来る。セットの中へ入り、火鉢の所に座って写真を撮る紳士二人組。写真を撮ってもらっている人は、実にうれしそうに胡座を掻きポーズをとっている。撮る側も撮られる側も少し照れくさそうではあるが本当に楽しそうないい顔をしていた。
 またある時は、家族連れ3人が小さなお子さんを真中に火鉢を囲んですっかりくつろいでいた。団欒の風景である。思わず微笑ましくなってしまったけれど・・・。当時からは想像も出来なかった未来予想図だと思う。写真を撮ってみるもよし、くつろぐもよし、登場人物のシュミレーションをするもよし。ただ忘れないで欲しい。あくまでここは暗殺現場近江屋の復元セットの中だということを。
 私達は歴史の積み重ねの途上に存在している。過去がなければ現在もない。現在がなければ未来もない。ごくごく当たり前のことだけれどとても重要なことである。人類はあらゆることに進歩を遂げているが、人間の本質は遥か昔から何も変わっていないと思う。
 進歩とは逆行して世界規模で、いや地球規模で破壊から崩壊へと向かっていっている気がする現在。されど人間は変わらない。
 記念館を訪れ、龍馬を思い、龍馬に語りかけ、あるいは龍馬に問いかけ、答えを見つけて館を後にする方も多いようだ。歴史の途上から過去の声を体感してみてはいかがだろう。
 今後、近江屋では各方面からの対談も予定している。乞うご期待!
                                                               (M)

「異次元の世界」 2007年9月10日

 現代洋画家 武内光仁氏の作品といえば「大作だろう」がまず口に出る。小さなギャラリーでは展示スペースが間に合わない。「大丈夫?その辺を考慮して展示してくださいよ」。そう注文をつけて、館の“海の見える・ぎゃらりい”での展覧会をお願いした。「問題ない」という武内さんの言葉を信用して。
 ところがどうだ。展示の日、館の横にはびしっとトラックが横付けになった。作業員がばらばらっと降りてきた。奥さん御本人も加えると5人である。「それでは飾り付けを始めます」。そして合図で取り出した工具類の物々しさは、半端ではなかった。
 肝心の絵は4点。それだけ。入り口の小品を除くと3点は大作である。一番大きい一点にこんな注釈が付いていた。“本来13メートルある内の一部です”。巨大な指である。大きな指先がなにやらボタンを押している。もつれるように広がっているのは巨大フィルム?だとすると、ボタンを押し間違ってバラけたフィルムか? 展示されているのは手首の部分で、しかも展示場のコーナーで直角に曲がっているから、直線に伸ばすと、見事だろう。それが見たくなった。絵はブロックに分かれていて、ごついボルトで繋いでいる。
 何とも言えない存在感である。色彩の鮮やかさにもたじたじだ。まるで色の壷に投げ込まれたかのような錯覚に捕らわれる。身体も心も色に染まる。
 題は「HUMAN  LIFE」。難しいゾ! この展覧会の総合テーマは「龍馬さん 土佐乃国→混迷する世界へ」−今、今だから、今こそ、今展―. 異次元の別世界へ連れ込まれた。まさに 武内さんの空間。
 そういえば、龍馬は「土佐にはあだたん男」であった。武内さんと龍馬。共通点があるような気がしないではない。
                                                               (揺)

「秋の陣」 2007年9月3日

 残暑厳しく、などと悠長な事を言っている間もなく、夏がゆく。
人のざわめきも、蝉の声も一瞬のうちに消えた。
沖から寄せる波のうねりさえも化粧を変えた。青さを増している。
空も雲も高くなった。
 夏に燃えた ―暗殺140年・時代が求めた“命”かー 坂本龍馬・中岡慎太郎展も、一ヶ月の幕を閉じた。京都博物館やゆかりの人たちにお借りした貴重な資料は、学芸員たちが今、お返しに散っている。一週間はかかるだろう。
 ただ、その一方で、早くも秋の企画展の仕込みが本格化してきている。10月からの「樋口真吉展」。龍馬が人生で最も信用した男の物語である。ところが、不思議な事にこれまであまり世間では知られていなかった。だから企画展はこの人物を広く世間に紹介するのが狙いである。
 歴史に名を刻む人は一握りである。多くは時の流れに飲み込まれたままになる。しかし歴史が、その他大勢の犠牲なくして動かないのも事実なのである。
 龍馬と樋口真吉のつながりに、志に生きた男の気概に満ちた生き様を、感じてもらえればと思っている。
 また、龍馬、慎太郎が襲われ命を落とした「近江屋」8畳間のセットの館2階への設置工事も開始した。少し変わった展示場になるはずである。入館者の皆さんに歴史の動いた部屋を体験していただく。
 まだある。これは館の存亡がかかっていると言ってもいいだろう。館の運営、管理者を決める「公募」が目前に迫った。新たに民間が?今まで通り県の文化財団が?
 龍馬記念館にとっては風雲急を告げる「秋の陣」である。
                                                               (揺)

「竜馬がゆく」 2007年8月24日

 歌舞伎役者の市川染五郎さんが記念館に来てくださった。
 残暑厳しい、抜けるような青空が広がる土佐に、ダークスーツ姿の染五郎さんは涼やかに舞い降りた。舞い降りたなんていうとオーバーに聞こえるかもしれないが、そんな表現が陳腐に思えないくらい立ち姿の美しい役者さんだった。
 3年前の正月にテレビ放映された染五郎さん主役の長時間ドラマ『竜馬がゆく』を覚えていらっしゃる方も多いだろう。
 「土佐弁は難しいですね。もう、嫌いになりそうなくらい格闘しました」と言うが、当時の撮影所では「ほいたら」(そしたら)という土佐弁がそこかしこで飛び交っていたらしい。龍馬暗殺者説に出た「薩摩と新選組は嫌いですね」とも笑う。
 染五郎さんには龍馬が染み込んでいる。そんなふうに思った。TVドラマ収録当時、染五郎さんは「演じるというよりは龍馬になりたい。龍馬に降りてきてもらいたい」とおっしゃっているが、演じて演じて演じきって龍馬になるうち、染五郎さんが体得した龍馬が彼自身の中に生きているのだろう。
 「龍馬は今でいうオタクみたいなものですね。移動中なんかもいつも考えている。考え抜いたことが自信になって、信念をもって日本のために行動する。演じれば演じるほど新しい龍馬に出会えます。私自身のあこがれの人ですね」。
 龍馬のいた土佐に来て、海を見て、この地の空気を吸うことで龍馬に近づける。2度目の高知は前回と同じ暑い夏。だからこそ、龍馬とこの地のパワーを感じるらしい。高知は故郷のような所だと言う染五郎さんは、龍馬の真髄を心底知った役者だと実感した。
 9月2日から26日まで、東京銀座・歌舞伎座で市川染五郎演じる歌舞伎『竜馬がゆく〜立志編』が上演される。龍馬が歌舞伎に登場する。その日が本当に待ち遠しい。
                                                               (ゆ)

「リョウマの夏休み」 2007年8月15日

 暑い夏だ。盆休みの記念館は、多くの人で賑わっている。
 みんな大汗をかきながら玄関から入ってくる。館内に入って「わぁ、涼しい」という声に「どうぞお使いください」と館オリジナルの龍馬うちわを渡すと、満面の笑顔で「ありがとう!」が返ってくる。夏休みの人たち、カップルもファミリーも一人旅もグループも、表情はとにかく明るい。南国高知の青空を呑み込みそうな楽しさだ。
 暑さの中、ベビーカーを含め小さな子ども3人を連れた両親がやってきた。派手な服装がけっこう目立つ両親と子ども達は、入口の外から写真をたくさん撮りながら、館内に入ってきた。一番年長の男の子はしんどくなったのか、ぐずりはじめている。
 私が大丈夫かなと思うまもなく、お母さんは第一声を上げた。
 「わぁ、やっとここに来たんや。あんたら見てみ。おじいちゃんが買うてきてくれたポスターがあるで。感激やなぁ。ホンマに龍馬記念館に来たんやで」。
 こちらまで感激するくらいお母さんは感激している。うれしかった。思わず声をかけた。
 「私ら、龍馬が大好きで、やっとここに来たんです。そして、この子はリョウマって言います」。
 私は思わずリョウマ君を見た。ぐずっていた男の子だ。目が合うとリョウマ君、思わず背筋を伸ばした。その顔は誇らしげに輝いている。
 私が「龍馬みたいな人になってね」というと、「うん!」と大きくうなずいた。ぐずついていた表情は微塵もない。園児だというリョウマ君が龍馬以上に大きく見えた。
                                                               (ゆ)

「独り言 Y」 2007年8月9日

 先日上原ひろみのジャズライブに行って来た。もの凄いエネルギーとパワー溢れる演奏だった。
 彼女のMCにこんなコメントがあった。
 「四国に来るのは生まれて初めてです。
 空港に着くと同じ顔がいっぱいあって、メンバー(彼女以外3人共外国人)にあれは誰と聞かれました。
 龍馬といって有名なお侍さんと答えました。(客席からは、坂本龍馬と言う声が嬉々として挙がった。)
 そしたら何人位殺したの?と聞かれたりして・・・???。
 今度来る時はもっと色々勉強してから、また来たいと思います。」
ここでも龍馬が登場した。

 ドラマ、舞台、ミュージカルと、昔から色々な役者が様々な演出で龍馬を演じている。9月からは歌舞伎座で市川染五郎が龍馬を演じるそうだ。単なる“九月大歌舞伎”の出し物というのではなく、染五郎のライフワークとしての演目にするそうだ。

   当記念館には、来館された方々に自由に書いていただく【拝啓龍馬殿】という用紙を置いてある。そこには悲喜こもごもの思いや人生が真摯に綴られている。中には龍馬に思いを寄せて、子供の名前に龍馬あるいは竜馬と名付けたというご両親の文面も見かけたりする。
 職員の間でも龍馬の普遍性が話題になった。名前一つ取っても龍馬は昔も今も全く古さを感じさせない名前なのであると。混沌とした現代に、140年前の龍馬の思想がそのまま通じる2007年。そして、多くの人々が龍馬の行動力と人物像を渇望している。

   龍馬のドラマ性にしても魅力ある普遍性にしても、この話を聞いていて私はすぐにW.シェイクスピアが頭に浮かんだ。分野は違えども戯曲の物語性において、役者なら誰もが一度は演じてみたいと思う登場人物がてんこ盛りなのである。そして演出家に至っては、時代を全く感じさせない普遍的な内容に魅了され、やはり一度は演出してみたい戯曲なのだそうだ。
 シェイクスピアは龍馬より300年早く生きた劇作家であり、戯曲を通してその時代と世相を鋭く描いた人物である。そして時代を超えて今尚、国内外どこかの舞台では、必ずと言っても過言でないほどシェイクスピアは上演されている。

   龍馬の生まれた日と亡くなった日が同じなら、シェイクスピアもまた、生まれた日も亡くなった日も同じである。(と言われているが、実のところは洗礼受けたのが誕生日の3日後と言うことはわかっているが、誕生日が果たして定められた日かどうかは、はっきりしていない。)
                                                               (M)

「近江屋」 2007年8月4日

 8畳の間である。正面にお床。
お床の前には長火鉢、横に行灯。
お床には掛軸が架かっている。
部屋の隅に金色で大型の屏風。
二階の端部屋なので天井が軒方向に傾斜している。したがって天井が低い。

 三館(歴史民俗資料館、坂本龍馬記念館、中岡慎太郎館)合同企画展、−暗殺140年・時代が求めた“命”か−「坂本龍馬・中岡慎太郎」展が開催して1週間。多くの皆さんにご覧頂いている。貴重な資料と共に、「近江屋」の原寸大のセットを、歴民の2階エントランスに置いた。歴史の動いた部屋の雰囲気を、感じてもらおうとの試みである。

 午後10時ごろだったという。
龍馬と慎太郎が火鉢に向き合って話し込んでいた。
「倒幕」。新しい日本をめざす目標は二人は同じであった。ただ、方法が違った。武力倒幕を主張する慎太郎、平和的に会話で成そうとする龍馬。同じ土佐人、勤王党員。議論に熱が入っていたろう。暗殺者が階段で龍馬の身の回りを世話していた少年、峯吉を切った騒ぎで、物音が起きた。「ほたえな!」その物音に龍馬の声が応じた。「ほたえな」は普通、大人が子供を叱るというより揶揄する言葉である。だから、そこに殺気を感じた危機感はない。同時に躍りこんできた暗殺者は二人を切った。暗殺者は誰だったのか?分からない。
 ただ、この事件で歴史の歯車がゴロリと回ったのは事実である。

 二人の学芸員が、実演して見せた。
「ここに龍馬が。慎太郎はここに」
「掛軸のこの血痕は龍馬でしょう」
聞いているうちに鳥肌が立っていた。
その「近江屋」が、9月以降、龍馬記念館に備えられる。
                                                               (揺)

「あのときから…。140年後の夏」 2007年7月29日

 初めての3館合同特別企画展、―暗殺140年!時代が求めた“命”か―「坂本龍馬・中岡慎太郎展」の幕が上がった。
 今まで街角にあった赤いポスターから龍馬・慎太郎が抜け出して、坂本龍馬記念館、中岡慎太郎館、高知県立歴史民俗資料館のそれぞれで、140年前の事件を検証し始めた。各館ごとのテーマで謎に包まれた“暗殺”に迫る。
 当館のテーマは「海援隊・陸援隊」。二人が迎えた最後の年に改組、結成された両隊は、活動期間こそ短いが、二人の軌跡の上に鮮明に浮き上がる組織。展示資料から二人の考え方、活動、そして最期のときを読み取っていただきたいと思う。
 海援隊の規則を明文化した「海援隊約規」の内容は普遍的に新しい。
 また、長府藩の伊藤九三(助太夫)が仲間の三吉慎蔵と印藤聿に大あわてで報せた手紙。「龍馬先生が殺された!」。伊藤は同家にいたお龍になんと言えばいいのか困って二人に相談してきた。
 三吉は龍馬の妻・お龍に事件のことを告げなくてはいけない。三吉自身も動揺している。140年前のその場面にあった手紙を、当時のままの状態で展示している。三吉家からお借りした手紙は軸装などをせず、送り主がたたんだ状態のままで保管されているからだ。龍馬から三吉に送られた手紙も同様に当時のまま。龍馬の筆づかいがリアリティーをもって伝わってくる。
 それぞれの資料に物語がある。じっくりご覧いただきたい。
 3館をめぐるバスツアーはおかげさまで好評である。8月11日には、幕末史研究の第一人者・青山忠正氏(佛教大学教授)の講演会も楽しみだ。
 いつも以上に熱い夏が始まった。
                                                               (ゆ)

「波の下に“道”が見えた」 2007年7月22日

 梅雨明け直前の桂浜の海は、霞の中にある。
水平線もあいまいで、寄せてくる帯状の波が、ベールの向こう側から抜け出るように姿を現してくる。
生暖かい湿気を含んだ風は、運動神経にまでまとわりつく。
それが、最後の信号とも言える。
 「さあ、もうそこまで!」とばかり一斉に蝉がトーンを上げて鳴き始めた。
 謝謝謝(シエシエシエ)・・・から、既に、民民民(ミンミンミン)。
まるで、参院選挙の宣伝か?
 その声に押されて、館の南端いつもの”空白のステージ"に立つ。
眼前には龍馬の見た海である。
霞の奥が覗けるような気になって、目を凝らすと、眼下に見える椰子の木前方海面に道路が走っているではないか。
いや、海面ではなく、道路の上を波が洗っている。
つまり、海中にガラスドームの道路があって、それが上から見える感覚なのだ。
 トラックが乗用車が列になって、何の支障もない。
不思議の空間。道路は東に向かって水平線を目指す。
 面白いのは、この道がどこからでも見えるものではないことだ。
館の南端、しかも海に向かって左側の先端50センチ四方のポジションに限定される。ここしか見えない。
そこで、そこに足跡で表示した。“幻の道”が見えるスポットと。
 この不思議の正体は、実は館のガラス張りの構造にある。
館の海に向かって右手に見える、桂浜花街道がガラスに複雑に反射して、反対側の海にもぐりこんでいるものらしい。
 しかし、不思議です。毎日見ても不思議です。
 ミンミン蝉は鳴き狂っています。
                                                               (揺)

「日本の洗濯2」 2007年7月16日

参議院選が始まった。
誰に投票しても何も変わらない…そんな気がする。

でも、幕末のあの時代、龍馬ら志士たちは
今よりもっと困難な状況から日本を変えようと立ちあがり
”日本の洗濯”を実現させた。
「何も変わらない」なんて思っていたら、本当に何も変わらない。
龍馬のように大きな仕事はできなくても何か行動を。

まずは投票に行こう!
投票とはつまり自分の意志を示すこと。
洗濯で言うと、洗濯機の電源を入れたくらいのことだけど大事な一歩。
投票に行かない人に、日本の政治に文句を言う資格は無いと私は思う。

今の世の中、おかしいと思うことだらけ。
それでも諦めずに一歩踏み出してみたら、
”日本の洗濯2”ができるかも…☆
                                                               (雪)

「独り言 X」 2007年7月12日

  “良心市荒らし続々16人 張り込み1カ月被害89円で逮捕も”
5月末の高知新聞の見だしである。その記事は“良心足りず、帳尻合わず―。”と言った書き出しで始まる。皆さん良心市というのをご存知だろうか?農家の方達が道路脇に小さな小屋を設け、無人で野菜を売っている市である。支払は料金箱がそこにあり代金をいれるといったしくみである。高知市外の道路を車で走っていると時々見かける心安らぐ風景である。
 記事の内容によると、売上金が不足したり、料金箱が壊されて現金が盗まれるなどの被害があり、高知署が張り込み捜査を続けた結果、正規の料金を払わなかった16人のうちの1人を89円不足で現行犯逮捕したそうだ。この話を聞いた市民の1人が「・・・前略、ある日は小銭がちょうどなくて50円多く、ある日は50円少なく払うことだって許されるのが良心市。そういうことが許されなくなる良心市なんて、世知辛過ぎる。」と話していたそうだ。

  路線バスに乗って1万円札を両替出来なかった乗客に、運転手さんが「次回一緒に払ってくださったらいいですよ。」と言ってくれたという話も聞いたことがある。

  私は銀座でお財布をなくしたことがある。(実はその後戻って来たのだが。)いくら探しても見つからず、結局交番で電車代を借りた。お巡りさんに「どこの交番で返して頂いても結構ですから。」と言われた。恥ずかしかったけれどありがたかった。その後、近所の交番へ戻しに行った思い出がある。

 関東のある小学校では父兄のクレーム対策のために弁護士を依頼する事にしたというニュースも耳にした。クレームのあまりにも身勝手な内容と常識のなさに情けなくなってしまった。

  未来を担う子どもたちのためにも先人の培って来た日本の心を見失ってはいけないと思う。そして、田舎と都会では状況が大違いだけれど、いずれの場合にせよ人と人との信頼・信用があってこそ成り立つ話である。いつの時代にも人間性は確実に問われるのである。

  最近の“独り言”には明るい話題が少なく、批判めいたものもある。けれども私自身、この世の中にいろいろな意味で危機感を感じているのも事実であるから。
                                                               (M)

「龍馬の海」 2007年7月6日

 『竜馬がゆく』に代表されるように、龍馬は作家たちによって生き生きと描かれ、読者は目の前に龍馬がいるかのごとくに感じることができる。実際、記念館に来る人たちの大半は、そういった龍馬にあこがれてやってきた人が多い。
 名随筆『奥の細道』にしても、フィクションがちりばめられていることによって芭蕉の世界や人生観が後世の人々に語りかけてきている。虚像が真実をより真実として伝えることができるということを芭蕉は計算していたのだろう。私はフィクションの力を信じる一人であるが、歴史学の観点から見るとちょっとずれていることもある。
 今、この秋に開催する「樋口真吉」展に向けて、少しずつ調査を始めている。樋口真吉研究者・南寿吉さんとともに進める作業の中で、虚であった龍馬の土佐での時間が少しずつ見えてきたように思う。事実はフィクションよりも面白い謎解きかもしれない。
 若い龍馬は、幡多・中村に住む樋口真吉や、義兄・高松順蔵らに“日本”を視点に入れた理論を学び、身につけていた。そういった確信が生まれてきた。土佐の国の西と東に若い龍馬に大きな影響力を持った人物がいたことに、私は今ちょっと興奮気味である。
 龍馬の足跡をたどると、龍馬のジャンプ台としてこの土佐という地が不可欠であったことに気づく。龍馬を育てた土佐という土地が誇らしくなる。
 近頃私が出かけた龍馬、真吉、順蔵らゆかりの風景の中には、必ず海があった。龍馬と真吉を結ぶ中村・四万十川河口の下田と、伊豆・下田の海。順蔵さんの家からはかつて眼下に安田の海が広がっていたのだろう。
 記念館から見る風景にも、夏色の海が広がってきた。海の向こうに龍馬が見える。
                                                               (ゆ)

「大切な人たち」 2007年6月28日

 ある俳優さんが、あなたの宝物は?ときかれ、「人です。」と答えていた。
 これまで自分が出会ったたくさんの人達のことを思い浮かべた。大好きな人。いつも一緒にいる人。ずいぶんご無沙汰している人。もう会えなくなってしまった人・・・。

 つい先日、「ずいぶんご無沙汰している人」のひとり、数年故郷を離れていた親友が高知へ帰ってきた。久しぶりの再会にもブランクを感じることなく話に花が咲き、昔から少しも変らない彼女の暖かさにふれ本当に嬉しかった。
 彼女には多くの親しい友人がいる。その人達のすばらしさはどんなところか、人柄を思わせるエピソードなど、彼女はとても楽しそうに語って聞かせてくれる。聞いている私のほうまで楽しくなってくる。

 龍馬の手紙を読んでいて、似たような楽しさを感じたことがある。
 例えば、乙女姉さんに宛てて書かれた、3mもの長さになる手紙。妻に迎えるお龍さんの紹介が内容の半分をしめている。
 好きな女性をお姉さんに気に入ってもらいたくて一生懸命のようだが、なんと悪者相手に大喧嘩の末、勇ましくも妹を救い出した「まことにおもしろき女」と書かれてあるのだ。良妻賢母からは程遠いイメージ。
 よりによってなぜそんな紹介文になってしまったのかわからないが、龍馬の感性で見たお龍さん像がそこにある。
 乙女姉さんも、おだてられながらの突拍子もない文面の弟の手紙を、苦笑しながら読んでいたのではと想像してしまう。

 同志達ばかりでなく、師である勝海舟など幕府や藩の要人まで、多くの人物と交流を持ち、絶大な信頼を寄せられていた龍馬。
 それは、彼が人の優れている点を見い出し、尊重することができたからではないだろうか。

 人に共感し、美点を率直に認めることができれば、相手の魅力もより引き出され、お互いにとてもよい関係が築けるように思う。
 そんな人との出会い、かかわりが、人生をずっと豊かなものにしてくれるに違いない。
                                                               (床)

「独り言 W」 2007月6月22日

 ある番組で飛び出す絵本の珍しいものを紹介していた。
 1つ目は“不思議の国のアリス”だ。1ページ1ページ、ページをめっくた瞬間に、アリスと背景が、勢いよくポップに平面から現れる。まさにワンダーランド!
 2つ目は東京写真美術館に収蔵されている約160年前のもの。大英博覧会の様子を描いた10枚のイラストがじゃばらに折りたたまれており、それを広げて手前の丸い穴から覗いて見るとそこはもう博覧会!思わず心が踊ってしまう。160年前と言えば龍馬も生きた時代である。
 3つ目は絵本を開いても何も飛び出さない。そのまま見ても良くわからない。この絵本を見るためには装具を通して見るのである。目に付けて絵本を再び眺めると、そこには3次元が動いている。絵本のタイトルははっきりと覚えていないけれど、まさに仮想空間の世界である。

 3種類の絵本にはそれぞれの時代性と特徴が顕著に表れていると思う。私たちのまわりにも、生まれては無くなりもてはやされては忘れ去られるものが数限りなくある。街の風景でさえも2〜3年サイクルでどんどん変化して行く。昨日まで見かけた街の店舗や建築物が、ある日突然消えて無くなっている。すでに新しい建物が建っていようものなら以前何がそこにあったかさえも思い出せない。

 瞬間瞬間が過去になって行く私たちの日常生活の中で、人々の心に本当に残るものとはいったいどんなものなのであろう?すぐに消えて無くなるのではなく、時代を超えて現代から未来へ残るもの。少なくとも私はそういったものを探求したい。

 「・・・天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
  ・・・時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」
 司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』の最後の言葉である。
                                                               (M)

「龍馬とショウブ」 2007年6月15日

 龍馬についていろいろな質問を受ける。歴史的なことだけではない。
 「龍馬の好きな食べ物は?」「龍馬は水虫だったそうですが…?」「龍馬の好きな○○は…?」エトセトラ。
 近頃「龍馬と結びつく花って何ですか?」という質問を続けて受けた。
 「才谷梅太郎というくらいだから梅でしょうか。命がけでいろは丸事件に臨むとき、三吉真蔵に宛てた遺言状にも梅の朱印があるし…」「菊というのも歌に出てきますね」くらいで答えを濁していた。
 宮地佐一郎先生の「龍馬の手紙」(講談社学術文庫)をめくっているとき「先便差出し申候しよふ婦(菖蒲)は皆々あり付申候よし、夫々に物も付申候よし」という文に再会した。24歳、2度目の江戸剣術修行中に書いた手紙。坂本家ゆかりの北海道樺戸郡浦臼町の郷土資料館が所蔵しているものだ。
 若い龍馬は、有名な江戸の堀切の菖蒲を土佐の乙女に送ったらしい。それが実家で根付いたかどうか聞いている。
 先日、宮地先生の奥様真喜子さんが来館されて、たまたまその菖蒲の話になった。当初、宮地先生は「しよふ婦」を「娼婦」と訳されたらしい。色っぽい話だが、少々つじつまが合わない。そこで真喜子さん「それは菖蒲のことじゃないですか」。土佐に根付いた江戸の菖蒲。龍馬の粋。真喜子さんを囲んで楽しい花談義だった。
 今、梅雨空の下で菖蒲の色が美しい。
                                                               (ゆ)

「沢田明子の世界」 2007年6月7日

“海の見える・ぎゃらりい”で書家、沢田明子による「龍馬と沢田明子展」を始めた。
先生が龍馬記念館ように選んだ21点。
ぴたりと収まって、さすがの世界が広がる。
ギャラリー入り口に「飛騰龍馬之国」の筆がライトアップされて躍った。
赤い紙に、黒々と。
 何かわくわくさせる空間の存在を予告する。
真っ直ぐな目線の先にはガラス越しに太平洋。龍馬の見た海。
水平線が天と海を二分する。
その時点では先生の作品群は目の中に入らないが
“龍馬之国”に入った途端、包み込んでくる気配がある。
一瞬、目は釘付けだ。
 大作、横一本の「一」。これも赤い紙に黒字で「一」。
面白いのは「一」の字が紙の半分から始まってはみ出ている。
起点はわかるが、終点はない。
どこまでも果てしなく続いていく線のイメージ。
「永遠の一」。無限を意味しているのだろう。
「日曜市」「桂浜」「りっしんべん」「鮎の宿」「海幸彦山幸彦」見慣れた書道展の雰囲気ではない。
「直線と余白美、これが私の作品のすべてと言ってもいいでしょう」。言葉に力を込めた。
が、「書も絵も俳句も一緒よね、みな同じ、お料理も、、」笑顔が素敵なおばあさんになった。
粋なおばあさんである。
                                                               (揺)

「独り言V」 2007年5月31日

 先日、当記念館の英語パンフレットをリニュアルするにあたり県の国際交流員の方にご協力頂いた。その方の流麗な日本語にはとにかく脱帽した。また同時に微妙で婉曲的な日本語の表現の美しさを再認識した機会でもあった。日本語の奥底にあるニュアンスをダイレクトな表現が多い英語に訳すのはやはり難しい。けれどもそのニュアンスをきちっと相手の方に理解していただけるように説明出来れば、的確な英語の表現を提案して下さる。

 昨今、若者の間で使われている言葉を耳にしても、私なんかすぐにはピンと来ない。若者に限らず巷で話されている言葉にもへんてこりんな日本語がたくさんある。言葉は生き物であり、時代は変遷して行くものなのでそれがいいとか悪いということでは勿論ないけれど・・・。

 携帯電話もほとんどの人達が所有するようになった。受信者の人々が周りを気にせずどこでも話しをしている光景も珍しくなくなった。館の中だと更にその声は響き渡る。何かの事件で「携帯電話を持っていなかったのでその人が印象に残った。」と証言していたのを聞いたことがある。今や携帯電話を持っていない人は好奇に見られる時代なのである。公衆電話が無くなるのも時間の問題だ。

 日々一刻一刻と前進して行く世の中、日本の良さとかつての日本人の心の在り方が刻々と失われてしまっている気がする。日本は何処へ行くのだろう・・・?
                                                               (M)

「龍馬と直談判」 2007年5月26日

 世の中一体どうなっているのか?怖くなってくる。
“不可解不安雲“が日本をいや地球をすっぽり覆っている。
 母親の頭部を切断して持ち歩く少年がいた。
運動も勉強能力も優れていたという。
だとすれば勉強、スポーツそれ以前の謎。
背後を無理やり覗くと
闇よりももっと暗い漆黒の空間がパクパク口をあけている。
 知り合いの少女をリンチして、小指をはねた。
その小指を「カレーなべに投げ込んだ」と容疑者の一人が嘯いたと報道は伝える。「なにっ!」。言葉がない。
 火災でよく人が死ぬ。
心中、殺人、不可解なり。
 セクハラ農協職員、エッチな警察官、教師・・・なんかは数え上げるときりがない。
 原因は考えなくてもおよその見当がつく。拝金主義の蔓延である。
そこを起源に生じる各種ストレス。
それが嵐のごとく吹き荒れている。髪の毛は逆立つ。

 館に先日、こんなことを書き残して行かれた方がおられる。
[どうしても、なんとしても・・・]これが題。少し紹介すると
 ―今日の悪政と経済悪と社会悪の流れを正したい。
その為に福島県から 坂本龍馬さんと直談判をするためにやってきました。(中略)「坂本」さんならばこの悪政、経済悪、社会悪をどのように正しますか?(中略)私は真に人の「命と暮らし」を大切にする為の政治を実現することこそ大切であり必要と考えるのですが・・・。
 同感、同感。その通りだと思わず膝を打つ。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行R 直行展その後V」 2007年5月17日

 明治31年(1898)家族とともに北海道に渡った直寛は、北見に行かず道央の浦臼町に入植し、キリスト教布教活動に専心した。代わりに、高知出身の前田駒次が北光社の経営や稲作普及に努め、今、駒次の顕彰碑がある場所は「こうち広場」と呼ばれている。
 高知からは最果てほど離れた土地でこうして高知が生きている。そのことに、私は奇妙な感動を覚えた。
 ところで、浦臼(うらうす)と聞いてもピンとこない方がいるかもしれない。札幌と旭川(旭山動物園が人気)の中間ほどにある町だ。ここには坂本家の資料館もあって、直寛らの顕彰をしているようだ。私はまだ行ったことはないが、いつか行く機会もあるのではないかと思っている。
 私はこの1年半、坂本直行という人を道標にして広大な北海道を点でつないできた。いつの間にか、小さな点だったものが、くっきりとした線につながってきたように思う。直行展は終わったが、直行さんを通じた出会いはこれからも広がっていくのではないか。そう信じる。

 閑話休題。
 先日、縁者の方に一枚の写真をいただいた。本などでも紹介されている明治31年に直寛らが渡道する前に高知で撮った坂本家の集合写真。
 印画紙に焼き付けられたものを見ると、当時が鮮やかに見えてくる。龍馬もそうだが、坂本家の人々は写真好きであるようだ。龍馬がよくからかっていた姪の春猪もいるし、直寛の姉や兄家族も写っている。直行さんの母・直意はキリッとした少女だ。小さな子どもたちもいて、その子らが成長し当時を語ったことは今も親族に伝わっているのだから、明治はこの間のことのように思えたりする。もしや年老いた龍馬がこの写真の片隅にいてもおかしくはないと思えるほどだ。
 この鮮明な画像を皆様にご覧いただく日も遠くないと思う。
 現在開催中の「来館200万人記念・所蔵品展」。夏に開催する「暗殺140年 坂本龍馬・中岡慎太郎展」。秋からの「樋口真吉展」。年末から始まる「幕末写真館」。
 史実に沿いながら、人間のドラマが見えてくる。かつて生きた人々が、今を生きる私たちへ贈るメッセージが伝わってくる。そんな企画展をこれからも展開して行きたいと思っている。
                                                               (ゆ)

「北の大地・坂本直行Q 直行展その後U」 2007年5月12日

 札幌からようやく花便りが聞こえてきた。高知とは2ヶ月近く気候が違うことになる。ということは道東オホーツク沿岸にある北見市では、まだ桜のつぼみは固いのかもしれない。現在の最高気温はまだ10度前後だという。
 私が北見を訪れた4月半ば、北見では雪が舞っていた。残雪は路面のあちこちにあるし、私はその寒さに思わずコートの襟を合わせていた。
 約束の時間に遅れて北見市教育委員会を訪ねると、社会教育部長の山崎さんはじめ北網圏北見文化センターの方たちが満面の笑みで出迎えてくれた。遅くなったことや初対面の緊張を味わう時間もないほど、心待ちしてくれていたことが伝わってくる笑顔。人の温かさが北の寒さを溶かしてくれた。
 さて、北見市は直行の祖父、坂本直寛らが開拓会社「北光社」をつくり、高知の先人たちが開拓した土地。大雪山系を源流にする常呂(ところ)川が流れる野付牛(のつけうし)村に、高知からの移民団は入植した。
 小雪の舞う常呂川河畔、小さな公園ほどに整備された場所に直寛や北光社の顕彰碑が建っていた。遥かな北の大地。明治から見ると、1年前の町村合併で北海道一の面積になった北見市の発展は信じられないことだと思う。
 春先の寒さでさえ、南から来た私には厳しい北の風土を十分感じさせた。かつて男も女子どももどんな思いでここに来て、どんな毎日を過ごしていたのだろう。安穏とした今の私たちの想像を絶するものであったことは確かだ。
 わずかな滞在中に、「土佐の人たちが北見をつくってくれた」という言葉をそこかしこで聞いた。私への歓迎の言葉だけではなさそうだ。
 囚人たちにさえ過酷以上の土地であったオホーツク海近くの土地で、土佐の人たちは開拓をし続けた。その辛苦、重労働、失望、絶望、そして一筋の希望の上に人々は生き続け、信念を貫いていったのだろう。先人への感謝と畏敬の念が、私の中に沸々と湧き上がるのを感じていた。
                                                               (ゆ)

「北の大地・坂本直行P 直行展その後」 2007年5月5日

 話は1ヶ月近く遡る。
 4月初旬、直行さんの作品群は北海道に帰っていった。4ヵ月半に及ぶ、反骨の農民画家「坂本直行」展が終わったからで、私も直行さんの絵や資料とともに北海道に出かけた。
 私の立会うもとで梱包が取り除かれ、坂本家の直行さんのアトリエには絵画が元通りに納まった。「あぁ、これでやっと元の我が家に返ったわ。」と夫人のツルさんは目頭に涙を溜めていた。「淋しかったでしょう。申し訳なかったですね。」という私に、泣き笑いしながら「淋しかったですよ。」と言っておられた。
 毎朝、直行さんの写真の前にお茶を置き、花を飾る部屋に、大好きな日高の風景がない5ヶ月。本当に淋しかったと思う。しかし、夫の絵が祖先の地に里帰りしたことにはいささかの感慨を持っていただいたとも思う。
 そんなこともあって、今回の返却作業の合間を縫って、私は札幌市円山にある坂本家の墓地を訪ねた。直行さんにもひと言お礼を言いたいと思って…。
 冬場に墓参りなんてしない。墓は雪の中にあって分からないからという北海道の人の言葉にびっくりしていたが、実際に4月初旬でも、墓地は融けかかった積雪の中にあった。はっきりした場所も知らないまま出かけていたので、雪の中に足を滑らせながらしばらく探し回り、ようやく見つけた坂本家は、直寛の大きな墓石を先頭に静かに佇んでいた。そして私は、『坂本家の人々ここに眠る』という直行さんの墓碑の前で、今回の直行展の報告をすることができた。
 札幌、帯広、広尾と回り、直行さんは北海道に帰って行った。私は返却作業を終えた後、オホーツク海近くの北見市まで足を伸ばしてみた。直行展開催2日目に館に来てくださった北見市の方の熱心な誘いがあったからだ。
 北見は、龍馬の甥で直行の祖父・坂本直寛が開拓会社「北光社」を作り、坂本家をあげて土佐から移住して行った土地。その話は次回にしよう。
                                                               (ゆ)

「“三番コーヒー”」 2007年4月28日

 館に木の香が漂っている。発生源はヒノキのベンチとデスク。
館の中二階に先日、談話室「海窓」が誕生した。ここに、備品としてベンチとデスクが配置された。眼前に開けた、海の景色を満喫してもらおうとの趣向である。もちろん、ただ眺めるのではない。
一杯のコーヒーがあったりもする。
 実は、以前から「休憩場所がない」というのが館の弱点として指摘されていた。「折角いい景色、“龍馬の見た海“が呼んでいるのに」。そんな感想つきである。やっとその思いをかなえることが出来た。スペースはおしゃれな談話室に生まれ変わったのである。
木の香は、鼻孔から脳を通過して、心にまで届く。

 完成した次の日の朝、“一番コーヒー“を決めてやろうと出勤するなり「海窓」へ。出勤は一番乗りだったから、口笛もんだ。自販機用に用意したポケットの小銭をちゃらつかせながら階段を上がった。
見れば水平線。春霞を払ってすっきり一直線。波間にじゃこ漁の小船が揺れている。陽は明るく風は少し。
 “お茶条件”はこれに勝るはなし。なにせ「一番」。
海から、室内に視線を回した。そこであっと驚いた。先客がおいでた。清掃をお願いしているKさんとYさんであった。彼女たちの出勤時間の早さを忘れていた。ブルーの制服がすっかり雰囲気に馴染んでいる。
「館長さんお先に。いいですねえ、ここは。病み付きになりそうです」。
同感、同感。
“三番コーヒー”をじっくり味わった。
                                                               (揺)

「独り言U」 2007年4月21日

 ストレスの解消法やリフレッシュの仕方は人それぞれ色々な方法があると思う。因みに、私の場合は芸術鑑賞である。アート、音楽、舞台など、とにかく自分で見たいと思ったものを観ることである。そしてその鑑賞したものが本当に良いものであった時、頭のてっぺんから爪先まで体内が浄化され至福の時を過ごした事が、その余韻と伴に心の糧となっていく。

 現代では何事においても選択肢が非常に広がって来ているので本当に良いものを選ぶことの方が難しいかもしれない。けれどもそれを選択し、見極めるのは自分自身である。その目を養うにはとにかく本物をたくさん観る事に尽きると思う。

 先日ある人物が描いている作品を見せてもらった。風景の色が今一つ納得いかないと話していた。そして、ある美術展に赴いた後再度描き始めた作品は、大胆に色合いが変わり、明らかに以前とは異なっていた。
やはり「いいものを観なくてはね。」という話に落ち着いた。

 自分の目を養うには一足飛びには無理だ。ある程度時間をかけて自分の感性を磨く外ない。それは経験にも繋がる事だから。
 作品選びには、マス・メディアの影響も多大だと思う。けれどもそこに書かれていることを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の目で鑑賞してみるべきである。書かれていることと全然違った感想を持つことだって勿論あるのだから。

 高知は悲しいかな芸術的要素の選択肢が実に狭い。寂しい限りである。そうなると県外まで足を運んでしまう。そうではなくて,高知に居ながらにしてせめて中央で見られる水準と同じものを鑑賞出来るようになって欲しいと思う。
 幸い、当記念館は県外からの来館者が多い。他に要求するのなら、当記念館も常にレベルアップを図り、自分自身の目を養える記念館の1つでありたいものである。
                                                               (M)

「帯広」 2007年4月12日

 帯広に“まいった“
 雪原の帯広に飛行機はゆっくりと着陸した。
まるで雪面を滑るがごとし。
窓の外を流れる風景に、記憶のポケットを刺激された。
“どこかに似ている”。すぐに思い当たった。
 シルクロードの拠点、新疆ウイグル自治区の首都ウルムチのウルムチ国際空港の果てしなきたたずまいではないか。
重く天から覆いかぶさっている鉛色の雲。
しかし、空気は澄んでいる。
雪原の区切りのように、枯れた樹林の列が並んでいる。カラマツだろう。
ウルムチなら、これがポプラだ。
ふと、目線をカラマツの奥に向けた。
さらに続く雪原の果てに雪をかぶった山脈の気配。
目を凝らすと、確かに見えた。
ウルムチなら際立って聳えるのがボゴダ峰である。見入ってしまった。
空港ロビーを出て、風に当たっても寒さを感じなかった。

 そうだ、帯広に来たわけは先に館で開催した「坂本直行展」で借りた絵の返却であった。
製菓会社「六花亭」所有の中札内美術村から90点近い直行さんの絵を借りたのをはじめ、広尾町、同地区の農協などなどお世話になった先は数知れず。
驚いたのは、戻しに行って逆に大歓迎を受けてしまったことだ。
珍味の山々、そして何より情の笑顔。まいった。まいった。まいってしまった。

 冬山を降りてきた後輩たちを、十勝原野に住む直行さんはこんな風にもてなしたのだろうか。
翌朝、まさに青空の下に連なる日高山脈を見た。バス待つ見知らぬスキー帽をかぶった青年の立ち姿に知らず直行さんを重ねていた。
 それに、動き出したバスの前を、ヒラリ!横切った影は紛れもない“龍馬”と感じた。
 帯広は忘れられないところになった。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行O」 2007年4月5日

 反骨の農民画家「坂本直行」展が終わった。感無量である。
 正直、4ヶ月半(141日)という会期は長かった。調査・準備期間を入れると優に1年半になる。旅行会社のチラシで飛び込んだ「韓国直行便」という文字に、「あれっ、直行さんは韓国に行ったことがあるのだろうか?」と思ってしまうほど、気持ちはいつもチョッコウさんに向いていた。いや、いつもと言うと語弊があるかもしれない。行き詰って、直行さんから逃げたい時もあったから…。
 と言っても、絵画や資料をお借りするために北海道入りした昨年10月末。最初の坂本家で直行さんの絵が運び出された時の感慨は忘れがたい。いよいよ直行さんが海を越えて里帰りをする。初めて高知に行く直行さんをツル夫人はどんな思いで見ているのだろう。ここに来るまでの道のりは長かった。そんなことを考えていると、ガランとしたアトリエから直行さんの声が聞こえた気もした。様々な思いが交錯し、高揚する気持ちで絵画を送り出した日のことをはっきり覚えている。
 札幌から帯広を巡った美専車が、北海道での最後の場所、広尾町の海洋博物館を出発した時も同じだった。太平洋を背にした車は一路高知を目指す。いよいよ海峡を渡って直行さんが高知に里帰りする。感無量であった。

 会期中ご来館くださった多くの顔が浮かんでくる。会場にあふれた直行さんや直行一家の顔。直行さんの何人かの息子さん方も来てくださった。家族も知らない直行さんの顔もあったようだ。
 北大関係者、六花亭、秀岳荘、直行さんの後輩達。“歩歩(ぽっぽ)の会”のメンバー。直行さんのファン、企画展を機にファンになった方達。多くの高知の人たち。会場で説明・解説しながら、教えられることも多かった。

 週1,2度、入口に花を飾ってくださった郷田さんの最終作品のテーマは「三相」(=過去・現在・未来)。中心になる苔むした梅の木は“龍馬”(=才谷梅太郎)。古木に寄り添う野草、吾妻鐙(アズマアブミ=東国武士の馬具)は直行さん。「日本百名山」の深田久弥をして「古武士のような」と表された直行さんのイメージに合う。二人は過去から私たちを呼び止める。つぼみから咲いていったサクラの一枝は現在。古木の下方にはこれから白い花を咲かすだろうユキノシタが未来を指している。
 今は未来であり、過去となる。記念館での直行展は終了したが、別の物語として未来に続いて行くだろう。訪れた4万7千人余りの方たち、訪れることはなくても直行さんを知った方たちが、これからも直行さんを語り続けてくれることを信じている。龍馬と同じように。
 多くの皆様に言葉にならないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
                                                               (ゆ)

「最終日の“会話”」 2007年3月31日

四ヶ月半。長丁場であった。
「坂本直行展」。
振り返る間もない時間の流れ、その早さに圧倒された。
「直行さん」と一日に何回言っただろうか。
絵の前を通る度に、知らず「直行さん」と呼びかけていたこともある。
そ知らぬ顔をされたこともあるが、じっくり話し込んだこともある。
時に、直行さんの方から呼び止められて、
十勝平原の見所を教えられたりもした。
「高知は暖かい、人情はさらに温かい。ひしひしと感じるなあ」
お世辞以上のほめ言葉に、こちらが恐縮してしまったことも。
絵を通して、直行さんの人柄に触れることが出来たと思っている。

 さて、最終日。朝早くから多くのお客さんである。
「六花亭」のチョコレートはもう売り切れてない。
しかし人波は途切れない。 最後を楽しもうと、何回目かの入館者の方もおられる。
絵を見て、アルバム見て、また絵を見て最後にそう海を見る。
「ええ眺めじゃ」。お年寄りが腰を伸ばしていた。
 その姿に涙が出そうになるくらいうれしくなる。
 四つの会場を一巡りして、屋上への螺旋階段を上りかけたとき、
 直行さんの声が追っかけてきた。
 「ありがとう」。応えて「こちらこそありがとうございました」。
                                                               (揺)

「一生の思い出に」 2007年3月27日

その日は、館全体が浮き立っていたように思う。
坂本龍馬記念館、平成3年開館以来の入館者が200万人を突破するのだ。15年の歳月を費やしている。積み重ねの結果である。長く感じるが、調べてみるとそれでも個人の顕彰館とすれば早い。対象を歴史上の人物に絞れば、日本一となる。龍馬のそれが魅力だろう。
 さて、200万人目は、名古屋からお越しのIさんであった。
入館と同時に、待機していた報道のフラッシュがたかれた。
いきなりの取材攻勢にIさんは目をシロクロ。
正気に戻り、事の次第が分かるまでに少々時間を要した。
しかし、現実は歴史の節目であっても一瞬の通過点にすぎない。Iさんの後続は2000001人、2000002人,2000003人・・・・・・・・
 一週間が過ぎたころ、Iさんから館に便りが届いた。
お礼状であった。報道には驚いたが、「このような幸運に恵まれたことは一生の思い出になりました」と述べておられた。さらに、これを機会に、坂本龍馬についての勉強も考えているという。朝礼で職員の皆さんに披露したら、だれもが“うんうん”とうなずいていた。
 最後にIさんはこう結んでいる。今回時間に制限があり十分見学ができなっかったので「再度訪問したいと思います」。
うれしいお話ではないか。
「お待ちしておりますIさん。2000001人目だった奥様とご一緒にどうぞ!」。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行N」 2007年3月22日

 先日私は、いの町の歴史愛好家たちがつくる「いの史談会」に呼ばれて直行さんの話をしてきた。30名近くの参加者の中には、会員ではないが直行さんに興味があって参加したという人もいて、2時間があっという間に過ぎた。熱心な質問も多かった。
 会のメンバーは歴史を通じて自分を高めようという人ばかりである。そして、人生の先輩方である。私自身も皆さんに質問を投げかけてみた。
 直行に「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」(坂本家所蔵)という絵がある。ツルさんが一番古いという、板に描かれた4号の小さな油彩だ。遠くの雪山や原野を包む大気が赤らんでいる。
 私はこの絵の名前に興味を引かれていた。カムイ〜はアイヌ語で神様のいる何とかという山の名前だろう。モルゲンロートは山を知っている人なら分かるのだろうが、手許の広辞苑とカタカナ語辞典にはないなぁ。と、曖昧なまま放っておいた疑問を問うてみたのだ。
 小気味よいくらいの即答が返ってきた。
 カムイエクウチカウシ山はアイヌ語で「ヒグマが転げ落ちるほど急な山」、モルゲンロートはドイツ語で「朝やけ」のことだという。いの町立図書館に勤める森沢さんに教えていただいた。森沢さんは十数回も北海道の山に登っているらしく、本のコピーも送ってくださった。私も斜め読みしていた「北海道の百名山」(道新スポーツ刊)を読み返してみた。
 カムイエクウチカウシ、通称カムエクは日高第二の高峰。昭和初期から北大山岳部が登頂している。昭和7年には直行も冬季初登を果たしている。ツルさんが開拓時代の一番古い絵だといい、野崎さん(野崎牧場)の所にいた頃のものだというのも頷けた。
 森沢さんをはじめご自身の登山や旅行、趣味、人生の体験を直行さんに重ね合わせている方は、まなざしや思いが深い。直行さんを通じて多くの対話が生まれていることだろう。
 直行展の会期は残り10日。「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」は梱包され、札幌に帰る準備に入った。菜の花畑が広がる春爛漫の高知から、朝やけに染まる白い大地に直行さんが帰っていく日も近い。
                                                               (ゆ)

「ありがとう」 2007年3月17日

”ありがとう”には色んな意味が込められていると思う。

私は、コンビニに行っても、服を買いに行っても、どこに行っても、必ず「ありがとう」と言って店を出ることにしている。
それは単に、自分が接客の仕事をしていて、お客様から「ありがとう」と言ってもらうと本当にうれしくて、
「あぁ、この仕事をやってて良かったな。どんなに忙しくても笑顔で頑張ろう」という気持ちになれるから、
というだけの理由なのだが、「ありがとう」と言われて腹を立てる人は、まずいないと思う。
”ありがとう”は元気をくれる言葉。

ときには、忙しさのあまりに笑顔を忘れていて、お客様の「ありがとう」という言葉に、はっとさせられることがある。
”ありがとう”は”頑張って!”にもなる。

人のために何かをやっていて、それが予想以上に大変な仕事だったとき、それを引き受けたことを後悔することがある。
それでも何とかやり遂げて、相手から「ありがとう」と言ってもらった瞬間、それまでの大変だったことは忘れて、心がほわっとあったかくなる。
”ありがとう”は心の栄養ドリンク☆

自分が博物館に行って、その内容に本当に満足して感動して「来て良かった!絶対にまた来よう!!」と思ったとき、
「○○が良かった!□□に感動した!!」と気持ちを伝えたいところだけど、グッと抑えてひとこと「ありがとう」と言う。
これは、素敵なものに出会えた喜びの”ありがとう”。

”ありがとう”は言われた方も、言った方も、気持ちがいい。

3月7日、高知からお越しの70歳の男性のアンケートの感想欄に
「大きな画が描ける人物(画家)だと思います。ありがとう。」とあって、この最後の「ありがとう。」が強く心に残った。
ふと、ひとつ前の項目を見ると「館内を見学した満足度は?」の問いの「大満足!」が大きく○で囲まれていた。
この”ありがとう”は「大満足!」の”ありがとう”であると同時に、これからもお客様から「ありがとう」と言っていただける、
言いたくなるような展示ができるよう努力していかなければならないという、私たち記念館職員へのエールにも感じられた。
                                                               (雪)

「龍馬の”逸品“に?」 2007年3月13日

 龍馬をイメージするならまず「海」が浮かぶ。
龍馬の心の広さと、行動力の象徴には海はもってこいだ。
実際、「海援隊」を始め、「いろは丸」「夕顔」・・など、龍馬と海は切っても切れない。
 例えば、Tシャツを作ろうとする。
 龍馬の背景にあるのは海、または船となる。
それがまたよく似合う。
船のデッキに立つ龍馬は、腕組みをして前方を見つめている。
びんのほつれが、風になびく。
まさしく風雲児。
 桂浜龍馬の像がそのままのイメージで、龍馬ファンの脳裏に焼きついている。
なるほど、あれほど日本国中駆け回っているのに、馬に乗った龍馬などというのは聞いたことがない。
 ところで、館の「坂本直行」展はいよいよ最後。最終日3月31日に向けて、連日大勢の人出でにぎわっている。直行の絵を見に来た人が、龍馬の手紙を熱心に読んでおられる。
逆に龍馬の資料を見に来て、直行さんの絵の虜になった人も。
 直行さんの代表作といえば十勝大平原の彼方に連なる日高山脈、その光景を柏林越しに描いた「初冬の日高連峰」だが、その代表作は、館入り口の壁に大きく再現している。入館者の皆さんに北海道の大自然を体感してもらおうとの思惑あってのこと。それは成功したと感じている。
 もう一つ、おまけがあった。その壁に囲まれて龍馬の像が立っている。台座の上に立つ像だが、その頂点が、龍馬の身長に併せてある。これがなかなかの人気で、皆さん像の前で記念撮影をされる。気が付いた。その像の背景は日高山脈である。いつもの白い壁でも「海」でもない。“日高山脈を従えた龍馬”これは滅多に見られる構図ではない。
 入館の折には是非この構図の写真を一枚撮ることをお勧めします。
 ずーと年月が過ぎて、龍馬の珍しい逸品?になるかも。
                                                               (揺)

「龍のたてがみ」 2007年3月8日

2月24日、姉に男の子が生まれた。
私の弟の誕生から22年ぶりに我が家にやってきた赤ちゃんにみんな夢中になっている。
その弟が生まれたとき私はまだ2歳だったので、生まれたばかりの赤ちゃんを間近で見るのはほぼ初めてで・・・。

先日、リビングのテーブルの上で赤ちゃんの入浴タイムが始まった。
お腹の方を洗い終わって、続いて背中を洗う。
いつも寝てばかりの赤ちゃんの背中を初めて見た!
肩から背中にかけて細〜いうぶ毛がたくさん生えていて、ちょっと驚いた。

そう言えば、龍馬は生まれたとき背中に龍のたてがみのような毛が生えていたから「龍馬」と名付けられたという話がある。
他にも、龍馬の母・幸が懐妊中に空翔る龍の夢を見たからという説もあるが、赤ちゃんの背中を見ると、龍馬命名の由来は前者だったのでは・・・と思う。

私は3月生まれなのに、生まれた時”雪”が降っていたという理由で「ゆき」と名付けられた。
そして弟は、父が産院の待合室で『三国志』を読んでいて、弟が生まれた時は諸葛孔明の場面だったという理由で「孔明」と名付けられた。

そんな安易に名前が付けられることもあるのだから、龍馬の名前が背中のうぶ毛から命名されたという話も本当かもしれない。
                                                               (雪)

「我が家の“庭”」 2007年3月4日

 出勤すると、館内を一巡りする。
 展示に落ち度はないかのチェックが目的だが、最近になって別の感情が同居するようになったなと気づいた。展示を楽しむ気持ちである。特にお気に入りの絵の前では腕組みなどして味わっている。おこがましいが日高の山々、十勝大平原が、我が家の”庭“になってきたのだから。気持ち大きく、ひとりで浮き浮きしてくる。それが直行さんの”絵の力“に違いない。
 いや、そればかりではない。これは不思議な感覚に近い。
 並べて展示してある龍馬の写真や、真筆の手紙が、これまで以上に迫力いっぱいで語りかけてきだした。「・・だした」というのは、新鮮な感覚である。
 緊迫、殺伐の時代に龍馬が姉や、友人に書いた手紙が、時代を超えて生の声で伝わってくるのだ。壁に架けてある龍馬お決まりのポーズ写真が、直行さんの描いた、ネパール、ヒマラヤの絵と並んで違和感がない。まさに“競演”である。
 直行さんの絵が持つ力に私の胸奥で眠っていた鈍感な感性の扉が刺激されたのかも知れぬ。なにせ直行さんが、自然と向き合い対話を続けた期間は30年を超える。繰り返してきた問答の長さを思う。長い問答の末に、大自然が直行さんだから許す表情をのぞかせた。「直行さんお前さんは親友だよ」吹き抜ける風が“使者”に立ったのかもしれない。
 さすが直行さん、うむ、やっぱり龍馬。である。
 直行展は3月いっぱい。龍馬記念館入館者200万人達成も目前に迫った。
 来館をお待ちしています。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行M」 2007年2月25日

 直行展が始まって3ヶ月余り。すでに32,000人以上の方が直行さんに会いに来てくださった。そして、館内は今までにないほど土佐弁がこだましている。「チョッコウさんが…」「チョッコウさんは…」という来館者の声に、遠い北国で開拓農民や絵描きとして過ごした一人の男が、高知の人々にしっかりと受け入れられていることを実感している。
 思えば1年前には、直行さんは関係者だけが知っているような人だった。私が直行展を開催したいと強く思った3年近く前には、本当に限られた人しか知らなかったし、直行さんのみならず龍馬に子孫がいるということすら余り話題に上らなかった。
 龍馬のDNAを継承する人はたくさんいらっしゃる。また、親戚縁者も多い。龍馬を語る人、語らない人。それも様々。
 直行さんは郷士坂本家の跡取り八代目。坂本家という看板や、祖父の叔父に維新の英雄・龍馬がいたことは大きな重荷だったのだろう。実業家として厳格だった父への反発や山への強烈なあこがれが直行さんの半生を支えている。自分自身の生き方を貫いた姿勢は龍馬に負けない。

 直行展は佳境に入った。今月半ばに最後の入れ替えを終え、返却作業の段取りが頭に浮かぶ頃となった。これまでは開催や作品展示、来館者の受け入れ、各種の催しや販売のことetc。慣れない作業に慌しく毎日が流れていった。
 今ようやく、ひととき直行さんに向き合う余裕が出来た。直行さんの著書も再度読み返している。直行さんの言葉、風景、気持ちが風のように心に入ってくる。展示している絵画や写真、お宿帳(原野と市街地での30年間に約600人が直行宅を訪れ、泊まり、交誼を重ねている。その記録)、等々。それぞれの光景が生き生きと迫ってくる。分からなかったこともパズルのようにカチッとはまってきた。
 秋の農作業、冬支度に追われて、我が家の薪すら用意できずに、北風にさらされながら薪割をする直行さん。私もそんなふうに直行展の千秋楽を迎えるのかもしれない。それでも季節は巡る。
 春到来。春はいつも直行さんに新鮮な感動をもたらした。記念館はまもなく、直行さんとともに開館以来200万人目のお客様を迎えることになる。感動とともに春が広がる。
                                                               (ゆ)

「人気者は・・・」 2007年2月20日

 記念館の屋上。朝日を映して広がる美しい海を眺めていると、頭の中が音楽を奏で始める。ハーバートという作曲家のチェロ協奏曲。ソリストは大好きなチェロ奏者、その人柄を誰もが称えるヨーヨー・マ。優美な旋律と温かく深みのあるチェロの音色が海と溶け合う・・・。
 大好きな・・といえば、俳優のジョニー・デップの顔も浮かぶ。役ごとにがらりと表情を変える独特の演技に魅了される。おしゃれな着こなしのその腕には、彼の幼い娘さんが作ったというかわいらしいビーズのブレスレット。共演した子役の男の子は、「彼の誰にでも分け隔てなく親切にする姿勢を見習いたい。」と語っていた。
 そしてこの記念館の主役。言わずと知れた維新の英雄、坂本龍馬。彼は先見性や行動力だけでなく、心の広さも待ち合わせていた。龍馬を慕っていた志士、陸奥宗光は、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、嫌われることが多かったとか。しかし龍馬はそういう人でさえも温かく包み込んだ。器の大きな人物だった。龍馬が暗殺される2日前に書き残した手紙は、この陸奥に宛てた、趣味の刀談議。
 海を前に勝手に連想しただけの、全くつながりのないこの三人。でもどこか似通っているような・・・。
 それは魅力的な人柄とたぐいまれな才能とが相俟ってすばらしいものを生みだしていること!人を感動させ、惹きつけてやまず、勇気づけることさえある。
 しかも龍馬は時を超えて…。
                                                               (床)

「89歳の山男」 2007年2月17日

 北大の山岳部で、直行さんを知る I さんが館に来られた。
I さんとは「直行展」開催直前に館でお会いしたのが最初である。
何より「89歳」と聞いて、お達者ぶりに驚ろかされた。
動作が速い。足腰がしっかりしている。
重そうなリュックをひょいと担ぐ。
さすが山岳部OB。
若かりし頃の片鱗を十分に窺い知ることが出来る。
 北海道の仲間に直行さんの図録をと、数十冊の図録販売までもお世話になった。

 2ヶ月ぶりの再会である。
顔を合わせるやいなや、 I さんは握手を求めてきた。
 手の位置が胸の辺りまでくるアクションの大きい握手である。
「よかったじゃあないですか。立派、立派。ほんといい企画展です」
通路の真ん中で、他の入館者も思わず足を止めるジェスチャーであった。
しかし、うれしくてこちらもついつい声が大きくなっていた。

 第三会場、直行さんのアルバムコーナーに、直行さんが列車からタラップ伝いに降りてくる一枚の写真がある。プラットホームには友人らしい人影が数人。皆さん背広姿。改まった会議の流れか?が、よく見ると背広ズボンなのに靴は、不釣合いな登山靴ではないか。
I さんが言った。
「あの写真、私が撮ったのですよ。山の遭難事故があって、北大山岳部OBの連中が捜索に参加しました。そのときの、スナップです」。
 I さんは遠くを見る眼差しになった。瞬間、時計が逆回りして、止まったように感じた。
                                                               (揺)

「月琴の魅力 PartU」 2007年2月10日

 月琴。「げっきん」と呼ぶ響きがいい。
「月」だから、白昼は似合わぬ。
満月の夜もよかろう。もっと黄昏どきの方がいいかも知れない。
いや、いっそ、そぼ降る雨の夜は?
  先日、坂本龍馬記念館で新年コンサートを計画した。
  題して「“オカリナと月琴・出会いのデュエット“」
 オカリナは本谷美加子さん、月琴は、ハープ奏者の大村典子さん。
 本来お二人の関係は本谷さんがメインで、大村さんが伴奏役である。
 たまたまの行きがかりで、大村さんが館所蔵の月琴を弾くことになった。
 館の月琴は、幕末の頃のものといわれる。
 展示してあるが、もちろん弾いた記録もない。
別の企画展で、月琴の展示場所がふさがり、点検したところ乾燥によるひび割れなどが見つかった。
 修理できたら当然音が聞きたくなった。1月28日はそれでなくてもオカリナコンサートは準備していたので、大村さんに月琴を渡したという次第。
 大村さんも初めての経験。それでも2ヶ月ほどみっちり練習していただいた。

 当日。会場は160人満席であった。
本谷さんのオカリナに酔いしれた前半、突然、オカリナが月琴に代わった。
大村さんが月琴を抱えていた。
「ぽろん、ぽろん」と幕末が弾き出された。
誰もがぐっと身を乗り出した気配が伝わってきた。
脳裏に、退廃と希望、殺戮と一時の平和が一つになって醸し出す幕末の場面が浮かんだ。
龍馬のために、お龍が奏でるのはこんな風ではなかったかと想像した。
 聞きながら龍馬は何を考えたのだろう。二人だけの世界。
黄昏の陽の射す座敷に手すりの陰が落ちている。
横になった龍馬は、目をつぶっている。軽い寝息が漏れた。
「ポロン、ぽろん・・」。
お龍は、もう少し弾いていようと思った。
今年名月の頃、もう一度コンサートを開く。心に決めた。
                                                               (揺)

「月琴の魅力 PartT」 2007年2月5日

 私がこの記念館に来た当初からずっと気になっていたのが月琴という楽器の存在だった。果たしてどんな音が出るのか?非常に興味深く思っていた。そんな思いに答えてくれるかのように、1月28日、夕刻、桂浜荘の地下ホールでオカリナと月琴のコンサートが開かれた。お客様も160名近くの方が足を運んで下さり、その未知の音色への関心の大きさが感じられた。

 本谷美加子さんのオカリナと大村典子さんのサウルハープの演奏が始まると、えも言われぬ心地好い響きが会場を包み込んでいった。
 サウルハープの“サウル”という名称は旧約聖書から由来しているそうで、絵画などに見かける、膝の上にかかえて演奏出来る位の大きさの發弦楽器である。その音色は限りなく豊かで愛らしい。

 そして月琴もリュート属の發弦楽器であり、中国の阮咸から派生したもので義甲を用いて演奏する。音色はと言うと、“ドレミファソラシド=ヒフミヨイムナヒ”のファとシにあたる“ヨとナ”を抜いた“ヨナ抜き音階”で演奏される。その少し調子はずれのたどたどしい音色にはリュートほどの響きはなく、三味線のような強さもない。けれども爪弾かれる音の世界には幽玄の世界が深く漂っていた。
 140年以上も前の江戸時代末期に、龍馬のために奏でたお龍さんの月琴の音色。月琴は聞く側の想像力が膨らめば膨らむほど楽しめる楽器だとも思う。まるで音を耳にして舞台を見ているような気分になった。

 もっと色々な月琴の音色を聞いてみたいという想いが募る。前にも増して月琴の背景と魅力を探求してみたくなった。
                                                               (M)

「去る人、来る人」 2007年2月1日

 館に9年勤めたベテラン職員のTさんが、退職された。といっても現役引退というのではない。家庭の都合で職場を替えるのである。人柄、仕事ぶり、誰もが“やり手”と認める人材だっただけに、館にとっては、しばらく痛手を引きずることになった。
 彼女Tさんは最後まで仕事の引継ぎに追われていた。
 少しでも抜ける穴を小さくするため後任を募集した。およそ40人の中から期待を込めて一人を選んだ。
 先日、歓送迎会も終えた。
 館は新メンバーを加えて、新体制がスタートした。
 春三月、桜散る別れの季節が、館には一足早くやってきた感じである。
 館の南端、“空白のステージ”に立って、龍馬の見た海を眺める。今日は水平線くっきり。このところ漁があるのか、漁船が多い。波間に張り付いている。30隻は下らない。うねりは長い帯になって水平線から寄せてくる。眼下の松の枝が揺れた。わずかに風あり。
 自然に両手は腰の上、足は半開きの“龍馬のポーズ”。
 時代の波、季節の波を感じている。
 「去る人」「来る人」。二人のパワーをもらって、坂本龍馬記念館は前に進む。
                                                               (揺)

「ミュージアムショップにて…」 2007年1月29日

先日、小学生のくりくり坊主の男の子2人とそのおばあちゃんの3人連れがやってきた。

おばあちゃんが、「何でも好きなもの1つ買ってあげるから、選びなさい」というと2人は喜んで早速眺めていた。

年齢からいっても六花亭のお菓子を選ぶだろうな、と見ていると2人揃って直行のポストカードの前へ。「きれい〜!!」「どれにしよう。全部欲しい」
30分ほど悩み続け、それぞれ山の絵のポストカードを2枚ずつ選んだ。
「全部きれいやったね。お兄ちゃんのもいいね。」などと話しながら、コーナーを振り返りつつ名残惜しそうに帰っていく。

大事そうに持って帰る男の子と嬉しそうなおばあちゃん。
こんな瞬間が、販売員として一番嬉しい。
おまけをあげたくなるほど可愛く、とても暖かな気持ちになった。
                                                               (歩)

「割れた竹筒」 2007年1月19日

「坂本直行展」入り口に、一鉢の生け花が置かれている。
「草木花塾」の主宰、郷田八代さんの作で、このことは、既にこの欄でも紹介済みだ。このグループの得意とするところは、野に咲く自然な草花をあしらって独特の空間を演出する手法である。
 普通のお花を生けるのとは少し違っているように思う。
それは単に“きれい”だけではなく、“存在感”とでもいえばいいのだろうか。
「今、草木は季節的に眠っている時期でしょう。その中から材料を探すわけですから・・・」草や木に、人に話しかけるがごとく問いかける。
労わる。感謝する。本当に大事にしているのが良く分かる。
 車の右前部、バンパー付近が擦れていた。
「山道が草で隠れていて、石に気づかなかった」とくったくない。
「車は傷だらけですよ」。
 先日、花瓶を古い竹筒に見立てた作品が登場した。
竹筒は20センチほどの高さがあった。節が二つ。苔が生えていて風情もなかなかのものである。午前中に生けたその日の夕方だった。
「パン」。大きな音が館の入り口付近に鳴り響いた。
居合わせた入館者もびっくりした。受付の職員も腰を浮かせた。
見ると、くだんの竹筒が見事に縦に裂けて、水が噴いていた。
館内の乾燥のせいで、竹が弾けたのだ。それもまた一興。割れた竹筒は郷田さんにお返しした。
「割れてしまったの。皆さんびっくりされたでしょう。ごめんなさいね」
郷田さんはしきりにお詫びして頭を下げられた。胸にしっかりわが子のように竹筒を抱えたままで。
                                                               (揺)

「足音を聞いて育つ」 2007年1月13日

 正月に妻の実家へ行ってきた。妻の実家は農業を営んでおり、私たちはいつもおいしいお米を頂いている。義父と農業の話をしていた時、上手にお米を作る秘訣を聞いてみると、その答えは「田んぼへまめに足を運んで手入れをしてあげること」だった。
 4・5年前、県立歴史民俗資料館で、「おばやんの知恵袋」という面白い企画展が催された。当時83歳だった“おばやん”は、講演の中で「人の足音で、つくり(作物)は育つ」ということをおっしゃられた。やはり義父と同じなのだ。「いっつもは直接手をかけなくても気をかけて見に行きよったら、結局は手が足りてよう育つがじゃね。作物の成長具合を眼でみるが大事ということよ」(企画展展示資料解説集より)
 これは非常に含蓄のある言葉で、様々なことに共通した言葉ではないかと思う。例えば子どもの成長である。いじめや自殺、事故など子どもにまつわる事件が多い昨今、親はどれだけ子どもの変化に気付いているだろうか。早く気付けば何らかの対処ができるかもしれない。
 博物館にもこの言葉は当てはまる。資料は生き物ではないので成長することはないが、逆に日々劣化している。それを最小限に止めることが博物館の使命である。毎日展示室へ行き、資料の様子を見ていれば、展示室内や資料の異変に早く気付くことができ、早い対処ができる。現在当館で開催されている坂本直行展は、普段当館ではあまり展示をしない絵画が中心で、しかも展示方法が大きく違う。こういう時こそ、まめに展示室へ足を運ぶことが大事だとあらためて感じた。
 直行展は好評で多くの方が来館してくださっている。あと3ヶ月、先は長いが気を引き締めて臨みたい。
                                                               (抜)

「それぞれの日の出」 2007年1月6日

 あけましておめでとうございます。2007年の幕開けを皆さんはどこで迎えられたのでしょう? 私たち職員は、全員で記念館の屋上展望台に上って日の出を待ちました。冷たい風を頬に受け、彼方の薄雲がかかっている天空をひたすら期待を抱いて見つめていました。日の出を待つそれぞれの姿と表情は十人十色、皆個性的で豊かです。
 海上には帆を張ったヨットが何隻も滑り出しその時を待っています。やがて黎明色の空が刻々と白み始め、瞬間真赤な太陽が頭を出しました。どよめきと歓声の中、太陽はどんどん大きくなっていきます。私は思わず拍手を打って‘世界が平和でありますように’と祈りました。

 記念館では“坂本直行展”の作品展示替えも行い3月31日(土)まで開催しております。また、1月28日(日)午後6時からは“オカリナと月琴”のコンサートもお愉しみいただければと思います。

 雄大な日の出と共に1年がスタートし、多くの方々が記念館を訪れて下さった2007年元旦。皆様にも幸い多き新年でありますように、本年もよろしくお願いいたします。
                                                               (M)

謹賀新年「北の大地・坂本直行L」 2007年1月1日

 見られないと思っていた初日の出を、記念館の屋上から見た。毎朝繰り返されている地球の儀式は、ただただ美しい。
 記念館は開館16年目で初めて、元日にオープンした。7時半のオープンに合わせて、職員は早朝3時から三々五々出勤してきた。記念館のある桂浜周辺は初日の出の名所で、元日の朝は車が動かないと聞いていたからだ。渋滞はさほどではなかったが、朝早くから館の駐車場はいっぱいで、「曇」の天気予報は見事にはずれた。
 茜色に染まり始めた大空の下方。水平線の上にある雲間から太陽は出てきた。海からのご来光が桂浜に突き出た館を染めていく。職員の顔も染まっていく。
 来館された方には、六花亭のチョコレートがお年玉。200名様限定チョコは、数時間でなくなった。
 玄関には直行の「羊蹄山」が凛と在る。千客万来。
 新しい一年が始まった。あけましておめでとうございます。
                                                               (ゆ)

「新しき年へ」 2006年12月29日

「坂本直行展」。始まったと思ったらもう一ヶ月を超えている。
どうこう言っても4ヶ月半の長丁場だとのんきに構えていたが、このペースだと、とてもとても息を抜く暇などありそうにない。
 第一、館は今年、年中無休を宣言した。つまり大晦日も、元旦もない。
 特に元日は、午前7時30分開館である。初日の出に合わせて桂浜は人出でにぎわう。午前4時になると桂浜周辺の道路は車で埋まりびくとも動かない。館のお隣り国民宿舎「桂浜荘」は年末年始に空き部屋はない。そんなお客さんが言う。「お正月、どこか行くところがないかね?」。これに応えなくてはお隣りとしての分が立たぬというものであろう。龍馬記念館開館以来初めての元日オープンとなったわけだ。

 お正月を前に先日、一部展示の入れ替えを行った。一度つつきだすと、あれもこれもになって、結局作業は深夜までかかった。翌日改めて見て、正直“よかった”と我ながら納得した。ぐっと館全体が引き締まった感じがするのだ。以前が良くなかったと言うのではなく、良かったものがさらに良くなったと思ってほしい。
 展示物の一つ一つが磨かれた茶碗のようにぴかぴか光って見えた。館の入り口には大きな門松が、日高山脈(壁画)を従えて寒風に背筋を伸ばしている。内部の企画展スタート地点にはお正月用の松がすっくと生けられた。

  今日の桂浜は、冬の陽でまぶしい。
 北山には雪。
 水平線はブルーの帯、一直線。
 風は冷たし。ほてった頬には心地よしである。

  皆様、良いお年を!そして2007年もよろしくお願いします。 坂本龍馬記念館
                                                               (揺)

「あと一週間」 2006年12月24日

 障子を開けると朝湯気の窓に水滴が筋になって走り下りていた。
 冷気が滑り込んできた。
 外はまだ暗い。
 遠くで救急車だろうサイレンが聞こえ、耳を澄ますとふっと音は消えた。
 “病院に着いたんだ”ひとり合点して出勤の支度である。40分後には家を出る。今年繰り返されてきた日常の始まり。
 ただ、このところ家の門を出るたびに、胸にある緊張感が膨らんでいるように感じられる。原因は分かっている。頭から離れない館で開催中の「坂本直行展」のせいだ。始まって一ヶ月を過ぎた。地元入館者も増えている。まずまずの前半だが、いまひとつ物足りないと思うのは、これはもう性分かも知れぬと苦笑いでごまかすしかない・・・・・。
 まるでそんなマイナス指向の気持ちを察したかのように、先日、一鉢の生け花が直行展入り口に登場した。それは、直行、龍馬の顔が並ぶその下の空間を占領した、というより雰囲気に溶け込んだと言ったほうが当たっている。「騒ぐでない」と背筋伸ばした“武士”の存在感である。
 制作は、「草木花塾」を主宰する郷田八代さん。一枚のガラス板とガラスの花瓶、それは自家製だろうガラスをちりばめたような敷物。枯れて色ずいた野草。緑色は苔。それが素材の全て。「苔だけに水をかけてください。生き返ります。霧吹きでいいですよ」。「テーマは?キャプションつけてくれませんか」と聞くと「お好きなようにどうぞ」。にっこり笑って、あっさりお帰りになった。
 後で、館の学芸主任が「直行さんと六花亭にちなんで“六花”はどうでしょう。雪のイメージにもつながるし」で、
 「六花=りっか」とした。
 不思議な感覚にじっと見入る方もおられる。今年もあと一週間になった。
                                                               (揺)

「元旦、開館」 2006年12月18日

12月に入って、さすがに入館者が少なくなった。
「龍馬の見た海」も、しんと静まり、陽光だけが明るく海面に反射している。
水平線はくっきりと、濃紺の帯。荘厳でさえある。
 ゆっくり、館内を回ると、時に新しい発見に遭遇する。現在、直行さんのどの絵が、どの位置に架かっているか、目をつぶると73枚のあり場所をイメージできる。朝に晩に眺めているから当然だが、絵も見る時折に表情を変えているように感じる。描かれた北海道の山々が、しゃべりかけてくるような錯覚に捕らわれることもあるし、広大な十勝平原が、海に見えたり、砂漠を想像させたりもする。ほとんどが山ばかりの絵の中に、時に人間の営み光景が描かれたりすると、頭の中には物語が回り始める。
 皆さん、楽しんでおられるのは、それぞれの受け取り方で、絵が答えてくれるからだと思う。まさしく「龍馬」と同じだ。歴史書を抱えながら「龍馬いいですねえ」という方もいれば、「細かいことは知らん。とにかくええ」という方もおられる。共に龍馬を語る時は照れたような笑顔になるのは共通している。
 そんな龍馬ファンに応えて、今年、館は元旦開館を決めた。お隣の国民宿舎「桂浜荘」で年越しをするお客さんは、「初日の出」と「龍馬」目当てである。以前から、「1月1日開けてほしい」といった声が高かった。それに今年は特別企画の「坂本直行」展を開催中である。是非観てもらいたい館の思いもあって“元旦開館”を決めた。
 元日の日の出時間は、7時6分。桂浜の花街道は車で埋まるはずである。日が昇って30分ほどは車も動けないだろう。そこで開館時間を「7時30分」にした。午前3時には出勤して備えるつもり。心より入館をお待ちしております。
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「一年の計は元旦にあり」 2006年12月13日

 先日、東京国税局が納税滞納者から差し押さえた品物のオークションを開いたそうである。その一つに、アリゾナ州で見つかった隕石が出品されていた。オークション価格のスタートは50万円からで落札価格が170万円。170万円も出して隕石を買う人もいるのねと思いながらニュースを見ていたら、何と落札したのは奄美大島の博物館の館長さん。その理由は「入館者を増やすための目玉にしたい。」という話だった。どこの博物館も、一人でも多くの方に足を運んで頂くことを切に願って色々な努力をされているのだと思った。

 さて、当記念館でも11月11日より「坂本直行展」が始まり1ヶ月が過ぎた。出来るだけ多くの方に、また龍馬の違った新たな側面をご堪能頂ければと言う思いで幕を開けた直行展であるが、様々な反響を頂き大変ありがたく感じている。

 直行さんの絵を見ているとその青色の使い方に目を惹かれる。インディゴ、コバルトブルー、ウルトラマリン等と多彩な青色の微妙な重なり合いが、底知れぬモチーフの存在感を表現している。
 私の好きな油彩の一枚に“ウブシノッタ沢とオホーツク海”という作品がある。沢の向こうに見える空と海の青色を眺めていると、まるで五感が響きあうようにその色の深さは静かに感性へと語りかけて来る。

 2007年1月1日から坂本龍馬記念館は開館します。元旦は、新年の日の出を脳裡に焼きつけ、当記念館まで足を伸ばされてみてはいかがでしょうか? 龍馬も眺めた高知の景勝と直行さんが描いた日高の絶景を是非ご自分の目でご覧になってみて下さい。
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「京大所蔵の龍馬書簡」 2006年12月9日

 現在、直行展に合わせて、京都大学付属図書館からお借りした長府藩士・印藤聿(いんとうのぶる)宛ての龍馬直筆書簡を展示している。この資料は、高知県内では初めての展示である。慶応3(1867)年3月6日に書かれたこの書簡には、「蝦夷に新国を開くことは積年の思い、一生の思い出で、一人になってもやり遂げるつもりだ」と熱い思いが綴られている。
 龍馬の蝦夷開拓には様々な思惑が含まれていた。まず一つには、京都に溢れている浪人に働く場を提供すること。このことは、京都の治安維持にも繋がる。龍馬が連れて行こうとしていた浪人について、勝海舟は日記に「過激輩」と書いている。幕府方が新選組や見廻り組を使って「過激輩」を力で制圧しようと考える中で、龍馬は誰も殺さず、お互いの利益になることを考えていた。そして、蝦夷の開拓は、諸外国から狙われている日本を守ることにも繋がり、国家のためにもなる。さらに、蝦夷には色々な産物があるので、それらを大都市で売れば儲けることもできる。まさに一石四丁の龍馬らしい案だった。
 これに対して直行の北海道開拓は方向性が違う。直行は純粋に北海道日高の自然に魅せられたのだ。大好きな百姓仕事をしながら書きためた絵には、直行の自然に対する温かい眼差しが感じられる。開拓の大敵である柏の木に対してさえも、ヒコバエ(切り株から生える芽)の美しさに心奪われる。開拓を行いながらも自然を愛し、敬意を払い、自然の保護を考える人であった。
 龍馬は印藤宛ての書簡に、「万物の時を得るをよろこび」という言葉を書いている。すべての物が時を得て喜び合えるような開拓をしたい、という意味だが、この考え方は直行にも相通じる。龍馬も直行も自分の利益だけを考えるような人ではなかった。開拓の狙いは違う二人だが、開拓に対する姿勢は不思議と似ている二人だ。
 それにしても、龍馬はよく風邪をひく人だ。この書簡も病床で書いているようだ。それに対して直行は頑強な体だった。この点は龍馬と違う。
                                                               (抜)

「絵を描く」 2006年12月2日

 11月11日から始まった『反骨の農民画家 坂本直行展』。
 龍馬のファン層はとても幅が広く、これまでも老若男女問わずたくさんの方に来ていただいていましたが、この直行展が始まってからは、これまではあまり見られなかった40代、50代の女性のグループが増えたように感じます。
 みなさん“坂本直行展”と”六花亭のお菓子”を目当てに来てくださっているようです(^‐^)♪♪

 その直行展の準備をしているときに、一枚の絵が目に入った。
 大地の茶、山の緑、空の青、そこへ桃色の空。淡い色は無く、すべてがはっきりとした色で力強くキャンバスにのせられているその絵に、一瞬すごく不思議な感じを覚えたが、ふと、あるテレビ番組で鉄道の旅をする俳優さんの言葉を思い出した。

 「目の前の景色に感動して夢中でシャッターをきっても、実際に自分が見た景色は写真には残せない。」

 そう言って彼は、手に持った色鉛筆でスケッチブックに目の前の夕焼け空を写し描いていた。
 自分の心に何か訴えかけてくる景色を見ながらスケッチして残す。
 写真より、ずっと人の心に響くと思う。
 きっと、直行さんは北の大地で、この絵の色と同じ、カラフルな景色を見たのだろう。
                                                               (雪)

「男前じゃ」 2006年11月29日

 今回―反骨の農民画家「坂本直行」展―の特徴の一つは、直行さんのアルバムを許される範囲で、最大限に使ったことである。直行さんは古い写真が実に多く残っている。よくこれだけ写真がと感心する。学生時代、続いて昭和10年代、直行さんが十勝原野の開拓に乗り出して以後のものも多い。
 写真のカラー技術がおぼつかなかった時代のカラー写真など、歴史的においを感じさせるものさえある。北大山岳部、孤高の開拓農民、そんな姿が、レンズの被写体として狙われやすい要素もあったのではなかろうか。
 それらの写真をデータ化して、和紙に印刷した。これが最近の技術である。分かったように言ってはいるが、本当のところ当方には理屈はとんと分かっていない。ただ、完成品は「おっ」と息を飲む出来栄えで、自分で頼んでおいて感心している。
 「いいでしょう」。自画自賛だ。「セピア色の写真が、和紙の柔らかさとマッチして」、一枚ずつ雰囲気をかもし出す。モノクロはモノクロで、カラーはしっとりの絵の如し。それに、最近の十勝原野で自然風景を撮ったショットも混ぜると、“引き立て役”である。直行さんはさらに強調される。
 先日お見えになった、初老女性のお二人の会話を聞いてしまった。
 「直行さんは男前じゃねえ」
 「映画俳優みたいな、いい男じゃ」
 「けんど、この写真は古いきねえ。修正しちゅうと思うぞね、そうじゃないとこれほど全部の写真が、これほど男前には写らんぞね」
 「そうかも分からんねえ」。
 飛び出ていって「違います!」と言おうかと思ったが、あまり楽しそうなお二人の会話振りに、雰囲気を壊してはと、思い止まった。皆さんも直行さんがハンサムか否か、確認にお越しください。
                                                               (揺)

「迫り来るもの」 2006年11月23日

 坂本直行展が動き出した。多くの方々に直行さんの絵と龍馬の手紙の“競演”を楽しんでもらっている。皆さん見方もそれぞれで、評価もさまざまである。
「この絵が、一目見た時から好きになって、もう3回見に来ました」。
 そんな熱心な女性もおられる。
 お目当てのその絵は、第二会場にかかっている「十勝岳新噴火と美瑛岳」。6号の小品である。聳える十勝岳も美瑛岳も白い壁。青空を背景に迫ってくる。空にかかる雲がいい。動いているような錯覚に捕らわれる。
「どの絵よりも私はこの絵に魅せられました」。
 言われてみると、この絵に同じような評価をした方が数人おられたのに気付いた。一人は書道家、「これが好きだ」と対面した時、見入ってしまった。
 もう一人、彼はたまたまその日、所属例会の席で「芸術品を見る目を養うにはいいものを見るに限る」とお話をした。いいものには目がない“自信家”である。世界のいいものを見て回っている彼の説によれば「いいものは、前に立つと迫ってきます」。彼は、直行展第二会場でその「十勝岳・・・」で急ブレーキがかかったように立ち止まった。「ほら、迫って来るでしょう」。
 自信たっぷり。その笑顔がじつに彼らしくて好ましかった。
 皆さん、是非おいでください。「十勝岳・・・」がお待ちしています。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行K」 2006年11月18日

 直行展が始まりました。
 オープニングの15日には、地元浦戸小学校の児童をはじめ浦戸地区住民の皆様、待ちかねたようにお越しいただいた方たちで終日賑わいました。「すばらしい」「素直な絵ですね」「迫力がある」「見に来てよかった」等々の声をいただいたことで、開催の実感と喜びがわいてきました。
 今回、遠く北海道各地から直行の絵をお借りしました。あれほど高知に来ることを拒み、龍馬を語らなかったという直行さん。そんな人の残した絵や身近なものたちが海を渡ってやってくる。搬出時には、感無量、万感の思いが込み上げてきました。
 龍馬生誕の日の15日には、直行さんのご長男登さん、従弟の土居晴夫さんもお越しくださり、熱心にご覧いただきました。
 「土佐和紙に大きく引き伸ばした写真の数々も大好評です。ハンサムな直行さんは開拓農民時代の貧しさの中にいるときが一番カッコいい。それは内面の充実が表れている時代だからでしょう。友人知人の撮った写真が多く残っていて、そこに開拓一家の様子が生き生きと映されています。
 「農耕馬(ドサンコ)を囲んで集っている一家の底抜けに明るい表情を見ていると、私も50年前の我が家のことが思い出され、懐かしさで胸が一杯になり、集合時間が迫っても立ち去り難い思いでした」(横浜市・男性)。こんな手紙を寄せてくださった方もいます。
 「坂本直行展」は始まったばかりですが、直行さんは当館にすっかり馴染んでいます。お借りした絵画や資料は12月、2月には入れ替えの予定です。販売している六花亭のお菓子やグッズも大好評。
 一度だけでなく、何度でも直行さんに会いにお越しください。
                                                               (ゆ)

「独り言」 2006年11月8日

 土佐弁にこんな言い方がある。「よーせん。」標準語にすると「出来ない。」という意味になるがニュアンス的には少し弱い。何か修飾語が欲しい。「どうしても出来ない。」と言ったほうが近い気がする。だからと言って、「絶対に出来ない。」というわけではない。そこには何パーセントかの可能性が含まれているような気が私はする。こういう風に標準語に直すと微妙なズレを感じる言葉が土佐弁にはいくつもあると思う。

 祖父母の時代に話されていた土佐弁が私たちの世代では、ほとんど使われていない言葉も少なくない。時代の変遷と共に言葉はもちろん変化して行くし、高知県内でも地域によって異なる表現もある。

 先日、ノーベル文学賞の発表があった。フランツ・カフカ賞を受賞していた村上春樹氏に期待が寄せられていたようだが惜しくも受賞は逃した。けれども村上氏の作品は、欧米やアジアなどの30を越える言葉に翻訳されており、現代の日本人作家として海外で最も広く読まれている作家の1人だそうである。
 方言1つを標準語にするだけでもニュアンスの違いが生じてくるのに、ましてや異国の言葉に翻訳される労力の蓄積ともなると、まるで言葉への果てしない冒険のようである。

 本来ならその言葉の意味する深さや表現は、その国の言語で理解するのが最良なのだろうけれどそれにも限界はある。それならば、少なくとも自らの想像力を出来る限りたくましく膨らませ、言葉の意味する世界を理解したい。

   言葉が持つ意味の重要性と想像力の希薄さを改めて考え直す昨今であった。
                                                               (M)

「今日の出来事」 2006年11月1日

今日受付に1人の女性が訪れた。
「坂本直行展を見に来ました。」
「申し訳ございません。直行展は11日からになっております。」
「あっそうか、日にちをちゃんと見てなかった。残念、また来ます。」
「よろしかったら前売券を販売中ですが。」
「じゃあ、いただこうかな。」
そう言って前売券を1枚買って帰られた。
今日は11月1日。直行展の開始は11月11日。ポスター等を見て今日からだと楽しみに来てくれたに違いない。
そんな皆さんの期待に応えられるよう、直行展に向けての準備頑張ります。
                                                               (穂)

「北の大地・坂本直行J」 2006年10月25日

 北海道から直行さんの資料が届き始めた。協力者の皆様からの善意の数々である。
 第一便で届いたのは、直行さんの絵葉書の額など30点余り。多くは花々や山岳の絵葉書で、美しくレイアウトされている。児童詩誌『サイロ』創刊号から100号までもある。初期の頃の『サイロ』は今や発行者の六花亭でも貴重なものになっているらしい。送り主の上田良吉さんはカルチャー教室で植物画を教えながら、直行さんの資料収集や展示をしている帯広在住の直行研究家。
 第二便も楽しい。北大山岳部、秀岳荘、高澤光雄さんらから合同で届いた山の便り。荷物にはアイゼン、ピッケル、ザック、スキー板はじめ登山グッズの数々が入っている。『開墾の記』『ヌタック』(札幌第二中山の会)などの初版本や、「手にとってさ、みんなに見て読んでもらわないとさぁ」と高澤さん言うところの“閲覧用”直行さん書籍。今年、北海道大学総合博物館で同大山岳部OBらによる『北大の山小屋』展で展示されたパネルもある。
 昭和30年(1955)『金井テント』創業者の金井五郎さんは、トラックのシートや日よけシートなどの製造販売を始めた。翌年、北大山岳部が日高山脈全山縦走を行った際に装備を担当し、昭和32年には直行さんによって『秀岳荘』と名づけられた。秀岳荘は北大山岳部とともにあり、今や北海道では有数の登山用具専門店である。昨年、創業50周年記念に出版された『山の仲間と50年』は北海道、いや日本の登山史の1ページになっているといってもいいだろう。
 高澤さんは直行さんとも親しく、今は秀岳荘に本部を置く日本山岳会北海道支部・副支部長などしている。荷物の向こうに多くの笑顔が見える。山男たちのエールは力強い。
 月末、いよいよ直行さんの絵画や資料を借り受けに北海道に出かける。初めて海を渡って直行さんが帰って来る。
 北の大地が今とても熱い。

秀岳荘のホームページ  http://www.shugakuso.co.jp/
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「リーフレット」 2006年10月21日

−反骨の農民画家「坂本直行」展− 開催まで一ヶ月を切った。館内に緊張感が満ちてきた。事務所の予定表には、開館までにこなさなければならぬスケジュールが毎日並ぶ。
 最初に形となったのがリーフレット。入館者の皆さんにお配りする、展覧会の紹介資料だ。展覧会のひとつの“顔”でもある。それだけに、完成するまでには紆余曲折があった。
 何しろ注文が難しい。
「一見リーフレットらしからぬ、よく見ると極めつけのリーフレットに仕上げてほしい」。
業者のKさんは首をかしげた。展覧会の総合的なコーディネートをお願いしている、立体作家の森木裕貴さんに助言を頂きながら、何回か作戦会議も開いた。
 表紙は?中に使う絵は?順番は?写真も使いたい。
皆さんの思惑が入り乱れた。 「とにかく、表紙はインパクトがないとだめ!」
 ふた月はかかったろう。そのリーフレットが今、私の手元にある。眺めては一人で悦にいっている。少し紹介しよう。
 大きさはB5版でこれはごく普通。問題の表紙は「白」「黒」の二色。対角線で区切った右側が「白」反対側が「黒」。白い部分に黒い龍馬の影、黒い部分に白く縁取りした直行の頭部ブロンズ像である。展覧会紹介の言葉は、「おかえり!直行さん」。シンプルに、複雑に仕上がっている。
 「こりゃ何ぜよ。リーフレット?変わっちゅうのう」。試験的に見てもらった人の感想であった。聞いてにんまり。早速、郵送した展覧会の案内書の中に折り込ませていただいた。
 展覧会は11月から来年の3月まで。長丁場である。
 絵の入れ替えはもちろん、リーフレットらしからぬリーフレットを用意してお待ちしています。
                                                               (揺)

「いごっそうと蛙」 2006年10月14日

 『反骨の農民画家・坂本直行』展が開催まであと1ヶ月を切った。反骨を土佐弁にすると“いごっそう”になる。“いごっそう”という言葉には、天の邪鬼という意味なども含まれるが、土佐には昔から男女ともそういう人が多かった。今回の展示は龍馬と直行2人の“いごっそう”の展示ということになる。
 少し前の話になるが、“いごっそう”で思い出すことがある。韓国人の団体を案内していた時のことだが、2階の南の端で海を眺めながら説明していると、すぐ西側の海岸線(花海道)にお墓がたくさん並んでいることについて質問を受けた。「なぜ水の近くにお墓があるのか」ということだった。これについてはよくある質問なので、歴史民俗資料館の民俗担当の方に尋ねたことがあるが、正確なことは分からない。一応2・3の憶測を話したところ、逆に韓国の話を教えていただいた。
 その方は、土佐に“いごっそう”という言葉があることを知っており、韓国では“いごっそう”のような人を“蛙”というそうだ。その“蛙”の話は、むかし親の言うことに何でも反対する青年がいたそうだ。いつも反対のことをするので、親は死ぬ直前にそれを心配して、「私が死ねば川の近くにお墓を建ててくれ」と頼んだそうだ。本当は水辺にお墓を建てられたくなかったためにそう言ったのだが、青年は、親が死んだ後、今までのことを非常に悔いて、言いつけ通り川の近くにお墓を建て、案の定、洪水の時にお墓が流されたそうだ。こうして青年は雨が降るたびに蛙のように泣いて暮らしたそうで、人の反対のことばかりする人のことを、“蛙”というそうである。
 となると、直行展は2人の“蛙”の展示ということか・・・?いや、それは少し意味が違うか。
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「坂本龍馬とチェ・ゲバラ?!」 2006年10月9日

 『竜馬の妻とその愛人』というタイトルを耳にされたことがあるだろうか。脚本家三谷幸喜が劇団東京ヴォードヴィルショーのために書き下ろした作品で、舞台や映画になっている。昨秋、劇団東京ヴォードヴィルショーの舞台が高知でも上演された。再演に再演を重ねた役者陣の余裕ある芝居に、ほぼ満席の観客はすこぶる良く反応していた。この舞台が、丁度今月の5日〜7日までジャパンソサエティの招聘公演としてニューヨークで上演されたそうである。
 海外で上演するに当たり「“坂本龍馬”をどのように紹介すればいいのでしょうか?」というマスコミからの質問に対して、「“チェ・ゲバラ”のような人物です。」と答えていたらしい。それが三谷幸喜氏の言葉なのか、劇団主宰の佐藤B作氏の言葉なのか私も聞いた話なので定かではないが、いずれにせよその答えに興味を持った。
 「坂本龍馬はチェ・ゲバラのような人物?」土佐に生まれた龍馬とアルゼンチンで誕生したゲバラ。どちらも偉大なる革命家であり、今なお人々の心に残る。龍馬は1867年33才で暗殺。ゲバラは1967年39才で処刑された。龍馬の死より丁度100年後のことである。そして両者ともその人気の衰えを知らない。
 来館者の中にもゲバラのTシャツを着ている方がいらした。この方は『拝啓龍馬殿』に、スペイン語でメッセージを残しており、氏名にも“チェ・〜”とご本人の名前を書いてあった。ちなみに県外の方だが、2度目の来館だったそうである。
 ゲバラの遺体が発見された後、彼の次女や旧同志が受けた取材に、「チェ・ゲバラという人間の最も優れた資質は何だったと思いますか?」という質問に、「人を愛する才能です。」と皆が同じ返答をしたと本で読んだことがある。また、龍馬のヒューマニズムについては多くの書籍が物語っているように、龍馬とゲバラの相似している部分は、果たしてこんなところにあるのかもしれない。
 さて、「?」の回答は??
                                                               (M)

「古代が見えた」 2006年10月5日

 10月になった。うそのように暑さが消えた。
 館は11月から始まる「反骨の農民画家・坂本直行」展開催に向けて、最後の仕上げに入っている。少々殺気立ってもいる。龍馬の見た海、太平洋を“空白のステージに立って眺める。苛立つ気持ちを落ち着けてはデスクに戻る。戻り際に缶コーヒーを買っている。
 浜ア 秀嗣さんの個展「生命シリーズ」は、そんな苛立つ心を癒さんがためにスタートしたタイミングの良さであった。
 例の「海の見える・ぎゃらりぃ」で一日から始まった展覧会だ。
 絵の主役はアンモナイト。古代の化石。「ほら、白い粉を吹いたオウム貝に似ている」と、言われればイメージできるだろう。
 そのアンモナイトがふと、人間のような錯覚を呼び起こす存在感なのが不思議でならない。だから、置かれているというより、佇んでいるというのがいいのかも知れぬ。克明に描かれた渦巻き模様が光っている。存在している場所も、ピンクの敷物の上というよりバラの花びらにも見える。
明らかに渦の底に誘っているゾ!。底を突き抜けるとどこに行くのだろう。行ってみたい気持ちに駆られる。強い誘惑である。
 底を覗き込むように回遊している大魚の魚影が迫ってきた。あまりにも大物なので、たじろいでしまった。アカメではないか。淡水と塩水の間を泳ぐ怪魚といったほうがいい。
以前、釣り上げたアカメをロープにつないで岸につないであったのを見たことがある。ロープを取ると、陸の大人がずるずる引きずられた。怪魚たるゆえんはそんな記憶に裏づけられている。
 絵を見ているうちにパワーをもらっている自分に気が付いた。
                                                               (揺)

「縁の下の力持ち」 2006年9月25日

 龍馬記念館では職員と共に、警備員、清掃員の方々が働いている。

 清掃員の方々は私の母親ぐらいの年齢の女性達ばかり。皆さん明るく働き者で生き生きしている。掃除機の音とともに「おはようございます」の元気なあいさつで、出勤してくる職員を迎えてくれる。
 毎日早朝から、3、4人で作業されるにはかなり広いと思われる館内を、てきぱきと要領よく、隅々まできれいにされる。開館時間前の節電のため、空調や照明もほとんどつけない中での清掃作業。
 じっくりと展示を見てくださったお客様の熱心さが伝わってくるような、手や顔(?)の跡がいっぱいの、展示ケースのガラスの見事な汚れっぷり(ごめんなさい・・・。)、桂浜の散策からフロアにまで運ばれてきた砂のざらつき。これが翌朝には何事もなかったかのように、きれいさっぱり消えている。
 「15年近くも経っているとは思えないくらいきれい。」とお客様からお声をかけていただいたときは、お掃除のおばちゃん達のおかげだな、としみじみ感じた。

 警備員さんのお仕事ぶりはとてもまじめで几帳面。
 館内外をくまなく見回り、見落としがちなところにまでよく気が付き、よく動かれる。
 様々な用で「Sさーん!」とお呼びが掛かり、駆けつける。ときには『海の見えるぎゃらりい』の展示替えにまで駆り出されたり、お一人では体がいくつあっても足りないような時も・・・。
 猛暑の夏は、お盆の間の入館者数が連日1,000人を超す中、強烈な日差し(倒れてしまうのではと心配になるくらい・・・。)の駐車場で、混み合う車の誘導に何時間も当たっておられた。仕事となれば、炎天下や大雨の屋外も厭わない。
 日々きっちりとご自分の仕事をこなしていかれる。

 こんな皆さんのお仕事ぶりに、いつも頭の下がる思いだ。
 お人柄から、仕事の合間にかわすちょっとした会話にも元気をもらっている。

 幾多の方々のお力と、お客様の熱意に支えられ、坂本龍馬記念館はまもなく15周年を迎えようとしている。
                                                               (床)

「鯨の腰掛」 2006年9月21日

 館の二階、南端は“龍馬の見た海”を我が物に出来る「空白のステージ」と呼んでいる。
館の中では太平洋に向かって、一番眺めのいい場所である。
目の高さに水平線が光る。眼下には打ち寄せる波が白い。
時にヨットが横切ったり、遠くにタンカーの船影が陽炎のごとく浮かぶ。
見飽きることのない、海の風景だ。
それにベンチとテレビ望遠鏡もあり、波の音も聞こえる。
よく居眠りしている若者の姿がある。

 ここに先日、もう一脚腰掛が登場した。
鯨が尻尾をはね上げた形をしている。
上げた尻尾部がちょうど二つに割れて、肘掛の役割を果たす。
頭と背の部分が座る場所で、子供ように、ひれは足置きである。
黒い目玉が愛らしく、どうもイメージは子供鯨らしい。
木製だから座り心地が心配だったが、無用の心配であった。
逆に腰が深く、背筋が伸びて気持ちがいい。
腰を掛けるとすっきり龍馬になれる。
このオリジナル腰掛は、地元のチェーンソー作家、Yさんの作である。
Yさんは木なら何でも作品にしてしまう。
浜に流れ着いた流木などは格好の素材になる。
来館の折には、この腰掛に座って龍馬気分を味わってください。
                                                               (K)

「北の大地・坂本直行I」 2006年9月17日

 このホームページでも直行展のコーナーができた。
 コーナーのトップにある「新緑の原野と日高山脈」が何ともさわやかに広がる。春先からのポスターやチラシに使っている絵だ。
 初夏の原野は緑に包まれ、直行の愛した日高山脈の楽古岳が、真ん中でとんがり帽子のようにツンと突き立っている。
 秋のポスター「初冬の日高山脈」もご覧いただきたいと思う。
 雪を抱いた日高の山波(直行は“山並”とは書かず、“山波”と書いた)、どこまでも深いインディゴブルーの空、手前の柏林は見事なインディアンレッドに紅葉している。きっぱりと塗りこめられた白と群青色と赤褐色。見ている私は絵の中に引きずり込まれそうになる。

 さて、太平洋を望む2階にある直行の小さなギャラリーも9月から秋の絵に変わっている。
 初夏の絵と合わせ、この絵の持ち主は直行の甥にあたる弘松潔さんのもの。昨年の秋、私は弘松さんを訪ねた。初めて札幌の坂本家に行く前にこれらの絵を見せていただきたかったからだ。
 弘松さんは伯父・直行のことを熱く語ってくれた。「これは私の座右の書です」と見せてくださった『原野から見た山』(坂本直行著、朋文堂、昭和32年刊)はボロボロになるくらい繰り返し読まれていた。弘松さんは直行のことを心底敬愛していた。そして、直行展開催のことを本当によろこんでくださっていた。
 弘松さんは今年2月、あっという間に亡くなられた。「春になったら札幌に行くつもりです」とおっしゃっていたにもかかわらず。北海道からやって来る直行の絵を真っ先に見てもらいたい人だった。
                                                               (ゆ)

「親子展」 2006年9月10日

 書道と洋画。
「海の見える・ぎゃらりい」で田中白燿 筒井孝枝親子の「心と顔」展(9月30日まで)を開催している。お母さんが書道、娘さんが洋画である。
 展示当日、母親の白燿さんが先に来られた。作品の展示場所についてどこにどの作品を置くのか話になった。白燿さんが言った。「正面のここには、娘の絵を掛けましょう」と正面のベストポジションは娘さんに譲られた。「画家の苦悩」と題する大きな絵がでんと座った。両脇を白燿さんの作品「破竹」「弾心・吉」が固めた。
 さあ、バランスはどうかと心配したが、不思議なことに、最初から決まっていたようなはまりようであった。後から来られた孝枝さんが言うに「この絵は、先ほどまで描いていたのですよ。まだ絵の具が乾いていません」。とは言うもののおっしゃる顔に“苦悩”はなかった。全部で18点とお二人の作品は多くはないのだが、
 白燿さんの「銀河」「無」「茫々打ち寄せて我を打つ」
 孝枝さんの「KISS」「WHO」「夜の訪問者」
 いずれも一点一点味があって、メッセージが伝わってくる。面白い作品に仕上がっている。
 一晩中雷が鳴った次の日、午前中は雨が残った。しかし館から見た海は、雷がうそのように穏やかで、静かに波のリズムを刻んでいた。
 孝枝さんの「風光る」。白燿さんの「風に吹かれて」。くっきり水平線が浮かび上がった、明るんできた海に、これはそれぞれ似合いの作品だと感じた。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行H」 2006年9月5日

 9月になった。
 開館までにはずいぶん早い時間だが、入り口に貼ったばかりの秋バージョンの直行展ポスターを熱心に見ている人がいた。その後ろ姿に思わず「おはようございます」と声がけしたことから、会話が弾んだ。
 その方は私に熱く語ってくれた。
 「私は昭和2年生まれで、17歳で兵隊として鹿児島に行ったがよね。そこには北海道から来た人もおった。鹿児島には珍しく雪の降った日、震えている自分を見て北海道の人は『こんなのは寒さじゃない』と言うて笑いよった。私は前線に出ちゃあせんけんど、戦争はつくづく嫌やと思う。福島に行った時には、『土佐から来たのか。帰れ。土佐人は嫌いだ』と言われた。何であんなに言われないかんか分からん。龍馬が生きちょったら、そんなことを言われんでもよかったと思う。龍馬が生きちょったら戦争なんか起こらんかったかもしれんと思う」。
 「龍馬の子孫が北海道におったがかね。知らんかった。帯広から太平洋に向かったところにある広尾町かね。だいたいの場所は分かるよ。そこにこの直行という人はおったがかね。いい絵やねぇ」。いかにもいごっそう然とした風格で口調は強いが、澄んだ目をした人だった。
 こんな言葉を思い出した。「直行さんは古武士のようで、眼光が鋭かった」。6月の取材中、豊似の市街地で隣家にいた後藤隆さんが語ってくれた。後藤さんは直行の長男・登さんの同級生で、隣家の坂本家によく遊びに行っていたらしい。昭和30年代半ばには珍しい洋式トイレのあるモダンな家だったという。豊似は、直行が原野を出て移住した所。
 直行は農民運動、自然保護運動にも没頭した。戦時中には戦争を憎んだ。直行に龍馬のまなざしを感じる。
 もうすぐ龍馬の子孫、直行が帰ってくる。そんなことを実感する朝だった。
                                                               (ゆ)

「北の大地の四季めぐり」 2006年8月30日

 デザイン、印刷会社のKさんが、両手に荷物を抱えてやってきた。Kさんには11月からの―反骨の農民画家「坂本直行」展―で、図録制作をお願いしている。その見本が出来たらしい。といってもまだまだ第一段階である。これから、本格的な編集に入る。
 表紙はどのように、絵は年代順か、季節ごとか。
 Kさんはおもむろに袋から見本を取り出した。チラッと見えた。それだけで分かった。表紙は、直行得意の“晩秋の十勝原野と日高山脈”である。
 遠くに銀色の山なみ。広がる大平原。手前には柏林。風が渡る。
ぱらぱらとめくると、やっぱり。北の大地の四季めぐりだ。
 後半は花花花花。
 先日、知人がこんなことを言っていた。
地元の高知新聞で、8回にわたって「北の大地に生きて」のタイトルで、直行の生涯を追った連載が掲載された。6回目に「晩秋の・・・」作品がカットに使われた。それを見た時、
「ジンと胸に響いてくるものがありました。涙がでました。新聞のカット写真ですよ。こんなの初めて。絶対見に行きます」。
 知人は切り抜きしたとも言った。
今日、Kさんが今度は、秋バージョンのポスターを届けてくれた。展覧会が迫ってきた。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行G」 2006年8月24日

 21日から高知新聞で、『北の大地に生きて 農民画家・坂元直行』という連載が始まった。田村文記者による8回シリーズ。楽しみである。6月の取材では私も一緒だったが、私たちの原野取材の様子は北海道新聞でも紹介された。
 7月には、十勝毎日新聞でもゆかりの人たちが語る直行さんが5回シリーズで連載された。『あの日のチョッコウさん 山岳画家坂本直行生誕100年』。「関係者も高齢になってきているので、今聞いておくことが大切だと思った」という安田義教記者の言葉に私も頷く。

 直行は15,6歳の少年時代から絵を描いている。それは自分の登った山を描いたペン画で、荒削りな線が年代とともに細やかで表情豊かになってきている。草花のスケッチもしている。サクラ草をテーマに研究した卒論は、やたら花のスケッチが多いものだったともいう。
 学生の延長で原野に飛び込み、農民となった直行はスケッチブックを離さなかった。馬車で牛乳を運搬している時など、道は馬に任せて絵を描いている。きつい農作業を終えて帰る途中には花を手折り、夕食までのひと時、窓辺で花をスケッチする姿を子どもたちはなつかしく語る。
 農民時代には食べるものも着るものもなく、子どもたちは栄養失調特有の細い手足をしている。北大の仲間に鳥肉を送った時、包み紙は直行が描いた絵のあるキャンバス布だった。直行の絵よりも新聞紙が貴重な時代があった。
 直行は貧乏のどん底であっても、絵を忘れなかった。少年時代からスケッチや写真を通して風景や草花を観察してきた。それが画家としての素質と目を養ってきたことは間違いない。

高知新聞     http://www.kochinews.co.jp/
十勝毎日新聞   http://www.tokachi.co.jp/
                                                               (ゆ)

「北の大地・坂本直行F」 2006年8月17日

 JR札幌駅近くに北海道大学がある。北国の透明な空をバックにした構内は広々として、実に気持がよい。正門を入ってまっすぐ西に向かうと、有名なクラーク博士の胸像が構内を見渡している。北大の前身は札幌農学校であったことを思い出させる。その向こうには、農学部の校舎が広がっている。直行はこの農学部で学んだ。
 札幌駅をはさんで南には札幌時計台や、少し行くと知事公館がある。広い敷地と建物である。当時の直行はこの公館に隣接する屋敷から北大に通った。裕福な資産家の息子である直行は、昭和2年(1927)に大学を卒業し、十勝の原野で開拓農民となった。

 大学構内には、重要文化財北大農学部第2農場(モデルバーン)が保存されている。中札内美術村にある坂本直行記念館(通常・北の大地美術館)の手本になった建物だ。
 モデルバーンへ続く道にはエルム(にれ)の並木がまっすぐに伸びている。その途中に北大総合博物館がある。
 今この3階展示室で『北大の山小屋』展が開催されている。北大山岳部OBや学生たち手作りだという企画展からは北大山岳部の歴史が見えてくる。「山は厳父 小屋は慈母」というキャッチフレーズに、北大・山男たちの熱い思いが伝わってくる。
 北大スキー部から分かれて山岳部が創設される時期に、直行は真っ先に参加した。中でも初期の「ヘルヴェチア・ヒュッテ」建設には直行も尽力した。小学校時代の手稲山登山以来、山に魅せられていた直行は、北大山岳部で本格的な岳人となっていく。
 北大山岳部の先輩後輩たちが、原野の直行を訪ね、直行は貧しさの中でも彼らを最大限にもてなした。画家になった直行の個展を支えたのは、こうした先輩後輩たちだった。
 「チョッコウさんのためなら…」と、坂本直行展への北大山岳部出身者のエールは大きい。直行はいまだ伝説の岳人として、北大に生き続けている。

北海道大学総合博物館
http://www.museum.hokudai.ac.jp/
                                                               (ゆ)

「土佐礼讃」 2006年8月13日

 8月の「海の見える・ぎゃらりぃ」は、異次元の雰囲気である。
 写真家、桐野伴秋さんの世界。テ−マは「土佐礼讃」。だから、ここはやっぱり高知に違いない。ただ、コ−ナ−に続く鉄の階段を上がると、いきなり頭の上に見えるのはモルジブの海辺。ちょっと腰引いて波と戯れる子供の姿がまるで天然色の天使である。幻想的な波音が光となって降ってくる。
 二階に上る。50枚のポストカ−ドが気になるはずである。ひとえに色のせいだと思う。一枚一枚、写真というより、心象風景を描きだした“絵”といったほうがいい。
 ブルー、黄色、ピンク、黒、さらに白・・・。
 溶け合った色が不思議なムードを作りだしている。
 「桂浜」「四万十」。おなじみの題材が「時の紋様」「海の扉」「永遠の詩」、順次表情を変えてゆく。
 数枚を組み合わせて「二十四万石物語」というのもある。
 月、夕日、波、海といった自然をテーマに狙ったものと、イタリア、フランス、世界遺産の横顔を写したものもなかなかにいい。
 “桐野の世界”に誘い込まれる吸引力が働く。ところがその感覚がなぜか一拍遅れた感じで響いてきた。なぜ、遅れたのか原因を考えてみた。ヒント探しにてもう一度モルジブの海辺「大海へ」を見てぴんときた。女性的目線なのだ。女性がまいってしまうはずである。夢が覚めてゆく時の心地よいあいまいさを、色で表現したみたいなものである。
 桐野さんはほとんど毎日、館に来る。愛用の黒のTシャツに、早くも現れた群舞するアキアカネを焼付けながら。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行E」 2006年8月7日

 北の大地にスズランの花が香る6月中旬。私は“原野”に立った。直行が開拓農民として過ごした土地、北海道広尾郡広尾町下野塚。
 広大な大地に横たわる荒涼とした土地。そんなイメージは新緑に呑み込まれた。
 そこかしこからコロボックルが現れそうな大きな秋田ブキや巨大ゼンマイとも思える北海道ならではの植物群。さながら高山植物を思わせる野の花々。かつて子どもたちの声が響き、開墾の鍬の音がこだましただろう原野は、今はさ緑の植物群に覆われて「夢のあと」の静けさの中にあった。
 坂本一家が暮らした原野は、意外に海(太平洋)に近かった。ここから車で40分も行けば襟裳岬。私は、ずっと前、森進一が歌っていた「襟裳岬」でしか知らない場所だが、歌謡曲からでも最果てを思わせる場所だ。
 「一週間ぶりの太陽を見ましたよ」と言うのは、広尾町教育委員会の杉本課長と辻田係長。一緒に参加してくださった直行研究家の上田さんの表情も明るい。
 さわやかな大地に太陽は眩しかったが、周辺にあるだろう日高の山々はガス(霧)に覆われていた。大きく周辺をガスで覆われて、目の前の新緑は反ってくっきりとして見える。20代半ばの直行が、北大山岳部先輩の野崎さんに誘われて入植した野崎牧場(現・今井牧場)も、遠くの風景をガスで隠していた。
 原野の風景を撮ることが目的であっただけに残念な天候だったが、海から押し寄せるガスが、この痩せた大地に植えられた農作物を容赦なく襲った状況を私に教えた。坂本家の喜びが悲嘆に変わる自然を思った。
 辻田さんの案内で行った、直行の愛した楽古岳も私たちに容易に姿を見せようとはしなかった。
 そんな原野での坂本家を昭和34(1959)年の暮れに訪ねた一人の人がいた。帯広千秋庵、現・六花亭製菓(株)創業者で名誉会長の小田豊四郎さん。豊似駅から5キロの雪道を歩いて訪ねた小田さんを直行は温かく迎えた。昭和35年1月から始まった十勝管内の子どもたちにおくる児童詩誌「サイロ」誕生の時である。
 小田さんと直行の出会いは、多くの子どもたちの未来につながった。つい先日、小田さんは直行と同じ所に逝った。一人の歴史が、大きな歴史の中に入っていった感慨がある。心よりご冥福をお祈りいたします。

北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060807&j=0028&k=200608071340

                                                               (ゆ)

「夏の思い出に♪」 2006年8月3日

龍馬記念館から一番近い郵便局”桂浜郵便局”では、手紙や葉書に龍馬と桂浜の日付スタンプを押してもらえるということで、全国からたくさんの龍馬ファンが訪れているらしい。

先日、記念館の用事で桂浜の郵便局に初めて行ったときのこと、局内に赤と青のシールを貼った大きな紙があるのが目に入った。
よく見てみると、全国から来てくれた人たちにどこから来たのかをシールを貼って示してもらうというもので、おもしろいなぁと思ったので、携帯のカメラで写真を撮らせていただいた。
館へ帰って早速館長に見せると「えぇにゃあ!やってみよう!」と言ってくださったので、さっそく作ってみることに。
それがこちら↓↓

夏休みなので、子どもたちがおもしろがって貼ってくれるかなぁと思っていたら、意外と大人の方が貼っているみたい・・・。
開始から3日目、高知県のグラフの一番上にシールがひとつ貼られているのを見て館長がひとこと「高知のヤツらしいにゃあ!」
4日目には埼玉県のグラフ一番上にシールが2つ。埼玉県の方も負けず嫌いなようです(^ー^)
やはり、入館者アンケートと同じく、東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫からの方が特に多いようです。

梅雨が明けて夏本番!これから入館者もどんどん増えてきて、ボードのシールもますますカラフルに踊りだすかなっ♪
みなさんも夏の思い出にシールを貼りにきませんか?
                                                               (雪)

「梅雨の残したお宿題」 2006年7月28日

 「えい!」と上着を脱ぎ捨てたみたいに梅雨明け宣言です。
館は蝉の鳴き声と焼ける太陽にさらされて、壁面のガラスはきらきら青い海を映しています。「謝、謝、謝、シエ、シエ、シエ、・・・・・」。蝉の合唱は、梅雨明け感謝の印でしょう。桂浜の山全体が「謝、シエ」です。
 館では、携帯電話のアンテナ設置工事が進んでいますが、作業員同士、大声で話さないと、声が蝉の声で消されてしまうほどなのです。
 入館者の皆さんはその蝉の声と熱風を従えて入って来られます。
第一声が「おおっ!涼しい!」。
 ただ、今年の長雨は一つ厄介な宿題を残して行きました。
 館の南面斜め下の県道沿いの斜面が、雨で崩落したのです。高さ10メートル、幅7メートルですから、遊びごとではありません。二車線道路の山側は土砂の小山で埋まりました。もしここが通行止めになったら、桂浜はもちろん坂本龍馬記念館にとっても、夏の観光シーズンを控えているだけに大打撃です。幸い片側通行でしのげることになったのですが、危機一髪でした。
 徹夜警戒の警備員さんは大変です。毎日朝晩通るたびに感謝です。工事も始まりました。間もなく土砂も取り除かれるでしょう。
 夏休みに入って、子供の声が館内にこだましています。夏本番です。
                                                               (雲)

「お年玉を持った少年☆」 2006年7月22日

いよいよ夏休み突入!!の7月21日。
平日なのでそれほど多くはないにしても、普段は見られない親子連れの姿が見られた。

お昼ごろ、2階のミュージアムショップに小学生の男の子がやってきた。
しばらくいくつかの商品の見本を手にとって考えて・・・、お母さんから何かをもらってレジへ。
その手にはお年玉の袋が握りしめられていた。
和風の柄に「おとし玉」と書かれた袋の中から、小さく折りたたんだ千円札を1枚取り出して渡してくれる。
おつりの300円を渡すとまたそのお年玉袋の中へ、落とさないようにそぉっと入れて、
「ありがとうございました!」
ペコっと頭を下げてお母さんのいる方へ走っていった。

あのお年玉は夏休みに家族で遊びに行ったときに何か買おうと思って大事にとっておいたのかな。

そう言えば・・・、私が初めて自分でお金を出して買い物をしたときもお年玉の袋からだったような・・・。
そのとき買ったのは”ひみつのアッコちゃん”のハンカチ(200円)。

さて、”お年玉を持った少年”が買ってくれたのは、
『坂本龍馬を知っちゅう?』(300円)と『レターセット ヱヘンの手紙』(400円)。
「坂本龍馬を知っちゅう?」は子ども向けに龍馬のことを分かりやすく書いた本で、写真資料も充実しているので大人の方にも喜ばれているもの。
「ヱヘンの手紙」はただのレターセットではない!後ろからめくると龍馬の柄、前からめくると坂本家の家紋(組み合わせ角に桔梗紋)と、めくり方によって絵が違って見える魔法のレターセット☆☆☆
ミュージアムショップの数ある商品の中でもこの2点はよく売れている。

お年玉をしっかりとっておいて買い物をするところといい、この2つを選ぶところといい、”お年玉を持った少年”、将来は龍馬のような大物になりそうな予感 (^−^)♪♪
                                                               (雪)

「今日の海は・・・」 2006年7月18日

海辺の丘の上。ここ坂本龍馬記念館では、高い目線から太平洋を望むことができる。
180度にひらけた果てしなく続く海原。水平線はわずかに丸みを帯びている。
海は地球上でひとつにつながっているのに、見る土地によって様々。
同じ場所から見る海でさえ、日々違った表情を見せる。

ここから見えるそんな海の様子を、来館されるお客様にもゆっくり眺めていただきたいと、「龍馬の見た海」と題した小さなブラックボードを入口近くに設置、晴れた日の真っ青な海の写真の下に、「今日の海は・・・」のタイトルで短く文章に綴ってお伝えしている。
毎朝その日の受付担当者が、開館前のわずかな時間に書き上げているが、限られたスペースに「簡潔に分かりやすく」表現するのは意外と難しい。
そのうえ数時間で海の状態が一変していたり、館長からの、「全体ばかりでなく、部分的にも捉えてみて。」との指示に、せっかくまとめた文章を書き直すことも。

さてお客様の反応は・・・。
一瞬ボードに目を留めただけで、そのまま立ち去る方、立ち止まり、ひとり腕組みでしばらくボードを見てくださる方。(海を眺めてみようと思っていただけたかな、と気になる。)
「眺望度100%だって。見に行こうか。」とグループで屋上へ向かわれる方。(よかった!ひと安心。)
「これはあなた方が書くの?なかなかよく書けてる。」とご年配のお客様がお声を掛けてくださった時には恐縮してしまったが、とても嬉しく、ありがたかった。

これまでボードに書いてきた中のいくつかはこのような内容。

●早春のある日
「海面に美しく反射する陽光のまぶしさ。穏やかに寄せるさざ波。はるか東に岬が霞む春です。」

●風の強い晴れた日
「強風に波は高め。海面にはくっきりと白い波頭がリズミカルに顔を出す、美しいブルーの海です。」

●風の強い曇りの日
「打ち寄せる波は高く、海面も大海原を実感させるダイナミックな動きをみせています。」

●薄曇り 眺望度60% 穏やか
「白っぽく霞んだ空を映したような色の海面。その細かな陰影や動きもまた美しい今日の海です。」

●曇り時々雨 眺望度50% 大迫力
「うねりのある灰色の海面に、霞む水平線。波は荒々しい音と共に大きく打ち寄せ、白く長く跡を残して引いていきます。」

●雨 眺望度40% 穏やか
「海面に雨の足跡。寄せる波はやさしく、霧に包まれた海です。」

最後の一文、Kさんの書いたこのボードを読んだきり、海をよく見ることなく勤務を終えたこの日の帰り。
大粒の雨の中ふと海に目をやると、海面にポツポツと無数の細かいくぼみが。なんと雨粒が海に降って落ちるのが、光の加減で見えたのだ。
こんな海を見たのは初めて。まさに「雨の足跡」だった。
                                                               (床)

「龍馬の休日」 2006年7月15日

梅雨空が切れた夏休み前、かっと太陽が照りつけたその日の朝である。
「どうもでーす」。カルチャーサポーターのHさんが、館の事務所の入り口に立った。
長身をぺこりと折って「ご無沙汰でーす」。
予定になかったので「何事ですか?」と聞くと、
「龍馬やりにきました」。
Hさんは熱心なサポーターである。龍馬会に所属している。龍馬ファンである。館の関連イベントには欠かせぬ人物で、特技は龍馬への変身。格好は侍姿。刀を持ち、ブーツを履く。めがねはご愛嬌だが恰幅がいいので似合っている。
 「一緒に写真撮ってください」。頼まれたりもする。
 九州熊本の天草と高知の梼原。海と山。音頭取りはそれぞれの龍馬会。二つの地区の子供たちの交流会が開かれた。桂浜の龍馬像前で集合した。
 Hさんはその出迎え役に招集されたわけである。なぜ、館に来たかというと、“龍馬道具一式”が、事務室のロッカーに入っているからである。着物にはかま、刀・・・・。応接間に入って5分もせぬうちに龍馬登場。
 「似合いますね」「へへへへ・・」
 Hさんは市内に住んでいる。自宅から龍馬記念館までスクーターでやってきた。
 このスクーターがいい。イタリア製、「べスパ125」。これでぴんときたなら、その方はバイクのつう?映画のつう?。さあ“つう”なら、ご存知でしょう。あの、オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック主演の映画「ローマの休日」。そしてこの映画にはもう一人、いや、もう一台主役がいました。二人の乗ったスクーターですよ。
 Hさんはそのスクーターで現れたのです。
 得意げにHさんのいわく「今日はまさしくリョウマの休日ぜよ」。
 Hリョウマはさっそうとスクーターで、集合場所に向かいました。
                                                               (K)

「坂本権平記念館!?」 2006年7月11日

ふとこんなことを考える。

もし龍馬が”龍馬”じゃなかったら・・・。
もしお兄さんの権平さんのほうの名前だったら。

 「 薩長同盟の立役者”坂本権平” 」
 「 海援隊隊長”坂本権平” 」
 「 高知県立”坂本権平”記念館 」・・・・・・・・・(^−^;)???

龍馬が”龍馬”じゃなかったら、記念館はできていなかったかも。

龍馬は生まれながら(名付けられながら)の大人物だったのかもしれない。
記念館になるほどの☆
                                                               (雪)

「記念館初の展示品」 2006年7月7日

 7月1日(土)より、企画展“それぞれの幕末「龍馬、半平太、そして以蔵」展”が始まった。
 7月2日(日)Yahoo新着情報のトピックスに「岡田以蔵の所有とされるピストル公開」−毎日新聞と見出しが出ており、当記念館のホームページにアクセスしようとすると、込み合ってなかなか開けない状況だった。人々の関心の程が伺える。

 さて、その展示品「岡田以蔵のピストル」「武市半平太が自刃した短刃」「武市半平太の獄中書簡」は、どれも当記念館初の展示であり、是非この機会にご覧頂きたい。「岡田以蔵のピストル」は岡田家のご子孫より、「武市半平太が自刃した短刃」は高知県立歴史民俗資料館よりそれぞれ拝借したもので、「武市半平太の獄中書簡」は武市家関係者のご子孫より寄託されたものである。いずれにしても貴重な財産を拝借して展示させて頂いているわけで、何かがあってはそれこそ一大事。
 そこで取られた手段が、それぞれの展示品へ特注で作られたカバーを設置し、施錠する事にした。毎日朝のミーティングが終わると職員全員でこのカバーを外し、閉館後、またそれを元に戻す。2ヶ月の期間中職員全員に課せられた責務である。

 以前、アイルランドの絵画強盗について描いた映画と本を読んだ事がある。悪事とはいえ、その手口は鮮やかであり、信じられないほどの内容だった。
 とはいえ、やれるだけの事はきちっとやり、1人でも多くの方々に当記念館へ足を運んで頂ければ幸いである。そして、8月31日(木)まで開催している“それぞれの幕末「龍馬、半平太、そして以蔵」展”が、無事終了することを願っている。
                                                               (M)

「遊び心あふれて」 2006年7月4日

 いやあーこれは面白い。楽しいぞ。「ふふふ・・・・」。作品の前で独りで笑ってしまった。
館の「海の見える・ぎゃらりぃ」の7月展示は、立体作家の森木裕貴さんである。
名づけて「遊木展」。
 展示入れ替えの日、森木さんはお一人でやってこられた。事前に「作品は木を使って自由に」と言われていたので、これは大作だと勝手に想像していたが見事予想は外れた。現れた森木さんは、手に数本の枯木と、少し大きめのボストンバック、大工工具入れを持っただけであった。
 すぐボストンバックから作品を取り出して並べ始めた。見ている限り思いつくまま、適当に置いていく感じである。ただ、リズミカルに置いていく様子からして楽しくやっているのは想像がつく。
 全部拾った流木なんだそうな。それに色付けする。流木の形から魚が生まれる。腹の部分に、何かの機械か、おもちゃの部品かもしれない。ぜんまいや歯車が組み込まれて“森木の魚”が誕生する。
尻尾にスクリュウが回っているのもある。えらがブリキ、目の玉はボルトの頭。ひれの部分に真空管が並んでいるのは、シーラカンスよりももっともっと昔の古代魚に違いない。
 館内を、太古の湖に見立てて悠々と泳いでいる。
「お手伝いすることは何かありませんか?」。声をかけると
「そうですなあ、冷たい缶コーヒーを一杯所望。いや冗談ですよ」。
 そこで一休みである。
 しばしの“流木芸術談義“のしめくくりは
「面白いのは魚たちより、ほら、55歳のおじさんが真面目にこんなことをやっているということですよ。ハハハ・・・・」。
 “モリキ少年”は、2時間そこそこで飾りつけを終わり、「じゃあ」と一言。お帰りになった。
                                                               (揺)

「夏の企画展始まる」 2006年6月30日

 机の上に物騒な写真が並んでいる。
短刀、ピストル、なにやら鎖で巻いた四角いケース。脇に龍馬、半平太、以蔵・・幕末を演出した男たちの顔写真が散らばっている。
 私の机上はまさに“幕末”である。
 短刀は、武市半平太が自刃した際に使ったものとして伝わっている。切腹の様子は文書に残されている。書き物だが、読むと想像を絶する迫力で迫ってくる。武士、侍、男の散り際の壮絶さである。
 ピストルは以蔵のものと伝えられる。フランス製。当時幕府の高官はフランス製を所持していたというのが定説である。だとすると、以蔵は護衛に付いた勝海舟からピストルを譲られたものではないか?空想は広がっていく。
 で、鎖で巻いたケースは?
これが歴史民俗資料館から借りる半平太自刃の短刀が納められる、特殊陳列ケースである。しかも、県立美術館からのこれも借り物。盗難予防のための鎖ということになる。ほかにも、寄託をうけた半平太の獄中書簡、直筆の展示も予定している。
 7、8月は夏休みシーズン。お盆も絡んで一年で入館者が最も多い時期でもある。
 短刀、ピストル、書簡類。歴史の重みと不思議、人生のロマンさえ感じさせはしないか。
最後に龍馬の眺めた海を見る。打ち寄せる波とともに迫り来る何かを感じることが出来ると思う。内容豊かな企画展になるはずである。
 存分に楽しんでほしい。
                                                               (揺)

「運命を信じる」 2006年6月24日

私はこの世には”運命”というものがあると信じている。

私がこの坂本龍馬記念館に勤めることになったのは1回のジャンケンがきっかけでした。
大学3回生の夏、企業実習をすることになり、希望の実習先の定員が決まっていたため、希望者全員でジャンケンをすることに・・・。
このジャンケンで勝ったのが、最初のさいしょの”運命”。

希望の実習先での実習初日は高知市の観光施設の見学。
「ここは県立ながやけど・・・」と連れてきてもらったのが、ここ坂本龍馬記念館だった。
私の家から記念館までは車で5分。けれど、こんなに近くに坂本龍馬の記念館があるなんて全然知らなかった!!
これが2度目の”運命”。

大学4回生になって、学芸員の資格取得のため博物館で実習をすることになった。
希望の実習先はもちろん、前年の夏、運命的に出会った「高知県立坂本龍馬記念館」。
実は、初めに実習の受入れのお願いをしたときにはあまりいい返事はもらえなかったのだけど・・・、
これも運命が味方をしてくれたのか、その夏、ここ坂本龍馬記念館で実習をさせていただいた。
これが3度目の”運命”。

龍馬記念館での実習は本当に勉強になり、本当に楽しくて、私は実習の最終日、大泣きに泣いて、
お世話になったみなさんにお礼の言葉を言うことができなかったほど・・・。
もともと博物館を見るのが大好きで、夢中になるとごはんも食べずに丸1日見ることも。
夏は涼しくて、冬はあったかい、時が経つのも忘れ、外の世界のことを忘れてしまう、博物館という「空間」が好きだった。
だから何でもいい、博物館に関わる仕事をしたいと思っていた。
しかし、実習をしてみて分かったことが、学芸員もそれ以外の仕事にしても博物館に関わる仕事に就くのは本当に狭き門だということだった・・・。

―ところが、龍馬記念館での実習を終えて3日後、「もっと龍馬のことを知りたいな」と思って記念館のHPを見てみると「職員採用試験の案内」という文字が目に入った。
すぐには信じられなかったけれど、よく読んでみると、やっぱり間違いなく新たに採用する職員の採用試験の案内だった。
記念館のHPを見たのはそれが初めてだった。
これが4度目の”運命”。

しかし、そのとき私は大学の4回生で、新職員の勤務開始日は9月1日から。
もう卒業に必要な単位は取っていたし卒論もほとんど出来上がっていたので、自分としては問題はなかったけれど、
学生にも受験資格はあるのかとか色々悩んで・・・、悩んだ挙句、何も知らないフリをして受験申し込みをしたのだった。
するとちゃんと受験票が届き試験を受けることに。
試験は面接と小論文で、どちらも自信はなかったけれど、ここでも運命が味方をしてくれて、今ここで働いている。

記念館に入ってからは龍馬の結んでくれた縁でたくさんの人たちと知り合うことができた。
みなさんとの出会いがあって今の私があると、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
やっぱりこれも運命のおかげかな☆
                                                               (雪)

「武市半平太書簡と友人」 2006年6月18日

 「龍馬記念館の夏の企画展、“それぞれの幕末“見せてもらいに行くつもりじゃ」。しばらく連絡のなかった友人のUさんと電話でこんな話になった。
 「どうぞ、どうぞ、しかし何でまた、幕末モノに興味あるの?」
 快活な彼の口調に誘われて聞くと
 「まあな。実は家に武市半平太の獄中書簡の一部があって、よく親父がホンモノだと話していた。親父も亡くなったし家もマンション暮らし、できればそちらで預かってもらおうかと思ってな・・・・」
 「なに、なに!早速見せてほしい」。
 とまあ、こんな簡単ないきさつで、半平太の獄中書簡三通が、今、館の収蔵庫で休んでいる。この三通は個人所有で、知る人ぞ知る的存在で、だから、いずれも未公開である。それだけに、ホンモノに出会える興奮は、野次馬的だといわれても納まらぬ。中でも一通は、半平太の土佐勤王党領袖としての信念を妻、富子と姉、奈美に書いたものだ(元治元年一月=1864年)。武市半平太の研究者なら一度は目を通したくなる書簡という。出所の言われも興味深い。自刃した半平太が介錯を頼んだ小笠原保馬家と思われる。U家は保馬家の縁者に当たる。
 おまけといえばなんだが、三通目は獄中からのものではない。ただ、どこの文献にも記述された形跡がないので新発見に当たる。内容はごく日常的な話題がテーマである。
 いずれにしても三通は、7、8月の企画展には展示させていただく。
 寄託されたUさんの“広く皆さんに見ていただきたい”との意思に沿ってじっくり見てほしいと思っている。どの場所に、どんな方法で?学芸員と相談しながら考えている。
 それぞれの幕末「龍馬、半平太、そして以蔵」展は、半平太自刃の短刀、岡田以蔵の拳銃、そして、今回寄託された半平太の獄中書簡が目玉展示となる。
 龍馬記念館が、この夏暑く、熱くなる。
                                                               (揺)

「心で聴く声」 2006年6月13日

 高知も先週梅雨入りをした。ジメジメとした天気がこれから1ヶ月ほど続くかと思うと気分も多少重くなる。けれども今年は少し様子が違う。4年に1度のサッカー・ワールドカップが時期を同じくして開催された。連日のようにメディアでも報道され、多くの人々が日本の勝利に期待を寄せている。この勢いと興奮の中にいれば、いつの間にか梅雨も終わりそうである。
 さて、当館でも6月はイベントが2つ催される。
 1つは、海の見えるギャラリーにてボーカルkasumi(秋山香純)の個展『うたから生まれた作品たち展』の開催に伴い特別イベント“MONOTYPE スペシャル LIVE”(6月17日[土]開演17:30)。
 もう1つは“女優・日色ともゑ『龍馬の手紙』を読む!!夕べ”である。
 演劇制作体地人会の公演で、何度も公演を重ねている『この子たちの夏』という舞台がある。演出家・木村光一が構成・演出し、6人の女優が被爆した親子の手記を読む朗読劇である。東京、各地を巡演しているので観劇された方もいるのではないだろうか。舞台は実にシンプルであり、時折バックのスクリーンに顔写真と書面が映し出される。その前に立つ麦藁帽子をかぶった女優たちの何層もの声が心に染み渡る。私も色々な舞台を見て来たが、観劇中にこれほど涙を流した舞台もそうは無い。
 劇団民藝の役者である日色ともゑさんも『この子たちの夏』に出演されていた。良く通る澄んだ声で、真実の悲しさを真っ直ぐに伝えていた姿が印象的だった。
 6月24日(土)開演18:00、日色ともゑさん朗読による『龍馬の手紙』の声の世界を、是非味わってみてはいかがでしょう!?
                                                               (M)

「北の大地・坂本直行D」 2006年6月10日

 「反骨の農民画家 坂本直行展」のポスター、チラシ、チケットができた。ポスター、チラシの上半分には直行さんの描いた日高の山並み大きく刷り込まれている。今はさわやかな初夏の日高山脈だが、しばらくすると晩秋の紅葉した柏林の向こうにある日高山脈になる。これらのポスター、チラシは直行さんという人のことを、県下をはじめ日本各地に広めていくだろう。いろいろな街角で直行さんの絵が語り始める。

 先日、高知県教育長の大崎博澄さんを訪ねた。私が敬愛する人生の先輩である。山畑を耕し、自然を愛するナチュラリストだ。そんな大崎さんを慕う人たちが素朴な草木を持ち込み、教育長室はさながらジャングルの趣になっている。
 直行の話をしていたら、大崎さんは瞬間沈黙した。
 「今の話を聞いて思い出したことがあります。昭和40年代に児童詩を集めた『サイロ』という詩誌があって、ボクはそれを北海道から送ってもらっていました。それに挿絵を描いていたのが確か坂本さんという人だったと思います」
 「『サイロ』は六花亭が昭和35年から毎月出しているもので、その坂本さんが坂本直行なんです」
 「六花亭?いやそんな名前じゃなかったですよ。私はそこの小田豊四郎社長に手紙を書いて、丁寧な手紙ももらいました」
 「六花亭はその当時、帯広千秋庵といっていました。小田社長は会長になり、今は息子の豊さんが社長になっています」
 「そうですか。それはなつかしい。秋が楽しみですね。きっと見に行きます」
 生前の直行さんとつながっている人がこんな身近にいた。
 大崎さん自身、児童詩誌「めだま」を長くガリ版出版していた詩人である。静かではあるが、この人もまた筋金入りの反骨だ。教育長室には今、直行のポスターが貼られている。

 5日の北海道新聞では、当館の「坂本直行展」が紹介された。龍馬と直行によって、高知と北海道が身近になってきた。

 http://www.hokkaido-np.co.jp/
                                                               (ゆ)

「うたから生まれた作品たち」展 2006年6月6日

 “海の見える・ぎゃらりい”6月の展示は秋山香純さんにお願いした。
見事、海をバックに、夢のある空間が出現した。
色彩的にも、言葉的にも。
 面白いのは17枚の絵に、それぞれキャプションの詩が付いていることだ。
絵と詩が奏でる世界は妙に切ない。
傷心の旅路をさまよう、あなたと私である。
「だれもがひとりぼっち・」「会いたいよ・・」「暗闇が怖い・・・」「一緒に暮らそう・・・・」
暗くなりそうな言葉の行列なんだが、絵を見ていると反対にさっぱり感がある。
もしかすると、そのアンバランスが生み出す調和が、秋山さんの狙いなのかも知れぬ。
 波音が聞こえ、窓の外を見る。
波間にはタンカーがゆったり腰をすえている。
水平線はわずかにぼやけている。
空気は澄んで陽光は白いのに、海は重たい。
 梅雨入りである。
 6月17日(土)の夜、秋山さんは今度は詩を歌う。
 友人の山崎あずみさんとのバンド「モノタイプ」のライブである。
 ボーカル秋山、ギター山崎。
 梅雨を忘れさせてくれそうである。
 秋山さんの絵と詩と歌を楽しみに来てほしいと思う。
                                                               (揺)

「一枚の絵画展」 2006年5月29日

 館の2階南詰め、龍馬の見た海を体感するポイント、“空白のステージ”で、一枚の絵画展を開いている。
 作者は坂本直行。六花亭のお菓子の包装紙に描かれた、花の絵の作者。そして坂本龍馬の子孫。しかし、これらのことはあまり知られていない。
ご本人がしゃべりたがらず、生涯“おれはおれ”を貫いたのが強く影響している。北海道十勝の開拓農民として入植し、一方、身の回りの自然を、絵に描くことで愛した。おもねらず、媚びず、堂々と生きた。今年、生誕100年。北海道帯広の地元では顕彰の展覧会も開催中だ。
 坂本龍馬記念館では、今年11月、直行さんの絵画展を、館を舞台に開催する。現在準備中である。作業過程で、坂本家ゆかりのお宅で、二点の直行作品をお借りできた。秋と初夏の日高連峰を描いた小品で、直行さんのメッセージが伝わってくるいい作品である。
 眺めているうちに絵画展まで収蔵庫にしまっておくのはもったいなくなった。少しでも早く、多くの人に鑑賞してもらおうとの思いに駆られ、「一枚の絵画展」の運びとなった。
 まずは初夏の、緑あふるる日高である。雪の連峰が映えている。そばに直行さんの略歴と、11月からのポスターも掲示した。
 眼前に広がる水平線。横に目線を振ればみどりの日高だ。不思議に違和感がない。海に山が、山に海が溶け込んでいく。
 腕組した若者が、じっと絵に見入っている。
 彼はそれより先に常設展示で龍馬の手紙を読んでるはずである。
龍馬と直行、直行と龍馬。腕組解いた彼は、今度はベンチに座って目線を海に投げた。
筋状の波が寄せてきて、浜に白い飛まつを上げた。少し風あり。梅雨近しを思わせる白さであった。
                                                               (揺)

「雨の降る記念館」 2006年5月23日

「海の見える窓」第1回、館長の「専ら修理に追われている」というメッセージを覚えているでしょうか?
修理の原因のひとつ、雨漏りは相変わらず直ることなく、職員は対応に追われている。

5月に入り雨が続き、おまけに先日は大雨警報がでた。
以前のように「ここは外?」と思うほどの雨漏りはもうないはずだが、大雨警報となると自然に雨漏りの話題になる。
「いっそバケツアートという展示にしたら」とか、「入り口で傘を配って“館内で雨が体験できます”というのを売りにしたら」とか、冗談とも本気ともつかない案で職員は盛り上がってしまった。

一昨年の台風あたり年に来館されたお客様は、バケツの並んだ館内に驚かれたことでしょう。
昨年は、台風も少なかったが、さて今年は・・・?

他にもいい案があれば、記念館までお知らせください。
                                                               (歩)

「北の大地・坂本直行C」 2006年5月18日

 先日、札幌にいる坂本ツルさんと電話で話をした。「今、庭のカタクリがとってもきれいなんですよ。サクラも終わりました」と言う声が明るい。今年89歳とは思えない実に涼やかな声だ。電話であってもこの声に出会うとその日一日の力が沸く。
 カタクリは春を告げる可憐な花。高山や北国に良く似合う。直行もよく描いた花だ。

 「忙しくて2週間程行って見なかったら、樹林地にはもう一面に若草が萌えて、明るい緑に蔽われていた。カタクリのピンクの花が一面に散らばって居たし、その間にエンレイ草やフクベラ(二輪草)の花が美しくちりばめられて居た。北斜面にはオオサクラ草の目を射るような濃いピンクの花の群れが有った。オオサクラ草の葉は、甘たるい良い香りがする。」(「開墾の記」)
 「山の姿を描き終つた僕は、安心感と満足感で、今度はおちついて丘の上の若草に腰をおろして、煙草を吸いながら美しい山波と牧場をながめた。・・・・・場長宅の縁側からアポイが見える。これもなつかしい山だ。少し残雪があるのは、何か拾いものをしたような気持だった。僕は若草の露を踏んで牧場の道を歩いた。そして樹林の下に、なつかしいオオサクラ草とオオバナノエンレイ草を見た。そのほか、ニリン草、カタクリ、エゾリュウキンカもあった。なつかしいというのは、僕はこんな美しい野の花と、35年間もいっしょに暮らしたからである。」(「山の仲間と五十年」秀岳荘記念誌)

 旅行者にとって美しくロマンティックな白樺林や柏林。しかしそこは、開墾者に痩せた土地と過酷な労働を強いる場所だった。冬は一層厳しいものだ。それだけに春は開墾者に喜びをもたらす。直行は春の喜びを隠さない。
 「くる春もくる春も、いつも同じような環境の変化を伴ってくるのではあるが、私達は毎春新しい喜びを感じた。初めて眺める春のように思われた。」(「開墾の記」)

 カタクリの花を喜ぶツルさんの声は、今も昔も同じように北の大地に響いていたに違いない。
                                                               (ゆ)

「小さな訪問者」 2006年5月11日

 4月からこちらへ勤務するようになり色々なことが新鮮である。
 その一つ、2階で仕事をしていると、時々コツコツ、コツコツと物音が聞こえてくる。最初は何の音だろうと思っていたのだが、それはものすごい勢いと速さでガラスの壁面をつつく小さな訪問者、シジュウカラのガラスをつつく音だった。
 ほとんど毎日のようにどこからか飛んで来てはガラスをせっせとつついている。キツツキのような鳥の習性なのか、それともガラスに写る姿を見ているのかその目的はよくわからない。けれども小さな身体から出されるその力強い音には生命力と存在の頼もしさを感じる。
 そーと近付いて行くと、いつも飛び去ってしまう。でも明日もまた海風に乗って遊びに来るのだろうかと想像するだけで、優しく豊かな気持ちにしてくれるのである。
                                                               (M)

「ゴールデンウィーク点描・5月5日」 2006年5月5日

 「今年の連休は長いな」というのが、カレンダーを見た感想だった。後半の人出を予想していたが、予想以上に多くの来館者で館は賑わっている。館内外いたる所に人がいて、龍馬と出会っている感じである。実に楽しい。
 この季節の人たちは軽装になって、身も心も軽やかに見える。入館して来るのは、カップル、家族連れ、友達同士、一人など様ざま。二人連れはほとんどが手をつないでいるし、子どもたちもおとなの間を走っていたり、「おーい!竜馬」の上映に夢中だったりする。「ここはお菓子を食べちゃいけない場所なのよ」と静かに注意する若いお母さんにも出会う。ここは博物館であるけれども、龍馬に出会う自由な場所なのだ。ひとつひとつが、龍馬も微笑むような光景である。
 今開催中の「龍馬こども検定」は○×式の100問テストで、難しい規定はない。館内は自由に見ていいし、親子で考えたっていいのだ。これが実にいい親子のコミュニケーションになっているように思う。日ごろ仕事に熱中しているお父さんが威信を取り戻すかのように、わが子に龍馬や歴史のことを語っている。分かったような分からないような顔の子ども達に、お父さんは大きく映っているようだ。答案用紙は子どもの名前なのに、おとなの文字だったりする。それでも、親子一緒に龍馬のことを考えた時間があるだけでいい。こどもの日の小さな思い出のひとコマに、龍馬が貢献できたのだ。
 たくさんの方が開館を待ってくださるので、できるだけ早く館を開けている。閉館はふだんより1時間長い。駐車場整理する男性職員は真っ黒に日焼けした。日本各地のカーナンバーが並び、桂浜へ向かう車の列は止まらない。
 緑が濃くなり始めた山々。青い海は弓状に大きく広がっている。土佐の中央、海に面したこの小さな半島に日本中からたくさんの人々がやって来てくれた。夏に向かうさわやかな5月の連休である。
                                                               (ゆ)

「龍馬こども検定」 2006年4月29日

 21日から2階企画展示室で「坂本龍馬を知っちゅう?」展を開始した。「・・知っちゅう?」=土佐弁。すなわち「知っていますか?」。子供を念頭に置いた企画展である。分かりやすく龍馬の一生、その志を紹介している。また関連で「龍馬こども検定」を行うことにした。
 問題はすべて龍馬に関する100問。答えは○か×か。90点以上をとった人には大奮発の賞品も用意した。もちろん別に参加賞はある。スタート前に、館の職員で試してみた。居合わせたカルチャーサポーターの皆さん、龍馬ファンを自認している出入りのおじさんも含めて15人あまりが挑戦した。
 さて、その結果は?。100点が一人現れた。若い女性職員で、幕末の志士・吉村虎太郎ファン。さすがである。職員は当然ではあるが、90点以上で面目躍如といったところ。龍馬ファン自認のおじさんが83点。「点数がようのうても、龍馬好きは人に負けんぜよ」とこれは負け惜しみ。「難しい」が意見の一致したところであった。
 なるほど、難しいらしい。小学生では6、70点台。中学生でも80点から90点である。ただ、今回の検定は、館内のどこかに答えが隠されていて、それを探し出してもらうのもこちらの思惑である。館内を動くことによって、同時に資料も見てもらう。だから、場合によってはお父さん、お母さんの応援があっても差し支えなし。
 先の土、日、待っていた子供らがやってきた。そして果敢に挑戦した。2階のあちこちにセットしてあるパネルを熱心に見ている。友達同士、親子で考えている組もいて、なかなかにいい雰囲気。点数はあまり伸びなかったが「今度、もう一回やる」。真剣なその顔に「何か賞品つけてあげましょう」。
 皆さん、ぜひチャレンジしてみてください。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行B」 2006年4月27日

 坂本直行は岳人である。
 小学校時代に釧路から札幌に引っ越して来て登ったのは手稲山。中学校時代に登った蝦夷富士で山に魅了される。山に魅せられた少年は、北海道大学山岳部創設期からの部員として、ますます山に親しんでいく。
 卒業後も山岳部先輩後輩たちとの交流は日高の原野に続き、開拓農民として生きる人生を支える。そして、山の仲間たちが岳人直行を伝説の人にまで広げていく。
 直行は入植した十勝の原野と、日高の山々を愛し続けた。登山時には山の風景に圧倒されて立ち尽くすこともあったらしい。農民運動、自然保護運動に没頭した時期も長い。いつも山や自然とともに生きた直行。そして、彼のかたわらにはいつもスケッチブックがあった。

   直行の肩書きは様々だ。開拓農民、農民画家、山岳画家、画伯、随筆家、等々。そして、坂本龍馬の子孫。いずれも直行であり、いずれもそうでないのかもしれない。
 直行の絵を見ていると、そこにある人間のまなざしが迫ってくる。まさしく人間である。人間に肩書きがいるのだろうか。
 坂本直行は、まさに清冽に生きた一人の人間である。私はそう思う。

 4月25日、北海道・中札内美術村「坂本直行記念館」がオープンした。北の大地美術館が、直行生誕100年の今年だけ直行記念館にリバイバルしたのだ。11月5日まで。
 わが坂本龍馬記念館にも、直行さんのコーナーが出来た。いよいよ龍馬と直行さんが出会う。
 やわらかな何層もの新緑が広がり、椎の木が匂っている。土佐の初夏が始まった。

 中札内美術村
 http://www.rokkatei.co.jp/facilities/index2.html
                                                               (ゆ)

「龍馬に酔ってください。」 2006年4月19日

 館の「海の見える・ぎゃらりぃ」4月、5月の展示は書道の「沢田明子と問の会」展である。さすがの存在感で、観る人を沢田明子の空間、龍馬の世界に知らず引き込んで行く。
 正面に、沢田先生の、大荒れの海を描いた作品がある。波の間に見え隠れする小船一艘。手前の浜では白波が騒いでいる。全体に暗い、恐ろしげな風景だ。画面左中央に朱墨よりも赤く見える字で「飛騰 龍馬」。まさに暗い波を躍り超える龍馬の魂、火を思わせる。
 その絵の隣り、これがまた面白い。体長80センチ、幅35センチの巨大ヒラメの魚拓が架かっている。荒れる海、大ヒラメの魚拓、そして、沢田先生の詠んだ句が、それぞれ門下生の感性によって表現されている。
 もちろん同じ句ではない。色々の龍馬の登場というわけである。

 秋雨や龍馬やみえぬものを見て
 石にもたれ龍馬憩ふや月の夜
 春の月誰もいなくて龍馬のみ
 名月や龍馬よ酒がこぼるるよ
 かえりても胸に龍馬や十一月
 ひとだかりしてアイスクリン屋と龍馬像

 などフムフムと一人で納得してしまう。
 果てしない海、土佐の海には鯨も泳いでいるだろう。同じ海に大ヒラメもいるし、何より龍馬はもっと大きいぞ。展覧会のそれがメッセージに違いない。
 県外から来た入館者である。おじさんが二人。芳名帳にサインしながらつぶやいた。
 「まこと、広いのう」「おお、見事な眺めじゃのう」
 「時間が足らんけん、また来にゃあ」
 「あっ集合時間じゃ」
                                                               (揺)

『再会』 2006年4月13日

4月8日、学芸員・カルチャーサポーターと行く「檮原町・脱藩の道」バスツアーが行われた。
記念館前の桜はもう葉桜となっていたが、梼原町ではちょうど満開の時期で、桜の咲き誇る道を通るたびにバスの中では小さな歓声があがった。

さて、バスが出発して2時間ほど走った頃、学芸員さんから今日のバスツアーの行程について説明があった。
「バスは布施ヶ坂の道の駅を出発しまして、次は吉村虎太郎の銅像へ向かう予定でしたが、時間の都合のためそちらへは寄らずに、那須俊平・信吾邸跡へと向かいます。」
「・・・・・・」
吉村虎太郎との1年4ヶ月ぶりの再会を心待ちにしていた私にとってかなり衝撃的なその言葉にバスの中で泣きそうになった…。
時間的に吉村虎太郎の銅像に寄れそうにないことはずいぶん前から分かっていたらしいのだが、私ががっかりすると思い、学芸員さんもなかなか言い出せなかったということだった。
それにしても……(>_<)

那須俊平・信吾邸跡の近くでバスを降りてそこからは歩きになる。
桜や菜の花の咲く山近くの道を通り、茶堂、六志士の墓、掛橋和泉邸を見学してから維新の門で昼食をとった。
予定よりずいぶん早く維新の門に到着することができ、ゆっくり昼食をとって再びバスで出発。
宮野々関門碑、韮ヶ峠を見学したところで「虎太郎の銅像に寄れるかも」という話が!

前回の脱藩の道バスツアーは11月、紅葉舞う中で虎太郎と初めて出会った。
そして今回は桜が満開に咲き誇る中での再会。
感動で涙が出た。

バスの中ではカルチャーサポーターや学芸員さんによる解説が行われ、バスに揺られながら必死でノートをとった。今まで知らなかった龍馬の話をたくさん知ることができ、朝から晩まで龍馬一色の一日で、 それプラス虎太郎との再会もあり、本当に本当に大満足のツアーとなった ☆☆☆
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「東京の土佐ブンタン」 2006年4月9日

 閑話休題。北の大地から、南国にかえった話題をひとつ。
 ミカン、ポンカンなどは、お正月頃から国道沿いの良心市(無人の小さな直販所で高知名物。料金箱に入れられた金額は、たいてい売価と勘定は違わない。売り手と買い手の良心による運営)の彩りになっている。
 そして春先。いわゆるミカン(温州)が消えた頃辺りから、高知では続々と新たな柑橘類があふれ出す。南国・フルーツ王国の名にふさわしい。
 今、土佐特産のブンタン(文旦)が美味しい。少し苦味のあるさっぱりした味は、皮をむく面倒さえなければ、いつまでもほおばりたい。大ぶりで厳選されたブンタンなら1個数百円してもおかしくないが、形は悪くても味のいいものは、安く手に入る。高級な水晶ブンタンだって、庶民の口に入らないはずはない。
 さて先日、朝の通勤途中のラジオで、このブンタンの話題が出た。東京のFM局からの全国放送らしい。
 女性アナが得々と語る。「今度、○○ホテルでは、スゥイーツにブンタンシュークリームを限定で出すんですね〜。ブンタンって苦味があってグレープフルーツみたいで、さっぱりした味なんです(まあね!)。果肉の皮がちょっと緑色がかってて(ン〜ッ?)、別名ボンタンとも言われます(エッ?!ち、違うよ!)」。とうとうと、ブンタン講義は続く。で、かなりずれている。「皆さん、ぜひ召し上がってくださいね〜」。私は思わず叫びそうになった。「何の紹介をしているの?!」
 しかし、冷静になれば、これは歴史やその他のことにもいえる。後世の人が得々と語る史実(?)が本当であるのかどうか。地面の下で面映い思いをしている御仁、脚色された出来事もさぞや多いことだろう。歴史研究は科学と同じで、100%の真実に近づく作業だといわれる。私自身、東京の土佐ブンタンを語っていることもあるだろう。ラジオのブンタン紹介は、他山の石。教訓である。
 さて、高知ではこれからもフルーツの季節は続く。柑橘系の小夏、八朔、エトセトラ。野菜のトマトだって、高知ではフルーツトマトなのだ。
 田に水が張られ、水面が光る。蛙も鳴いている。新緑が広がり始めた。気の早い鯉のぼりも泳ぐ今日この頃である。
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『桜の雨』 2006年4月6日

記念館に勤めるようになって2度目の桜の季節を迎えた。
去年は撮ろう撮ろうと思っているうちに桜が散ってしまったので、今年は満開を待って休憩時間にちょっと散歩へ。
デジカメ片手に桜満開の坂を下る。

4月2日は朝から雨が降り続いていた。 午後になって一旦晴れ間も覗かせていた空が急に真っ暗になり、どしゃ降りの雨となった。
激しい雨に誘われて薄桃色の桜の花びらが散ってゆこうとしていた。
“桜の雨”はどしゃ降りなのにとても優しい雨だった。
                                                               (雪)

「北の大地・坂本直行A」 2006年4月2日

 坂本家の居間に、赤いベレー帽をかぶった直行(チョッコウ)さんがいる。長男・登氏が描いた小さなデッサン画である。その白髪交じりのヒゲを生やした晩年の直行は、欧米の人を思わせるほりの深い風貌をしている。それは芸術家の顔であり、刻まれたしわは長い開拓農民時代を物語っている。
 同じ居間には、小品だが力強い冬の日高の油彩画がかけられている。奥さんのツルさんは「これはサインが入っていないので、まだ仕上がっていないのでしょうね」と言う。直行の絵を原野から発掘し、世に出した彫刻家・峰孝氏の小さな直行ブロンズ像(頭部)も、本棚の上から居間を眺めている。
 アトリエの直行の写真の前には、いつも花とお茶がある。「私たちは宗教を持たないので、どうやって亡くなった人を祀ればいいのか分からないけれど、こうやってお花やお茶だけは欠かさないようにしています」「坂本家は熱心なクリスチャンで、直行も若い頃には教会に通っていました。でも、やることがたくさんあって、教会に行く時間がもったいなくなったようです」「開拓時代、生活に追われてお墓参りどころではなかったんですよ」「直行は新聞記者たちに龍馬のことを聞かれたら、この部屋に逃げ込んでいましたね」。澄んだツルさんの声が響く。
 アトリエには、ツルさんが「この絵が私は好きなんですよ」という冬木立や、新緑の日高山脈の油彩画がかかっている。大作の秋の日高山脈もある。そして、若い日の直行が微笑むパネル写真と共に、龍馬や祖父・直寛、父・弥太郎らの写真が並ぶ。
 ツルさんは、かつては六人の子どもたちや夫と共に過ごした大きな三角屋根の家で、89歳になろうとする今も一人暮らしをしている。一人暮らしを続けながらも、この家には子どもや孫、ひ孫たち家族の賑わいが、どこかしこに感じられる。
 原野での厳しい開拓生活をした直行の傍らには、いつもこのツルさんがいた。協働者として、子どもたちを腕に抱く母として、妻として。厳しい労働を強いられる毎日の中で、ツルさんに授けられた天性の利発な精神とひるまない生命力が、直行を支えてきたことは容易に分かる。今なお、ツルさんからは生命の健康さが伝わってくるからだ。
 ツルさんと共に、今も直行はこの家に生きている。
                                                               (ゆ)

「桜花花」 2006年3月29日

 朝、辺りはしんとしている。日曜日など、一帯が眠りの底にあるようなのどかさである。
 時間にせかされて、門から一歩外に出る。道路にせり出した桜の枝が、ちょうど目の高さだ。七分咲きの桜花が気配で揺れる。ついでにふっと息を吹きかけてみる。びくともしない。新入生の制服に付いた桜のボタンみたいにりんとしている。まだまだ散るには時間があるぞ!そう意思表示している。
 中水道から桂浜行きのバスが出る堺町まで、約20分ほど歩く。気がつくとあちこちに桜である。地域によって開花に多少の差はあるが一斉に動き始めた自然の息遣いを感じて、足はひとりでに軽くなっていく。
 バスからの桜探しもいい。いや、探さなくても目線の中に飛び込んでくる。民家の庭、ちょっとした路地にも、鏡川の堤防沿いは満開が待ち遠しい。宇津野トンネルを抜けて浦戸湾沿いは、急に華やかに感じる。桜って多いなあが実感である。
 長浜、南海中学校前を通って、花街道へ。水平線に突き当たる。
 バスは、坂本龍馬記念館を進行方向左手に見ながら、急坂を登る。眼下に波が寄せる浜が開ける。坂本龍馬記念館前で下車する。ここから館まで歩いて2分。この2分がもったいないほどに貴重になる。一日分の心のゆとりを授けられた気になるのだ。
 見上げれば桜花花。古木は背が高い。陽光をいったん吸い込んで、で、花びらを裏返して光を地上に振りまくが如しである。桜花花のトンネル。深呼吸しながら、坂道を登り切ると、海と空の境界線。バッチ漁の漁船が今日は岸に近い。船体が白く光っている。
 館の“龍馬の見た海”を臨む「空白のステージ」に立つ。
 船中八策の広場に桜あり。白波を隔てて青い海。抜けるような空。浮かぶ雲。そして、風少し。波打ち際をゆっくり散歩する人影が揺れて見えた。
                                                               (揺)

「北の大地・坂本直行@」 2006年3月24日

 急な出張だった。1泊2日。正味1日の札幌行き。短い時間で、大切な資料を的確にお借りするという目的が無事に果たせるのか。館長との打ち合わせにも、厳しさを感じていた。今の北海道は、サクラの開花宣言があった高知とは気候も違う。雨だろうか。雪だろうか。いつもよりも気持ちが引き締まっていた。
 当日。雲の合間から覗く東北地方の雪景色を越えたら、海峡が見えた。早朝出発のふやけた感覚からいっぺんに目が覚めた。久しぶりの千歳周辺。機体が降下し始めると、目に入る白樺の木肌が温かく感じられた。北の大地にも、春が近づいている。
 ここは、海から降りるといきなり山に突き当たりそうになる高知龍馬空港とは違う。北海道はどこに降りても、大地に帰ったという感覚がはっきりとある。アメリカやヨーロッパの空港に降り立つような、広々とした豊かさを感じる。機体が着陸するまでのときめきは旅人に近いものがある。
 しかし、この大地を開拓し開発して行ったのは、旅人ではない。旅人のロマンなど一蹴する厳しい大地と向き合ったのは、文明の利器など持たない先住民や移民たちだったのだ。
 龍馬はこの大地にどれだけあこがれていたことだろう。直寛は何を思い、女こどもの不安と期待はどんなだっただろう。熊本から来た弥太郎。信仰を持った人々と、信仰すら捨てて大地に立ち向かった直行。その家族。時代を遡る感慨が押し寄せてくる。
 かつて見たニューヨーク・エリス島のイミグレーション記念館。説明もない日本人のポートレートとパスポートが語ることの多さ。カナダ最東端、プリンスエドワード島は赤毛のアンの島であり、カナダで最初の州であった。先住民と侵略者の闘いと融合。トロントで見た日系5世展。大陸内奥部ウィニペグまで進んだ日本人たちの思い。かつて旅先で見た、未知の土地での過去の人々を思う。
 目の前に広がる北の大地。こもごもの思いに再会しながら、これは直行さんや龍馬に出会う旅だと感じていた。
                                                               (ゆ)

「田中良助家資料の活用」 2006年3月19日

 昨年5月、当館HPの過去の企画展「龍馬と良助」を御覧になって、大阪外語大学の久堀先生から問い合わせがあった。田中家資料『駒下駄敵討』(こまげたかたきうち)の体裁や登場人物などの内容について知りたいというものだ。
 久堀先生は、近世人形浄瑠璃研究をご専門とされており、先日『説話論集 第15集 芸能と説話』に「近世後期淡路座の人形浄瑠璃−『敵討肥後駒下駄』の成立−」という論文を執筆された。
 淡路座の人形浄瑠璃とは、およそ500年前から始まったもので、江戸時代には全国を巡業しながら人形芝居を浸透させていた。現在では、座の数も少なくなったが、1976年に国の重要無形文化財に指定され、保存・継承が行われている。
 久堀先生は論文中で、江戸時代の淡路座の活動と中央の浄瑠璃作品を調べることにより、淡路座の中央への影響や果たした役割などを考察し、従来注目されることの少ない淡路座独自の創作活動に光を当てる試みを行っている。
 田中家の『駒下駄敵討』は、浄瑠璃の台本ではなく実録本の一つだそうだが、全国には他にも同種の実録本が少数ながら存在しているそうだ。実録本と浄瑠璃との関係を考察する際、田中家の『駒下駄敵討』は他に伝わる実録本と異なっているため、大変興味深い資料だということだった。論文を拝見させていただいたが、非常に面白く、勉強にもなった。また、当館では浄瑠璃の知識が無いため、この資料を単なる書籍資料としか扱っていなかったが、専門家が見るとこれほど資料が生きてくるものかと驚いた。
 今後も、専門家に限らず、多くの方が研究のために資料を活用していただくことを願っている。
                                                               (抜)

「春到来・千客万来」 2006年3月15日

 日脚が伸び、大気は明るくなった。プロ野球キャンプ入り、観光開き、皿鉢(さわち)祭り、お城祭り、二十四万石博。高知の城下に春を告げる中国大陸からの黄砂が、幾日も街や空や海を白く霞ませた。
 ウメ、モモ、レンギョウ、コデマリ、ユキヤナギ。春の花が広がっている。サクラは赤かった樹皮の色がつぼみに移り、その突先ははちきれんばかりだ。いずれ大気は桜色に染まるだろう。春到来である。
 そんな春の賑わいは館にも広がっている。若い学生たちの笑顔、団体の華やぎ、家族連れの和やかさ、一人の充足。所用で来られた方が「えっ?!こんなに人が来てるんですか」と驚かれることもある。
 先日も大学生のグループが、閉館間際まで写真を撮ったり、展示会場を何往復もしていた。彼らが立ち止まった資料について少し説明すると、かなり突っ込んだ質問をしてくる。その意外さに驚いたし、とても楽しかった。若い彼らは、本当に龍馬を知ろうとここを訪ねていたのだ。
 ある年配の方は資料の説明を聞いて「今回の旅で一番の収穫は、今のお話でした」と、何度もお辞儀をしながら、名残惜しそうにバスの集合に向かっていかれた。
 学生たちも年配の方も、私がたまたま通りがかりに出会った人たちである。こういった“他生の縁”らしき方たちをはじめ、各国大使から小さな子どもたちまで、いろいろな方をご案内している。
 「ギャラリートーク」などという気取った言い方はしない。私たちは「解説」という形で、ご予約いただいた方たちに館内の説明をしている。また、予約などなくても、熱心にご覧いただいている方には思わず「ご説明でも…」と声がけをしてしまう。そして、その中で自分自身が一番学んでいることを感じているのだ。
 千客万来。多士済々。日々是愉快。そんな気持ちの春である。
                                                               (ゆ)

「波の音」 2006年3月6日

 館の2階南端、“空白のステージ“に立てば、はるか水平線を望む。
日によって、刻によって海の眺めは表情を変える。色もそうだし波の姿も違っている。
大学が休みに入ったのだろう、週末若者の姿が目立ってきた。館内が活気づいてくるのが分かる。
受験生もいた。青白い顔で彼は朝一番にやって来た。パワーを貰いに来たのだという。
神頼みならぬ、龍馬祈願。気持ちは良く分かる。頑張れと声援を送りたくなる。
 彼は“空白のステージ”に立ち尽くした。水平線に目線を向け、学校で朝礼を受ける生徒のように、肩幅に足を開いて動かない。無念夢想。
 その頭上から、お囃子みたいに「ザー、ザブン。シャラシャラ」。波音がかぶさってきた。波の砕け散る浜辺までは50メートルはある。沖から幾重もの棒状になって寄せてくるうねりが、はずみをつけて解き放たれて、潮をかむ。「ザー、ザブン、シャラシャラ・・・・」を繰り返す。
屋内にいて、波うち際にいる実感なのだ。
 この仕掛け、実は事前に4パターンの波の音を収録したものを、その日の海の状態に合わせて流しているものである。静かな海、少し風、強風の海、台風襲来、荒れる海。状況に合わせてテープを交換する。
 収録場所は館の真下。時にスタッフが波に追われて丘に逃げ上がったこともあった。
プロ野球のオープン戦が組まれていた日曜日、あいにくの天気になった。前夜からまるで時化模様。翌日も午前中は雨混じりの強風が吹き荒れた。
 波の音は当然、“レベル4”であった。
強風に持ち上がる建物。激しい波音。「おっ、揺れとるぜ!」。おじさんが、思わず床を踏みしめている。本来、吊り橋様式で揺れる構造になっている当館ではある。だが、それにしてもこの日は入館者にとって、めったに味わえぬ体験をされた1日になったと思う。
                                                               (揺)

「この場所」 2006年3月2日

記念館の入口を入ってすぐのところに大きな六曲屏風がある。
作家の司馬遼太郎さんが、坂本龍馬の銅像が桂浜に立って60年を迎えた年に還暦のお祝いにとよせてくださったメッセージを、銅像建立の発起人である入交さんが揮毫してくださったものだ。

「 銅像の龍馬さん、おめでとう。
 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。
 私もここが大好きです。
 世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、
 私はここに来るたびに思うのです・・・ 」

記念館の屋上から海を眺めると、水平線が弧を描いているのが分かる。
地球が”丸い”ということを、私はここに立ったときに初めて実感したように思う。
この広い海のはるか彼方に、まだ見ぬ土地があってまだ会ったことのない人たちがいるのならぜひとも会ってみたい、そんな気持ちになる。
龍馬もこんな気持ちで海を眺めたのだろうか。
司馬さんの言葉をお借りすると、龍馬の記念館が立つ場所はココしかないように思う。
大きな海に乗り出すように建てられた坂本龍馬の記念館。
”龍馬の気持ちになれる場所”です。
                                                               (雪)

「将来は記念館?」 2006年2月25日

只今、5歳児と3歳児の子育て中。

上の子は赤ちゃんの頃から、よく記念館に遊びに連れて来ている。
階段がいっぱいある迷路のような建物がお気に入りで、「大きくなったら記念館になる!?」と言ったこともある。
そのおかげか、迷子の時には「ママのお仕事は龍馬記念館です」と必ず伝えてしまう。
(母はとってもはずかしいのだが・・・.)
ここは子供にとって皆に可愛がってもらえる楽しい遊び場、そして勉強の場。

教えた訳でもないのに龍馬という言葉を覚え、侍を見ると「これ龍馬や」と言っていた。
これが3歳頃には龍馬の顔や雰囲気をちゃんと捉えることができ、龍馬の絵・写真などを見ると「あっ龍馬さんがおる」と言うようになった。
その他の侍は、「これ人生〜♪(水戸黄門)に出てくる人?」と一括りにされている。
こんなちょっとしたことで子供の成長を感じ、おもしろい。

前館長が亡くなった時「優しかったのに、もう会えんが?」と、身近な人が居なくなる寂しさも経験した。

龍馬が何をした人か全然知らないけれど、龍馬と記念館が大好きな息子。
ちなみに今は「ハリーポッターになる!」と箒にまたがり特訓中。
「何で飛べんがやろ・・・?」とつぶやいている。
                                                               (歩)

「酢屋十代目」 2006年2月23日

 慶応3(1867)年、龍馬は忙しかった。
 1月、長崎・清風亭での後藤象二郎と胸襟を開いた話し合いから始まり、2度目の脱藩罪赦免、「海援隊」改組、いろは丸事件と交渉、「船中八策」、薩土盟約、イカロス号事件、大政奉還、「新政府綱領八策」、そして、暗殺…。
 そんな6月24日、龍馬は3通の手紙を書いている。権平、乙女・おやべ、望月清平宛の。この日、「船中八策」の提案も終わりホッとしているのか、龍馬は早朝6時から手紙を書き始めた。中でも乙女・おやべに宛てたものは5メートルに及んでいる。(当館で現在、全面展示中)。
 書き出しには「今日も忙しき故薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみしたヽめました。当時私は京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋(すや)に宿申候」とある。
 小さな文字で綴られた三行にある龍馬の状況。この三行に込められた時代と人々、その思いを、人生を賭けて大切に守り続けているのが、龍馬没後140年の今なお「京都三条通河原町一丁下ル」に住まいし、創業以来280年材木商を営み続ける「酢屋」である。
 酢屋十代目当主、中川敦子氏の講演会が、高知市のホテルで行われた。和服姿の中川さんが出て来られた瞬間、ため息のような拍手が起こった。裾さばきに京女の気概があった。
 龍馬ら海援隊の面倒を見た六代目酢屋嘉兵衛以来、「才谷さん」のことは誰にも言ってはいけないという言づけを守り、今や若者の町として、夜の繁華街として賑わう町で、当時と同じたたずまいで暮らす酢屋さんの生き様に、聴衆の拍手は大きかった。
 小柄な中川さんだが、先祖から受け継ぐ誇りと気概は大きい。筋を通しながら、相手を見るまなざしは優しい。学ぶことの多い方である。
 歴史は名を残さぬ人々の気概によって、連綿と続いていく。

 ※酢屋は「ギャラリー龍馬」も主宰。京都にお出かけの時、是非立ち寄ってみられては…。
 http://kyoto-suya.co.jp/
                                                               (ゆ)

「ネコが通る」 2006年2月19日

2006年2月17日、坂本龍馬記念館は1,850,000人目のお客様をお迎えした。
開館以来5,195日目のこと。
平均すると1日あたり356人の方がこの館を訪れてくださっていることになる。
ゴールデンウィークなどのように入館者数が3,000人を超える日もあるので、逆に入館者の少ない日もある・・・

ある平日、9時の開館から1時間たっても1人の入館者もなく、受付では、解説補助員2人、警備さん、そして館長の4人で、その日1番目の入館者をお待ちしていた。
警備さん :「あっ」
館長   :「ネコが通ったぞ」
解説補助員:「ネコですね」
どういうわけかお客さんが少なくなるとネコが現れて、記念館の入口の前の駐車場にとめられた車の下をくぐって遊んだり、入口の前を横切ったりする。
「閑古鳥が鳴く」ならぬ「ネコが通る」である。
その日は朝のうち冷え込んでいたせいだろうか、10時を過ぎると続々とお客様が来てくださり、最終的には100人を超える入館者があった。((^▽^)良かったぁ!)

でも、こんな”ネコが通る”日は来館される方にとっては最高の日!!
展示ケースにかじりついて龍馬の手紙を読むこともできるし、屋上に上がって龍馬も見た太平洋の景色を独り占めすることもできます。
”ネコが通る”日の龍馬記念館、ゆっくりとご観覧ください。
                                                               (雪)

「港の女」 2006年2月15日

ここ数日海が荒れていた。
風にあおられて白波が立っている。ただし、天気は悪くないから、水平線はかえって鮮やかに見える。館の「海のぎゃらりい」で始まった、吉松 由宇子さんの展覧会のテーマは「海の詩」だ。地元浦戸のご出身だけに「生涯のテーマです」。吉松さんの話す言葉によどみはない。海に寄せる思いの深さが伝わってくる。
 描かれているのは、波、船、太陽、月、人。
自然は忠実に描かれれている。
光あふれる朝日、海、中天にある月はひっそりと凛としている。
 船影は時にリアルに、ある時には影や線だけが幻想的に描かれている。
その構図に人間が絡む。男、女。二人のとり合わせもあれば、女同士もある。不思議な雰囲気が画面を包むのである。
「港の女」は首に金のネックレスをかけた、若い女性のヌードだ。想いにふけっているという構図である。黄色が基調の霧の海。黒い線でえどられた貨物船が溶け込んでいる。淡いピンクの女体は、伏せた瞳だけが妙にリアルに光っている。
「場所柄、展示していいでしょうか」と吉松さんが展示を遠慮するような口ぶりであった。心配無用。絵はすっかり場所になじんでいる。
 その日の海の表情によって「港の女」も表情を変えているように思う。
                                                               (揺)

「想像力」 2006年2月11日

テレビからの情報、映像に頼りがちな現代では、人間の想像力が減退してきているのではないか。映像は一目瞭然で、見せることには優れているが、想像し、考える力を奪っているのではないか。
ある方がテレビでそんな内容の話をされていた。その方は旅をし、たくさんの人と会って、いろんな話を聞くのだそうだ。

確かにこの頃は、話を聞く、読む、といったことが少なくなってきたというのは、自分にも思い当たるところがある。
一児の親としても、テレビにビデオにと安易に映像を見せがちな面を反省。本を読んだり話をしたり、子供と向き合って、想像力を育めるようなゆとりある時間を、もう少し増やす努力をしなければと思った。
でもやはりテレビ、映像は自分の生活の中の一部でもある。トリノオリンピックのテレビ中継も楽しみだ。そういえば、ラジオのアナウンサーの方が、「トリノオリンピックはぜひラジオで!言葉の持つ迫力で中継を楽しんで下さい。」と言っていたのもとても気になる。

映像のなかった時代、龍馬もたくさんの人と会い、よく話を聞き、書物を読み・・・そうして培った想像力によって、あの素晴らしい先見性を持ち得たのだろうか。
彼の遺した139通の書簡には、独特の表現で様々な彼の思いが綴られている。中にはなんとか相手に伝えようと、イラスト入りの説明書きがあったり、ユニークなたとえが使われていたり・・・。

皆さんも龍馬の手紙を読んで、想像力、働かせてみませんか。
                                                               (床)

「おわりのはじまり」 2006年2月9日

 企画展「亀山社中と海援隊」も無事終了。「あぁ、間に合った!」と終了間際にまで、近隣遠路の方がお越しくださった。関係各位、ご来館の皆様に心より御礼申しあげます。
 時間が経つのは本当に早い。見慣れた企画展の様子は、新しい風景に変わった。
 立ち止まって見渡すと、この数ヶ月で記念館自体の風景もずいぶん変わった。出入口の変更から始まった館の模様替えもさることながら、随所に新しい萌芽が生まれている。このコラムもそのひとつだろう。職員の関わりや主体性の変化が館外の方にも伝わっているようだ。
 あるHPでは、「龍馬記念館の『海の見える窓』いつも楽しみにしています。みなさんも是非、読んでみてください。館全員の龍馬への愛を感じます。そして詩人が多い」と、この“海窓”を紹介してくれている。
 詩人、か。確かに近頃の職員らの気持ちには詩人に通じるものが表れている。「龍馬の見た海」という入口の案内板もそのひとつ。
 2月4日の案内板は「立春。天気快晴。眺望度100%。ウエディングドレスで駆けていきたいような水平線」。そう、この日は東京のカップル西川健さんと賀屋直子さんの結婚式。記念館2階・空白のステージで若い二人の挙式があった。
 舞台俳優である彼らが初めて館にやって来たのは昨秋のこと。「私たちは龍馬のことが好きで、この記念館で結婚式を挙げたいんです」。直子さんのキラキラ光る瞳が印象的だった。あの海をバックにしたら、彼女はもっと輝いて、彼はもっと大きく見えることだろう。やっていただきたいな、と思った。
 二人の熱意に打たれて開催できたのだと思う。特例である。俳優である彼らは、自分自身の人生を演出したのだ。当日の二人は、確かに水平線の彼方まで駆けていきそうな輝きだった。
 ひとつ終わる毎に、新しい何かが始まる。「おわりのはじまり」。詩人の言葉だったかもしれないが、私の中に沁み込んでいる呪文である。
 大気が明るくなってきた。春は近い。
                                                               (ゆ)

「姪への想い」 2006年2月5日

私には、もうすぐ5歳になる姪を筆頭に4人の姪がいる。
どの姪も私になついていてとてもかわいい。
姪の望むことは何でも叶えてあげたい気持ちになる。
今まで見向きもしなかった子ども服のお店やおもちゃ屋にも目が向くようになり、姪の喜ぶ顔を勝手に想像しながら買っていくことも多くなった。
また、苦手な洋裁にもチャレンジして、姪の洋服を作ったりもしている。
まさに親バカならぬ“おばバカ”である。

そういえば、龍馬にも姪がいた。兄・権平の娘・春猪(はるい)だ。
ただ、龍馬の場合は権平と年が21歳もはなれていたため、姪の春猪とは8つしか違わなかったので、妹のような存在だったのかもしれない。
龍馬の手紙を見ると、龍馬は春猪に西洋のおしろいを贈っているとある。
また春猪も龍馬にかんざしをねだっている。
このやりとりをみると、龍馬も姪であり妹のような春猪をとてもかわいがっていたことがわかる。
龍馬が春猪へのお土産を選んでいる姿を勝手に想像しては、なんだか嬉しくなった。
龍馬も私のようにおじバカだったのだと思うと、とても親近感がわいてくる。

いつの時代にも、姪を想う気持ちは変わらない!
                                                               (愛)

「玄関で存在感」 2006年1月28日

 厳寒。「おお!寒!」。
「皆さんお元気でしょうか?」。
さて、入り口が替わって2ヶ月あまりです。この改革がヒットでした。特に玄関で存在感を示しているのが、龍馬の像です。
背丈2メートル、重さはプラスチックなので、大きい割にさほどではありません。私が朝、ガラガラ引いて玄関前に出し、夜間は引っ込めるのです。
 私はいつもカメラマン。
若いカップルは龍馬とお龍さん気分で仲良くパチリ。
団体組は、龍馬像を取り巻いてVサインです。
手にぶら下がったり、抱きついたりする人も。
モテモテです。
 龍馬像も「感謝、感謝」と言っているような表情に見えます。
 来館の折には是非、一緒に写真を撮りましょう。
お待ちしております。
                                                               (繁)

「お国自慢」 2006年1月24日

記念館の受付に座って8年になる。
観光地にあるこの館にやってくるお客様は様々だ。
お遍路さん、「会社に内緒で来ました」という出張中のサラリーマン、朝からご機嫌に酔っぱらっているツアー客も多い。
中には、せっかく来たのに館内をほとんど見ることなく、受付でおしゃべりして帰る人がいる。
話題は『お国自慢』
「○○県にはもっと素敵な所がたくさんあるし、食べ物もおいしいよ。」等々。
("食"への意見が圧倒的に多い。食物の恨みは恐ろしい・・・。)
自分の住んでいる所の自慢で30分近く語り続ける人もいる。
相槌をうちながら、試しに高知県の宣伝をしてみる。
大反論をうけてしまい、こちらの負け。
旅行に出る目的が「ストレス発散」という人も多いだろう。
私達におしゃべりすることですっきりし、楽しい旅行になるのかも知れない。
高知県にも素敵なところや、おいしいものがありますよ。
できれば他でストレス発散してから、記念館の受付へどうぞ。
お互い楽しく『お国自慢』しましょう。
                                                               (歩)

「勝負!」 2006年1月22日

 森館長から届いた年賀状には「今年は勝負の年。黙って、前進あるのみ」と書いてあった。意気込みを感じる文字だった。昨夏の就任以来、館長は“勝負”という言葉をよく口にしてきたが、最近ようやく私にもこの言葉の持つ明確な意味が理解できてきたように思う。
 4月から当館は、指定管理者として今までとは違う運営方針を持って事業を執り行っていくようになる。県民はじめもっと多くの方に当館を訪れていただくようにするために、館長の言葉を借りれば「命がけで取り組んでいかなければならない」のだ。
 NHKテレビで感動的な番組を見た。小児心臓外科医・佐野俊二さんを紹介したもの。
 1%の可能性に賭ける命の現場で、一人でも多くの命を助ける仕事をする佐野さんに、失敗は許されない。そして、プロとは「誇りと責任感を持って、努力を続けること」だと言う。佐野さんは、患者さんから絶対的な信頼を受けている。「僕はエリートではないんですよ」とほころぶやわらかな笑顔の向こうには、計り知れない努力が存在しているのだろう。
 来月にはイタリア・トリノで冬季オリンピックが開催される。華やかに見えるフィギュアスケートの世界でも、厳しい練習が繰り返されている。新しい採点法に変わり、今までのやり方が通用しなくなった選手たちは、ひたすら勝負の世界に賭けている。甘えは許されない。
 勝負。どんな世界にいても同じだろう。館長が言う言葉の意味が分かりかけた気もする。

 企画展「亀山社中と海援隊」もいよいよあと一週間。お見逃しなく!!
                                                               (ゆ)

「花二題」 2006年1月19日

 1か月余り前、北海道・とかち帯広空港に降り立つ私を迎えていたのは、眼下に広がる雪をいだいた日高山脈だった。大地には柏林や白樺林も点在する。私は、何度か旅をしたこの大地に、以前と違う思いを持ってやって来ていた。もちろん仕事として来たのだが、懐かしいときめきがあった。
 帯広に来る前に私は、抜けるような青空を背景にしたこの日高の風景を見ていた。小さな油彩画だったが、その迫力に心を打たれた。描いたのは、坂本直行。開拓農民として、山岳画家として生きた人だ。
 広大な山脈の裾野、足元に咲く小さな花々も描き続けた。直行さんの絵を通して、花々を愛する人も多い。直行さんと同郷の帯広出身のオカリナ奏者本谷美加子さんは、直行さんの描いた花に合わせた曲を作りたいと話していた。野に咲く花たちは本谷さんの曲に合わせて、どんな表情を見せるのだろう。
 世阿弥に「自力より出づる振舞あれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳と名附く」とある。芸道で厳しく花を求め続けた人の言葉である。有形無形に直行さんと通じる。
 当館の館だより「飛騰」の題字を揮毫してくださっている沢田明子さんの書展が、高新画廊で開かれた。沢田さん主宰の画廊「北山」開設10年記念でもあり、10年という節目の集大成にふさわしい、とりどりの作品で彩られていた。
 報道写真からインスピレーションを得て書き続ける「小(りっしんべん)」シリーズや自身の言葉で綴られた書の数々。文字は形として元素に帰り、形成された当時の形のままで画になっている。大家にふさわしい筆遣いでありながら、絵のように歌のように語りかける書の持つ風景の豊かさを感じる。
 84歳の沢田さんが会場を歩いている。粋でシックなドレス姿もさることながら、この方が動くと空気がつられて動き出す。沢田さんの動きは気配となって、会場を揺らす。「もう咲かないと思った花が咲いた。一番きれいな花だった」という言葉にも目が止まった。
 「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」。岡本かの子『老妓抄』にある歌が、これほど似合う人はいないと思った。
                                                               (ゆ)

「好きな幕末の志士」 2006年1月17日

一昨年の11月、梼原ではもう一週間もすれば雪が降るという頃、坂本龍馬記念館のカルチャーサポーターと歩く“龍馬脱藩の道”ツアーに参加した。

朝8時半に高知県民文化ホールを出発、葉山村を通って、東津野村へ。
国道197号線から細い道に入る。赤ちゃんの手のひらほどの大きさの真っ赤な紅葉がはらはらと舞う階段を登ると、そこには風に向かって立つ 吉村虎太郎がいた。一つに束ねた髪と着物が風にたなびいている。龍馬の銅像は“静”、対する、虎太郎の銅像は“動”である。

土佐の庄屋出身の吉村虎太郎は、土佐勤王党に参加、脱藩し、大和で挙兵するが諸藩兵に攻められて鷲家口に戦死した。彼が最期に詠んだ詩。

“ 吉野山 風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ ”

鮮やかな赤色をした紅葉の舞う中で聴いた虎太郎のその詩は、私の心に大きく響いた。
それが吉村虎太郎との出会い。

幕末の志士の中では吉村虎太郎が一番好き。
歴史は以前から好きだったけれど、志半ばで果てていった虎太郎が何を目指して、どう行動したかを知りたいと、より歴史に興味を持つようになった。

この春にも梼原町で”脱藩の道バスツアー”を行う予定です。
みなさんにもこのような出会いがあるかもしれません。
ぜひご参加ください。
                                                               (雪)

「レモン」 2006年1月13日

 慌しい一日の終わり、ホットレモンで一息いれる。あたたかい。

 レモンを見ると、いつも小椋前館長のお顔を思い浮かべる。
もう何年も前、実家の庭でとれたレモンを館に持参し、休憩時間にレモンティーを皆に入れて出したときのこと。「ご実家のレモンの香り、楽しませていただくよ。」と、 スライスした、たった一切れのレモンを、とても大事に味わってくださったことが本当に嬉しかった。心があたたかになった思い出。
「お子さんは元気?」などと、一人一人のことを気にかけてくださったりもした。
お客様に対しても、何かと気遣い、気持ちのこもった案内をなさっていた。

 人と人とのかかわり合いは、心掛け次第で、通い合うもの、与え合える何かが変わってくるような気がする。
周りの人へのあたたかい心遣いや感謝の気持ち、尊重する大切さを私も忘れないよう、お客様にも誠実な応対を心掛けていきたいと思う。
                                                               (床)

「門」 2006年1月11日

 昨年の11月から新年1月までの長丁場となった。
「海の見える・ぎゃらりい」で開催中の、国吉 晶子さんの展覧会である。
龍馬の見た海に、溶け込むような国吉さんの抽象画は心に響いてくるものがある。鑑賞する人のその時の感情にもよるだろうが、同時に海の状態にもよる。海からのメッセージを伝える媒体にもなっているように思う。荒れる海、穏やかな波、はるかなる水平線、波頭に躍る漁船、急降下する海鳥・・・そんな光景に反応するのだ。
 「門」という作品がある。
“ぎゃらりい“の正面に置いてある100号の大作である。
ブルーを基調に白、赤、黄色の色彩が躍る。
「門」と思って見るとずばり「門」になる。が、「門」には色々あって、絵はそれによって色々変って見える。
例えば「人生の門」、「そうですねえ・・・」。「心の門は?」、「今日は開けっ放しです」。
「怒りの門が・・・」、「早くおさめなさいよ!」「門」は当たる光線と角度で、色を使って語りかけてくるのである。
 朝、出勤すると、一度はこのスペースに立つことにしている。
 国吉さんの絵にもすっかりなじんだ。
海を見て、絵を見る。
1日が始まる。
私は「門」をくぐって、入館者の訪問を待つ。
皆さん「門」を通って龍馬に面会したあと、国吉さんにもちょっと挨拶して「門」を抜けてお帰りください。お待ちしております。
                                                               (揺)

「今年の目標!」 2006年1月11日

 大河ドラマ「功名が辻」がはじまった。
高知の殿様になる山内一豊とその妻・千代の話なので、今年は高知県も大河効果を期待している。
 以前「新選組」が放映された時は「あの話は本当?」等、問い合わせが沢山あった。
今回も色々ありそうだ。
 受付にいるとドラマや本のワンシーンについてよく質問をうける。
答えられなかったりすると「エ〜!! 観てないの?」と驚かれてしまう。
そこで龍馬が関係する番組などは、できるだけ観るように心掛けてはいる。
 龍馬ファンが必ず読んでいる司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」は、就職後一番に手にとったが、実は昔、一度読みかけて挫折した本だ。司馬さんの本はちょっと苦手...。
(もちろん何とか読みきりました。)
 さあ、「功名が辻」も司馬作品だ。ばっちり答えられるよう早く読まなくては!
ドラマが終わってしまう前に。
                                                               (歩)

「時節到来」 2006年1月7日

 降雪で迎えた昨年1月2日の開館と違って、穏やかな日和で始まった新春。年末にカルサポたちが飾った大きな門松も新しい年と皆様をお迎えするにふさわしく、入り口に華やぎを添えている。この正月も館は多くの人で賑わった。 館の外では、冬の海が厳しくやさしく、大空と一緒に館を包む。館内の景色も変わった。
 気持ち新たに思う。本年もよい年で、今までより多くの方がここに来て、より深い感動を味わって帰ってくださるように…と。
 さて、昨年は龍馬生誕170年で沸いたが、今年は龍馬の甥の孫・坂本直行生誕100年。
 龍馬の甥・坂本直寛は、龍馬の夢のひとつであった蝦夷地に移住し、開拓や牧師の使命を果たすべくその地に根を下ろした。そして、その子孫は、北の大地に着実に根を張っていく。直寛の孫・直行もその一人。
 しかしながら、坂本直行と聞いて「あぁ、あの人ね!」と言えるのはかなりの方。それよりも「北海道帯広市の製菓会社“六花亭”。そう、チョコレートやマルセイバターサンドが有名よね。その包装紙の花の絵はご存知?」と聞いたほうが、話は早い。 その花々を描いたのが、坂本直行その人である。(1906〜1982)。
 直行は「なおゆき」と読むが、皆は親しみを込めてチョッコウさんと呼ぶ。(直寛も同じ。なおひろと読むが、チョッカンと言う人が多い)。直行さんは花の絵も多く描いたが、実は日高の山々を愛し、原野を愛した山岳画家である。だが、画壇にある画家ではない。 山と絵を愛しながら、北海道大学農学部を卒業した後、十勝の原野に裸一貫で飛び込んだ開拓農民なのだ。何よりも、限りなく厳しく美しい自然と共に生きた一人の人間である。
 龍馬の子孫でありながら、龍馬を語ることなく過ぎた直行さんだが、今に生きる私たちは、直行さんの中に龍馬の生き様を見る。武骨で、一徹で、ユーモラスで、やさしくて、厳しい大地で信念に生きた一人の男。残された数多くの絵もまた、その人を語る。
 今年秋には、その直行さんの絵画を北の大地美術館(中札内美術村)やご遺族などからお借りして、初めての里帰り企画展を開催する。多くの方に感動をお届けしたい。
                                                               (ゆ)

「情報に感謝」 2006年1月7日

 おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
さて本題に入ります。
昨年末にホームページで年始の駐車場情報を流したところ・・・、午前11時に駐車場が満車になり、ある県外のお客様から「臨時駐車場はどこや?」と問われ、私もびっくり。今まで、その事を問われたことなど一度もありませんでした。「奥の看板に沿って進んでください!」と案内すると「OK!」と言って臨時駐車場にまっすぐ。
やっぱり情報は大切だなとつくづく感心したことでした。5月のゴールデンウィークにも情報を流し、車の流れがリズム良く駐車場に案内できるように頑張ります。
2006年は幸先良い年となり気合が入ってきた!
頑張ります!
                                                               (繁)

「新年早々」 2006年1月3日

 2006年がスタートした。
年末の異常寒波がうそのような、暖かい穏やかな日和となった。館は2日からオープンで、待ちかねたかのような入館者でにぎわった。まるで初詣に来る人波みたいに。
 ところで館は昨年末、少し体裁を変えた。より親しみやすい記念館を目指しての試みである。ミーティングルームもその一つ。小学生からお年寄りまで、ちょっとした学習や、雨の際には食堂にも使える空間にした。
 部屋の奥に、耐火金庫二個を備えた収蔵庫もできた。「収蔵庫」についてはこれが館の泣き所になっていた。それは海に面した館の建物の設置状況に由来している。「龍馬記念館は潮をかぶる。まあ、ショールームと思えばいい。大事なものは置かれんぞ」などと陰口をたたかれた。が、そんな陰口はもう言わさぬ。自信も出来た。
 京都に住む院展画家(日本画)、前田直衛さんから館に寄贈いただいた「伏見・寺田屋」の絵も大きなアクセントだ。入り口から地下1階に降りる壁面に架けた。150号ほどの大作だから存在感は言うまでもない。皆さん前で足を止める。
 万全の態勢で新年を迎えた。
多い入館者に刺激されてMさんが、説明に立った。Mさんを入館者が取り巻いた。早速、企画展「亀山社中と海援隊」の最大の目玉「海援隊約規」(海援隊入隊の約束ごと)の説明に入ろうとして息を呑んだ。ケースの中の“約規”がないのだ。あっと気付いた。工事期間中、金庫にしまっていた。すっかり忘れていた。慌てて金庫から取り出し、ケースの中に入って陳列した。その間30分。冷や汗もんの新年解説開始となった。
二度と同じ間違いは致しません。
一同、心新たにお待ちしております。
                                                               (揺)

「冬の海」 2005年12月25日

 四季を通じて水平線が最もくっきり見えるのは冬の海である。  寒気が入ると、海は群青色に光り、海と空がはっきりと区別できる。時おり白波が広がる。そんな日は、風のある寒さの強い一日が続く。海の色が薄くなって水平線がボワーッとにじんで見える日は、暖かく過ごしやすい。海は正直な生き物だ。
 毎日一度は屋上と2階にある望遠鏡で、水平線や海、パッチ網漁船を眺めて感動している人がいる。館長だ。クジラを探しているらしい。館長だけでなく、「海が見たい」とやってくる人もたくさんいる。
 以前、私は毎週のように大月町・柏島の海に通っていた。夏場は魚種も多く、サンゴの間を泳ぐ魚たちの姿を追うだけで楽しかった。しかし、夏の賑わいが去った冬の海は、水中に静けさが漂う。
外洋に臨むここでも、沿岸部にはサンゴも生息しているのだろう。高知の海では、サンゴや魚たちが豊かな世界をつくっている。
 群青色の海を眺めながら、眠っている魚たちを思う。そして、生き物たちを包み込みながら地球に広がる海を思う。海には、今だけでなく過去や未来とつながった時間が漂っている。
 夕暮れ時の帰り道、小高い丘から海側に下りてまっすぐ花海道を西に車を走らせる。海は黒く眠り始めているが、暗闇になる前の空のグラデーションは、心が吸いこまれるように美しい。きょう一日の時間が終わる。色合いを閉じようとする空のやさしさ。冴え冴えとした月と金星。忘れていた記憶が浮かび上がる瞬間だってある。
 1年を振り返った。いろんなことがあった。夕暮れを見ることのできない日が続いた。館でたくさんの人と出会った。龍馬とも近しくなった。
来年はもっとたくさんのことがあるだろう。よいお年を!
                                                               (ゆ)

「龍馬 苦笑い?」 2005年12月25日

当館には龍馬の蝋(ろう)人形がある。
この蝋人形は有名な立ち姿の龍馬の写真を元に作られており、背丈もほぼ等身大ということもあって、龍馬のイメージがつかみやすく、お客様もよく見ていかれる。
またこの蝋人形は撮影も可能なので、記念撮影していく方も数多い。
先日のこと、ある親子に蝋人形との記念撮影を頼まれた。
お父さんと1歳半の娘さんだった。私はカメラを受け取り、撮影の体勢をとった。お父さんは娘さんを抱っこして、蝋人形に近づいていく。
すると、娘さんが泣き出してお父さんの胸に顔をうずめる。
これではシャッターは押せない。お父さんが蝋人形から少し離れて娘さんをなだめる。
落ち着いたところでもう一度チャレンジ!やっぱり近づくとだめだ。何度か試みたが結局、娘さんの顔は写らない状態での撮影となった。
全国に熱烈なファンのいる龍馬も、1歳半の女の子にとってはただの怖いおじさんなのだ。
「わしゃあ、こわいおじさんじゃないきに・・・」
龍馬の苦笑いする顔がうかんだ。
                                                               (愛)

「流木の詩」 2005年12月21日

道具はノミではなくチェーンソーである。
それを「使って」ではなく「操つる」。
操って木材で作品を制作する。
題して“チェーンソー木彫り”。
山本祐市さんの本業は浦戸の漁師さんだが、時に作家となる。
先のコンクールで山本さんは全国二位の実蹟を残している。
先日お会いした際、作品に興味があるお話をしたら、10日もせぬうちに作品が届いた。
山本さんご自身が、軽四輪の後ろに積んで運んで来てくれた。
「作ってみたきに、どこか館に置いてみて」
照れくさそうに抱えてこられた。
 これが不思議な作品なのだ。もちろんテーマは龍馬。胸像で、頭髪は後ろになびかせている。その背後になんと魚が跳ねあがっている。さらによくよく見れば、ちょんまげの元結より先は、鯨のしっぽに作ってある。
「わしのイメージにある、一つの龍馬の姿じゃ。この木は、浜に流れ着いた流木での、根っこのところが大きゅうて、ひき切って家に持ってきて、作ったがよ」。
流木と聞いて、もう一段想像力がかきたてられた。
流木の龍馬も面白いし、魚との繋がりも奇想天外。
くじらのしっぽのちょんまげなど、誰も思い付くまい。
ひとまず、ビデオコーナーの棚の上に置いた。
人相で見る限り中年の龍馬さん。口をへの字に結んで、無念無想である。
龍馬は思う人によってそれぞれである。その人だけのものになる。
それが人気の秘密でもある。
ちょっと、警備のSさんに横顔が似ている。
                                                               (揺)

「右手の理由(わけ)」 2005年12月17日

記念館の模様替えが行われて1ヶ月が過ぎた。現在の販売コーナーの真ん前には、ほぼ等身大のろう人形の坂本龍馬がいる。というわけで、販売担当の日は一日中龍馬と向かい合うことになる。龍馬にみつめられている気がして少し照れたり、にらまれている気がして怖くなったり・・・・・・、どこか遠くを見ている気がしてその視線の先を追ってみたりもする。

龍馬の立ち姿の写真をもとにつくられたこのろう人形、もちろん右手は懐(ふところ)に入れられている。龍馬に関心のある方も、そうでない方も、この“右手の理由(わけ)”には興味をもたれるようで、記念館で一番多く受ける質問が「龍馬は何で右手を懐に入れているんですか?」なのだ。私はいつも「いくつか説があって、ピストルをもっているとか、“万国公法”という国際法の本を持っているとか、寺田屋で幕府の役人に襲われたときに負った傷を隠しているという説がありますが、本当のところは龍馬に聞いてみないと分からないんですよ」と答えるのだが、ここ販売コーナーには、お客様の会話の中から、さまざまな“右手の理由”が聞こえてくる。

ある若いバスガイドさんは「当時はこのポーズが流行ってたんですよ!」とツアー参加者に説明し、50代くらいの男性は「ふんどしのひもが切れたから押さえてたらしいんだよ」と奥さんに力説。「胃腸が弱くておなかが痛かったんじゃないか」と言う人や、「寒かったのかなぁ」という人もいる。小学生の子ども達にたずねてみると「お弁当を持っちゅうがよっ!」という答えが返ってきた。

どれも違っているかもしれないし、どれかが当たっているかもしれない。
もしかしたら何も入っていないのかもしれない・・・。

夢の中ででも、龍馬に会えたら聞いてみたい。
「龍馬さん、ホントは何が入っちゅうが??」
                                                               (雪)

「不思議なコンサート」 2005年12月14日

 12月のある夜、坂本龍馬記念館が閉館後の2時間、コンサートホールになった。シンセサイザー奏者の,西村直記さんが、メロデイで龍馬を語った。
西村さんのCDに「坂本龍馬FOREVER」がある。
「革命」「龍馬誕生」「友との出会い」「脱藩の道」「龍、天(そら)へ」・・。
龍馬の人生をなぞる。
会場は地下1階の普段はビデオ、図書閲覧コーナー。少ない椅子席から外れたお客さんは、座布団を敷いた階段にすわっていただいた。
 演奏を終えた西村さんは額に汗を浮かべていた。表情は明るかった。
「いいですね。この舞台、雰囲気最高でした。なんといってもそばに龍馬直筆の手紙なんかがあるのですから」。
演奏冥利に尽きるとも言った。「龍馬の横で演奏しているのですよ」。実際、龍馬に演奏を聞いてもらっている感じで弾いたのだそうだ。
 ただその感覚がこちらにうまく伝わらない。“なぜ分らんのか”ともどかしげであった。
“分らん”と言えば、西村さん制作の龍馬のCDに収められている曲が、私にとっては、予想外の内容だった。曲のテンポが全てゆっくりしているのだ。「革命」「脱藩の道」など当然速いテンポの激しい曲を想像していた。そのことを西村さんに聞くと「そうなんですよね。自分も思います。しかし、龍馬のことを思えば思うほど、ゆったりした曲になるんですよね、これが・・」。
妙に説得力があって納得してしまった。
 龍馬のオーラがなせる技なのかも知れない。
だからその夜の演奏会も同じだろうと一人決めていた。ところがそれが違った。眠くないのである。逆に目を覚まされた。スローテンポが、激しく怒涛のように迫ってきた。
 西村さんの演奏テクニック?会場のせい?龍馬の手紙?
その全てがうまく混ざり合った?。ともかく楽しく不思議なコンサートでした。
                                                               (揺)

「出会いと楽しい対話」 2005年12月10日

 だれもが、心のよりどころを求めているのです。
坂本龍馬記念館に多くの人がやって来るのもそうした世相が原因だと思います。
そして若者の多いこと。
駐車場で車の整理をしていると、そんな若者たちと話す機会が少なくありません。
「おじさん、龍馬おるかえ?」若者に声をかけられました。
私は「中におるぞえ」と答えました。
その横から、別の少年が「はい!」と答えたのです。少年の名が本当に「龍馬」だったのです。
若者と私と少年と大笑いになりました。
また、若者たちは質問好きです。
「龍馬の身長は?乙女の体重は?」この程度なら私も答えられます。しかし「龍馬がどうやって世直ししたの?」など聞かれると、すぐ学芸員さんにバトンタッチである。
約1時間後、出口スロープを降りて来る若者の顔は、紅くほてっている。目は輝いている。
龍馬になったかのように大きな声である。「おじさん、ありがとう。また会おう。」などと言われると、うれしくなる。
来館された若者の中から龍馬の様な人材が出るのを期待しつつ、さよならと手を挙げる。
                                                               (繁)

「空と海と」 2005年12月05日

2005年12月3日。天気は快晴。ひとりの男性のお客様がやって来た。
「いくらですか?」
入館料は400円。
「安いですよねぇ。ここの屋上から見える景色だけでもそれ以上の価値がありますよ!!」
この日、記念館の屋上から見えた景色がこちら。
  
太陽の光を浴びた海がきらきらと輝いている。海の上を吹く風にのって ひゅ〜〜〜ぅっと飛ぶ鳥たちを見ていると、そこに風の流れがあることがわかる。

2005年12月4日。朝から降っていた雨がようやくあがった午前10時30分。
      
                     am 10:56                      am 10:57
上の空は晴れているのに、その下にはまだ大きな雲が残っていて、その雲の間から海に金色の光がさしている。その光も空の動きとともに姿を変え、次の瞬間には違う景色になっている。

前館長の小椋さんが“大きすぎて展示室には入らない展示物”と呼び、大好きだった景色。龍馬もみた景色。私もこの景色が大好き。一日の仕事を終えて帰るとき、警備のおじさんがこう言う。
「この景色見たら銭(ぜに)※はいらんぜよっ!!」  ※今日のお給料のこと

景色の展示は毎日、時間ごとに展示替えをおこなっています。どうぞご覧ください。
                                                               (雪)

「親子のツアー」 2005年11月30日

 話題の場所を親子でめぐるツアーが、バス2台に分乗して龍馬記念館にやって来た。
総勢80人。楽しく学習するのが狙いで、地元ラジオ局の企画である。
現場からの実況もあるから、スタッフも交えて結構大掛かりだ。
ただ館にとっては、地元入館者の増加が大きな課題になっているだけに、願ってもない“お客さん”。カルチャーサポーターの皆さんの協力も頂いて待機した。
先乗りが到着して「後15分で来ます」。それを合図に“お迎え組”は、ばたばた館前のエントランスに集合した。
バスが着いて、一行が下りて来た。考えてみると、こんな形で親子を見るのは初めてである。それぞれ違って面白い。総じて子供が主役。子供の後を親御さんが付いて走るパターンが多い。ところが中には子供を従えているようなお父さんもいる。子供の方が世話をやいている。
高学年の、お母さんと女同士の二人組は、友達みたいな雰囲気が強い。
説明を聞く子もいれば、海ばかり眺めている子もいる。
もう友達になって、子供同士グループで館内の“探検”をはじめている。親同士もすっかりお友達である。館内に和やかな空気が流れる。実に好いものである。一つこんな質問をした。
「今日、初めて龍馬記念館に来た人?」
ザーとまるで林のように大きい手も小さい手も上がった。皆さん周囲を見て安心の様子。顔見合わせてしきりにテレ笑いであった。こちらは苦笑い。それを隠して、
「それではゆっくり鑑賞して行ってくださーい。」
帰り際、すっと近寄ってきたお母さんが言った。
「初めてでした。好いところですね。ご近所を誘ってまた寄せてもらいます。」
にっこり挨拶された。いっぺんに気持ちが軽くなって、動き出したバスが見えなくなるまで手を振った。
                                                               (揺)

「シアター&コンサートホール」 2005/11/23

 11月19日(土)は館にとって記念すべき日だったと思う。閉館後の6時から1時間半、地下1階の空間が映画シアターとなった初めての日。内容は、「亀山社中と海援隊」関連企画第2弾としてアニメ映画「おーい竜馬」とお話の会である。大型スクリーンにアニメ映画が上映された。参加者約50名。
 近隣の小学生たちが、お父さんお母さんおばあちゃんと一緒にやってきた。隣りの国民宿舎『桂浜荘』に泊まっている熊本の家族連れも参加した。入口から地下1階に下りる階段は色とりどりの座布団が敷かれ、ふだん入館者が通行する雰囲気とは全く違う。この日、高知市内の小学校では音楽会や学習発表会があって、その後の行事である。この日1日を家族と一緒に有意義に過ごしているチビッ子たちはパワーに充ちている。
 海援隊研究第一人者である佐藤寿良さんは、低学年の子どもたちの多さにちょっと戸惑っていたようだが、スクリーンも使いながら、龍馬についてのお話をしてくださった。「30年以上歴史愛好家として龍馬や海援隊のことを調べているけれど、龍馬っていう人は普通の人なんですね。君たちの誰だって龍馬になることはできるんだよ」と語る口調は、子どもたちへの期待と人柄の温かさそのものであった。
 「おーい竜馬」は人気のあるアニメである。もちろん史実と違う場面もあるが、子どもたちと龍馬が出会うにはよい場所だ。ハラハラしたり、ワクワクしたり、子どもたちは龍馬を身近に感じながら夢を紡ぐことだろう。佐藤さんのお話もいつの日か心の底から浮き上がって、新たに語り始めるに違いない。初めて館がシアターになった日。私たち職員はそんな小さな夢が実現できることを確信した。
12月3日(土)には同じ時間、同じ場所がコンサートホールになる。シンセサイザー奏者として国内外で活躍する西村直記さんをお迎えして、新作CD『坂本龍馬FOREVER』を特集する。ミュージアムがコンサートホールになった、心地よい空間と音楽を楽しんでいただきたい。ぜひお越しください。
                                                               (ゆ)

「遠めがね」 2005/11/17

 11月15日を記念して、このほど桂浜をはじめ生誕地周辺などで龍馬生誕170年のお祝いが行われた。170年経ってなおこれほど親しまれる龍馬とはいったいどんな人なのだろう。桂浜・龍馬像前の式典に参加しながら私は龍馬に問いかけていた。
 龍馬は新しもの好き、プレゼント好きである。姪の春猪をからかいながら“舶来のおしろい”を贈る約束をしたのは有名だが、家族にも何やかや贈っているし、自分もまた「おねだり上手」であるようだ。「人の付き合いはものをやり、やられから始まる」と言うが、お中元お歳暮などはいい例だ。日本人特有の習慣はさておき、龍馬は思いやりをプレゼントという形に変えて送り届けていたのだろう。
 慶応3(1867)年5月中旬、龍馬は世話になった寺田屋伊助に「遠眼鏡(とおめがね)一つ」と時計一面を贈っている。いろは丸事件の交渉に長崎へ向かう前のことで、少し前の7日には三吉慎蔵宛に自分が死んだ後のお龍のことなどを頼んでいる。添えられた手紙からは、これが最後かもしれない伊助へのプレゼントに託す龍馬の切々とした気持ちが伝わってくる。(現在展示中)
 この遠眼鏡。つまり当時の望遠鏡を、私は先ごろ長崎で初めて見た。朱塗りの瀟洒なものだった。龍馬が伊助に贈ったのもあんなものだったのだろうか。
 さて、当館にも遠めがね、つまり望遠鏡が2基設置された。屋上と、当館2階(以前は1階、11月より現状)南“空白のステージ”の2ヶ所。龍馬の見た大きな海を映している。中でも屋内のものは、「テレボー」という最新式のもので、四国では3番目の設置。もちろん太平洋を眺められるのはここだけだ。
この望遠鏡からは果てしなく広がる海だけでなく、龍馬の志だって眺められるかもしれない。
                                                               (ゆ)

「人生の節目に」 2005/11/13

 警備員のSさんが、朝礼の後「館長」と声を落として耳を寄せてきた。
館の西側にある駐車場に、不審な車が駐車しているというのである。
不審の根拠は、「二週間になるんですよ。いや、停めっぱなしではないんですがね」。Sさんの口調を借ればこうなる。
 時々はいなくなるが、夜になると駐車場に帰ってくる。
 そう言えば私の出勤時間帯に、初老の男が海に向かったベンチに座り、じっと海を見ていることがあった。時にタオルを振るったり、軽い体操したり。
Sさんの話しと合わせると、男がここを生活の拠点にしているのは疑うべくもない。
 「ハンチングを目深にかぶって、やせぎす、目つきも鋭い。何者でしょうな」
事件がらみを予測する、Sさんの表情である。
Sさんの推理が当たっている可能性も否定出来ぬ。
そこである朝、車から出て来た男に「おはようございます」とあいさつしてみた。
すると、予期せぬアクションが返って来た。男はまずハンチングをとった。それから直立不動の姿勢になり、改めて腰を90度折って「おはようございます」。
頭のてっぺんがちょっと薄くなっているのが分るくらい、これ以上はないという丁寧な挨拶であった。
しかし、口数は少ない。聞かれても話せない。いや.話さない。そんな決意のにじんだ、それでいて穏やかそうな表情に、いわくあり、を確信した。それで聞きそびれた。
館には、県外からのリピーターが少なくない。桂浜へ龍馬に会いに来る。進学、就職、結婚、リストラなどというのもある。動機はさまざま。共通して言えるのは、皆さん人生の節目である。
くだんの駐車場の男も、二週間ほどの間に二回、入館したと言った。
まさに人生の節目。年恰好からして、大きな節目と思う。
“公園内の駐車場に停めた高級国産車で寝泊りしながら、海を眺めている中年男”。おかしくはある。しかしここは、龍馬のお膝元ではないか。
Sさんと話して、いましばらく様子を見ることにした。
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「いよいよ、夜明けぜよ!」 2005/11/10

 11月5日。企画展「亀山社中と海援隊」開催。
ここまで漕ぎ着けたのは、多くの方のおかげだとしか言いようがない。それにしては舌足らずの迫力不足だと嘆くのはご協力くださった皆様に対して失礼な発言かもしれないが、まあともかく開催した。
 実のところ、こんなことを言うと我ながら龍馬に近くなってきたのかと思わざるを得ないが、龍馬にも励まされた。開催数日前には「あきらめたらいかん!」という龍馬の声が体に響き渡った。
 そうだ。龍馬もあの時辛かったんだ。ワイルウェフ号、ユニオン号、大極丸、いろは丸。欲しかった船が次々と自分の手をすり抜けていく。昔馴染みの友が死んでいく。いったい自分は何のために動いているのか。逆境をチャンスに変えて、希望を求めた新天地に、次々と困難が待っている。大切な中間たちとも別れなくてはならないかもしれない。断腸の思い、孤独、選択。しかし、波は押し寄せるばかりではない。失望が退き、希望が近寄ってくることもある。日本の夜明けが近いという実感を、龍馬は確かに感じていたのだ。
 新しい国づくりをめざした龍馬に比べようはないが、新しい記念館づくりをめざそうという少しばかりの意気込みを持つ身には、構想ばかりふくらんで、ふくらんだ気持ちに押しつぶされてばかりだった。勉強不足、力不足の壁にとことん打ちのめされた。長次郎も惣之丞もつらかっただろうなと思うこともあった。
 それでも、テレビ・ラジオ・新聞等でご紹介いただき、こうして皆様をお迎えしている。今までとは違う、新しい夜明けが館にもやってきたことを信じよう。
 お世話になった方たちの中から、私の背中を大きく押してくださった濱島君江さんの姿が見えなくなったのは淋しい。ご冥福をお祈りいたします。
                                                               (ゆ)

「22匹のタヌキ」 2005/11/04

 坂本龍馬記念館は、小高い丘の上にある。
標高約60メートルというのは、感じよりかなり低い。見た目には軽く標高100メートルは越えるほどに思える。館から海岸ぶちまで切り立っているせいだろう。断崖は松が主体の雑木林。そこに、どうも鳶の巣があるらしい。
というのも、先日お隣の国民宿舎「桂浜荘」で、水平線を眺めながら優雅な昼食中のことだ。カレーから水平線に目線を移した視界に、突然、鳶の姿が舞い込んできた。海からの上昇気流に乗った、そんな勢い、弾みをつけている。羽をいっぱいに広げて滑空のスタイル。全部で6羽。水平線を高く越えるのもいれば、逆にジェット機みたいに、森に向かって急降下の影も。鳶の“集会”?かも知れぬ。どうも、緊急動議が出されたようだ。
 そう言えば、桂浜界隈、浦戸地区で、最近“動物界”の異変を知らせるニュースが、“人間界”を騒がしている。新聞のこんな見だしが目についた。
「浦戸地区のタヌキが、次々変死」「分っただけで14匹」。
館の周辺は“タヌキ屋敷”かと、改めて知らされた。変なことに感動した。
そして後日のニュース。「変死の原因は動物の病気。人間には感染なし。確認しただけで22匹が死ぬ。」
今度はその数に驚いた。
“人間界”の小規模な小学校で言えば一クラスだ。一クラス全滅と考えるとショックではないか。
恐らくタヌキ仲間では、伝染病対策が話し合われたろう。
会場は月の桂浜だ。
その月夜の“タヌキ会議の集会”の様子を想像して、妙に独りで納得した。
おっ!生き残ったタヌキが、館の前庭広場をちょこちょこ横切って行くぞ。
入ってきた観光バスのクラクションに驚いて、ダイビングのスピードで側溝に身を隠した。
「亀山社中と海援隊」特別企画展の大きな看板が、館の入り口に座った日の午後である。
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「茶色のブーツ」 2005/10/30

 心持台にもたれ、目線を遠くに投げ、口を結んだ龍馬のポーズはご存知だと思う。
桂浜に立つ龍馬像もそうだし、館でも人気のポスターがそのポーズである。
 右手は懐にあり、膨らんでいる。何か持っているのか、ただ、手を入れているだけか。
愛用のピストルを忍ばせている説も捨てたものではない。推理するのは、楽しいミステリーだ。
 こちらはそんな詮索は無用。
 袴の下に覗く、休めの姿勢の足先は、明らかに革靴である。それもブーツ。
“さむらいブーツ”。自然で、違和感がないのが、龍馬の龍馬たらんところだろう。
似合っている。
 企画展準備に追われていたその日、どさっと館長室に宅急便が届いた。
思い出した。先に、高知市で開かれた全国龍馬の集いで知り合った、長崎の靴屋さんから送られてきたものである。龍馬のブーツを制作しているという。そこで、一足送っていただいた。
 今、新品の茶色のブーツが、応接の机の上にある。デザインは悪くない。今からすぐに履いて街に出ても、おかしくはない。それより新品の皮の匂いがプンと新鮮である。
 説によると色々だが、龍馬がブーツを求めたのは、長崎らしい。確かに外国商社もあり、手に入れやすい環境にはあった。格好より、実利性を好む行動派の龍馬にすれば、ブーツは超便利な履物だったと言えるかも知れない。
 壁には、定番龍馬の写真が架かっている。古い写真は黄ばんでいるから、靴などちょうどの茶色である。
 卓上のそのブーツを見ていると、むらむらと自分用の一足を誂えたくなった。
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「国吉晶子展」 2005/10/25

 龍馬記念館に、また一つ見所が出来る。
 現在、あまり利用されていない館の中2階のスペースを、ギャラリーとして活用しようという計画である。その空間の名称がまずできた。
「海の見える・ぎゃらりい」すぐ決まるほど、眺めがいいのだ。
あまり広くはないが、小品の展示なら問題ない。
これも、少ない地元入館者対策の一つでもある。
さて、トップバターは、先の現代美術の公募展「ジーンズファクトリー コンテンポラリー アートアワード2005」で、最高賞の「グランプリM賞」に輝いた、 高知市の国吉晶子さん(26)にお願いすることにした。
館では、11月5日から「亀山社中と海援隊」の特別企画展を開催する。これは日本の夜明けを謳った龍馬の真骨頂。館を挙げての企画展であるのは言うまでもない。 国吉さんの展覧会もこれに合せた。
作品の鮮やかな色つかいが、館の雰囲気をさらに盛り上げてくれると感じたからである。
「海の見える・ぎゃらりい」は躍動的な色彩の渦に、あふれるだろう。
あふれて、館を包んでしまうかも知れない。
仮に龍馬を意識してなくて入館した人も、龍馬に通じる何かを感じるかも知れない。
そんな期待感がある。
国吉さんは何回も“ぎゃらりい”の状態を確認した。持参のメジャーでパネルの空間も測定した。
うんうんと独りうなずいて
「大きい作品二つと、後は小品を持って来ます。頑張ります。」
言葉少ないが、やる気と感じた。
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「かえる」 2005/10/20

 日常の生活の中で、積極的に何かを「かえる」という事をあまり行わない方だが、館の中では度々「かえる」を行う機会が訪れる。
例えば最近だと、企画展の看板を作りかえた。
と言っても、パソコンでA3用紙何枚にも分けて印刷し、適当なサイズに裁断してパウチした後、両面テープで貼り合わせただけの単純なものである。しかし、この「かえる」は意外に良い結果をもたらしているようだ。
今まで何度か再展示されている企画展「龍馬への入口」の看板はその度同じ物を使っていた。
その事を特に気にした事はなかったが、作りかえて初めて、沢山の人達が看板を見てくれている事に気付く事が出来た。
自分で作りかえた分、反応が気になっての事だろうが、看板の前で立ち止まり、会話をかわしている光景を何度か目にしていると、時には「かえる」という事も必要なんだと感じられた。 今回の看板の仕上がり具合は、あまり満足の行くものではなかったが、今後も行っていくであろう「かえる」という作業をひとつひとつ大事にしていきたい。
 ちなみに現在も「かえる」を実行中。
まだまだ時間はかかりそうですが、今度はもう少し自分で満足できる物を仕上げるつもりです。
ホームページリニューアル、もうしばらくお待ち下さい。
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「チーズ」 2005/10/16

 種崎側から桂浜側に「浦戸大橋」を車で上がる。
結構、角度のある坂になっている。弾みをつけて駆け上がる際にはいいが、スピードが落ちるとギアのダウンが必要になる。
前を車が走ると、坂がきついので、前方の視界は完全にさえぎられる。金魚のふん状態で、連なるわけだ。
 それが、橋の頂点に行きつくと同時に、一気に視界が開ける。
突然、大自然のパノラマに放り出されたかのごとき錯覚を覚える。その開放感。
 目線に海。晴れていようが、雨だろうが、台風でもすごい。
海と空を二分する青い帯び。くっきりの時もあれば、ぼやけている時、海、空溶け込んで不明の時もある。
好い、悪いはない。いつでも好いのである。
 今度は坂を下って行く。水平線はさらに長くなる。左カーブを切ると、晴れの日の東の海はきらきら光っている。ひとりでに深呼吸である。
 これが私の通勤路。まさに宝。一人占めの宝である。
先日、高知で「第17回全国龍馬ファンの集い」が開かれた。
参加するために来高した埼玉龍馬会のAさんが、龍馬記念館の屋上に上がってこう言った。
「素晴らしい。この海。この水平線。まさしく龍馬の海ですねえ。こんなところが職場でうらやましいですなあ」
腕いっぱい広げて、海を抱きしめた。
 同じ日、海をバックにセルフタイマーで自分の写真を熱心に写しているお年寄りがいた。
見ていると、「二人で写しましょう」と頼まれ、カメラの前に立った。
じいさんの右手が腰の当たりに巻かれたのにはちょっとびっくりだったが、吹きぬける風が心地いいので、じいさんの口調に合わせて「チーズ」と言った。
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「以蔵のピストル」 2005/10/11

「人間、死ぬときゃあ、いやでも死ぬ。私しゃあ、これまでに3回命を捨てちょる」。
岡田義一さん(80)は、哲学者の顔である。
交通事故、病気。交通事故に遭った時は、70歳を越えていた。なんと十日間も意識不明だったそうだ。
戦時は航空隊に所属していた。出撃が決まって、家で最後の別れの休暇を過ごし、隊に戻る途中、列車が事故に遭った。出撃時刻に間に合わず、同僚は出撃していた。一人取り残された。生き延びた。
岡田さんの話しを聞いていると、人間の持つ運命の不思議さを改めて考えさせられる。
何より、岡田さんが幕末の孤剣の剣士、岡田以蔵の血筋に当たると聞くと、妙に納得してしまった。
香長平野、田園地帯の水路の多い一画に、岡田さんのお宅はあった。
風が岡田家の座敷を抜けて行く。ふすまを外せば40畳はあるだろう。大広間である。
座敷の南の庭は、築山になっていて、池には鯉が放たれている。
正直、岡田以蔵のゆかりのお家と聞いた時のイメージとは少し違っていた。
 しかも、岡田家に伝わる家宝を、拝見できる今日はチャンスなのである。
この家宝が、また、予測できない代物であった。
剣ではなくピストル。その意外性に裏をかかれた思いであった。箱に収まったピストルはフランス製、幕末風雲急を告げるその時代を、以蔵の懐で潜り抜けてきた。そう考え、目にし触れると、また新たな感慨である。
実は、このピストルを、11月12日、龍馬を巡る人々バスツアーで拝見できることになった。興味のある方は是非ツアーへ参加してください。お待ちしています。
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「カルチャーサポーター」 2005/10/06

 当館にはカルチャーサポーター(略してカルサポ)というボランティアの人たちが活動している。今年10月現在15名。 カルサポなんて和製英語も甚だしいが、なんとも力強い、文化施設つまり当館の“応援団”である。
 そもそもボランティア(volunteer)の語源というのは、英語の志願兵(voluntary=自発的な、自ら進んでする)が一般的だが、 ラテン語のボランテール(自由意志)から来ているとも言われる。つまり、強制されるのではなく、自ら進んで参加する、自分の 意志で行動するということ。つまり、ボランティアとは主体的に動くことによって自分を高めていくことなのかもしれない。
 今、カルサポたちはかなり自発的に活動していると思う。一昨年度までの活動はさほど多くはなかったが、昨年以来、各種自主 企画行事をはじめ、館内業務のお手伝いなどを年間を通じて行っている。しばらく誰も来ない日が続くとちょっと淋しいくらいだ。
 自分のやりたいこと・できること・具体的に何をするのか、などをワークショップを重ねて確認し、実際の活動の手応えや反省 の中で、この1年半にずいぶん皆が成長した。…なんていうと人生の先輩方もいる中おこがましいが、担当者としては親心みたい な気持ちで、そう思う。
 「解説なんて難しい」というカルサポの中には、国立大学で史学を専攻し卒論は『土佐の郷士』なんていうK君や、龍馬が好き で京都・霊山歴史館で学芸員実習した中学教師もいる。だから私が「爪を隠し過ぎると詐称罪だよ」(笑)とからかったりしてし まうのだ。高校生から大学生になったカルサポもいる。脇をがっちり固めるかのように、楽しそうに労を惜しまず裏方仕事をして くれる人生のベテランたちには、私自身が励まされている。
 博物館だ文化施設だという前に、いろいろな人の関わりの中で変化し成長していく場でありたい。
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「お墓参りは楽しい?!」 2005/10/02

 『お墓参りは楽しい』(新井満著・朝日新聞社刊)という本が最近出版された。龍馬も含め、世界各地のお墓を回る新井氏は『千の風になって』以来、死者との対話の中に“生きる”ということを問うているように思える。悲しい時、辛い時、嬉しい時、心の内に問いかける相手は過去の自分や、今はいない人たちかもしれない。
 さて、身近にも「お墓は本であり、教科書なんですよ」「お墓めぐりは楽しい」という人がいる。当館カルチャーサポーター(ボランティア)の今久保さん。数年前に還暦を過ぎたらしいが、20代の頃からお墓を見ることを趣味にしているので、これは趣味を超えてライフワークとも言えるだろう。実に楽しそうにお墓の話をされる。お墓でその形や年代を読んでいると、その時代の人たちのことが鮮明に見えてくるらしい。
 私も仕事上、お墓めぐりをする機会ができた。実のところ、自分の所の墓参りもまじめにしていないので、心の片隅でちょっとご先祖に申し訳ないなという気持ちも持ちながら…。そして、確かにいろいろな家を訪問するように、いろいろなお墓があるものだと思うようになった。
 歴史愛好家の方の多くは、お墓めぐりが楽しいらしい。「きょうは絶好のお墓参り日和で…」という史跡めぐりをする龍馬会関係者の言葉に驚いたのは、昨年館に来た当時だっただろうか。今でも私は楽しいという心境には遠いが、お墓をめぐっているうちに学ぶことは確かにあるなと思う。
 春以降、今久保さんがリーダーになって、何度かカルチャーサポーターによる小さな歴史探訪ツアーを実施した。そこで、「企画展『亀山社中と海援隊』に向けて、海援隊士ゆかりの地をめぐる歴史探訪ツアーを計画しましょう」と持ちかけたところ、熱心に取り組み始めた。そんな中、「今度、岡田以蔵のピストルを見に行くんです」という話が出た。別の日、私も一緒に岡田家にお邪魔した。この話は別の項に譲ろう。
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「DNAと出会い」 2005/09/28

 「孫にDNAを感じる!」とは、館長の言葉。自分の血が未来につながっていくことを、わが子よりも強く感じるらしい。 強気なガッツマンも3歳の孫にはメロメロなんだろうな。ステキなことだ。
 龍馬をはじめ、幕末に活躍した方たちのご子孫にお目にかかる機会がある。時に、写真で見る幕末期の人と同じ顔に出会ったりもする。不思議で、愉快なひとときである。
 中でも長州藩士・三吉慎蔵のご子孫は、DNAを強く引き継いでいらっしゃるように思う。
 この夏、京都国立博物館の一室で初めてお目にかかった時、ひとめで三吉さんだと分かった。それは単に風貌だけでなく、龍馬が心から信頼した三吉慎蔵の誠実と優しさが 伝わってきたから。その場には、長州旧家・伊藤九三や京都近江屋・井口新助のご子孫もいらっしゃった。どの方も、ご先祖のDNAを感じさせる風格と気品に満ちていた。 そして、ご子孫でしか知りえないだろう先祖から語り継がれた話などをお聞きできたことも、実に楽しかった。幕末はまだ生きている。
 三吉さんに戻ろう。下関取材に行く前、「これから長州に行きます」という電話をした。その時ご本人はお留守で、奥様とお話をさせていただいたが、「最近お墓参りに 行っていないので、代わりにご先祖によろしく伝えてくださいね」とおっしゃる。年上の人に失礼ながら、かわいい方だなと思った。長府博物館裏手で『三吉慎蔵』という 墓碑に出会ったとき、思わず「こんにちは」と言ってしまいそうになったくらいだ。
 10月15、16日に、高知市で『第17回全国龍馬ファンの集い』が開催される。龍馬生誕170年の今年、そこでどんな出会いが生まれるのか。龍馬ゆかりの人々の DNAを通じて、幕末を感じられるかもしれない。
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 「私も龍馬に1票!」  2005/09/24

 先日、アサヒビール株式会社が「一度で良いから、お酒を飲み交わしたい歴史人物は?」という調査を行ったそうだ。 結果は、男女とも龍馬がトップだったようで、相変わらず人気が高い。理由は現代の行き詰まった状況について意見を 聞きたい、というようなものが多いそうだ。
 当館へ寄せられる質問にもお酒にまつわるものは多い。「龍馬はお酒が強かったのですか?」や「龍馬が飲んでいたお酒と同じ物を飲みたいので、銘柄を教えてください」とか、「龍馬はビールを飲んだのですか?」など色々ある。
 妻・お龍の話によると、龍馬は1升5合の酒を一息で飲み干したそうだ。また、龍馬は酔うと陽気になるタイプらし く、海援隊士の関義臣の回顧録では、「平生の無口に似合わず、盛んに流行唄など唄ふ」とある。「お医者の頭へ雀 が止うまる 止うまる筈だよ藪医者だ よさこい よさこい」というよさこい節の替え歌を作って流行らせたそうだ。 関は「誠に天真の愛嬌家であった」と続けている。
 もし、私が龍馬と飲めるなら、政治の話も聞きたいが、三味線に合わせた陽気な唄を聞いてみたい。しかし、龍馬の酒量には付いて行けそうもない。
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 「長崎紀行」  2005/09/21

 秋からの企画展「亀山社中と海援隊」に向けて、長崎、五島列島に行ってきた。
 春先から、丸亀・塩飽諸島を皮きりに、神戸、京都、下関、福山…と回った最終ラウンド。
 台風14号の影響で1週間延期した9月半ばの長崎出張は、夏に逆戻りしたような日差しと蒸し暑さの中をひたすら歩いた。(日焼けとシミがお土産に…?!)
 さすが長崎は歴史の街だと思った。何度か訪れたことのある街ではあるのだが、今回のような幕末を中心とした歴史探訪はもちろん初めて。実のところ、何度目かのグラバー邸ですら、龍馬との関わりなど知らなかった私には、角度を変えて見るとこんなにも街の表情が違うものかと驚かされた。
 丸山遊郭「引田屋」は現在、史跡料亭「花月」として363年の歴史そのままを来客に公開している。営業課・加藤さんの説明を聞きながら邸内を回っていると、その昔の男や女たちのさんざめきが、どこかしこから聞こえてくるようだった。 女たちの笑いや悲しみが後ろから私を追いかけてくる。歴史は遠くにあるのではないなと思う。悲しみや喜びといった人の感情は、時代や価値観が変わってもそんなに変わらないのではないかと思うから。
 五島も強烈だった。ジェットコースターのような小型高速艇では、ワイルウェフ号乗組員気分でいたのだが、五島龍馬会の元漁労長・杉山さんは「あの時はそんなものじゃなかっただろう」と言う。 池内蔵太たちの恐怖はどんなものだったのだろう。それにしても潮合崎を向こうに見る「龍馬ゆかりの地」を整備し顕彰する五島の人たちの思いは熱い。
 遠く時間を超えて異郷に息づく龍馬。何より、今を生きる人たちのまなざしの中にこそ、龍馬は生き続けている。現地の人たちとの出会いの中で、そのことを実感した。
 各地の龍馬会はじめ皆様のご協力がなければ、あれだけの史跡を巡ることは難しかったと思う。心より御礼、感謝申しあげます。
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 「『りょうま』君との出会い」  2005/09/19

 8月のある日、顔馴染みのタクシーの運転手さんが、一人の少年を連れてきた。
 運転手さんが言うには、静岡から一人でバスに乗って来て、高知駅からタクシーに乗ったそうだ。 3時頃高知駅を出発するバスで静岡まで帰るため、2時頃には桂浜を出るように気を付けてあげてほしい、とのことだった。 私が館内を案内しながら色々話をすると、なんと名前は「りょうま」君だった。小学6年生で、龍馬を訪ねて高知まで来たらしい。 龍馬記念館が最後の見学地かと思って案内をしていたら、実はここが最初で、これから桂浜の銅像を見て、お昼を食べた後、 「龍馬の生まれたまち記念館」へも行きたいと言う。しかし、その時すでに11時半。時間が足りない。 慌てたのは私たち職員で、「りょうま」君を急がせるが、本人はいたって落ち着いたもの。 時間がなければ「生まれたまち記念館」は止める、と言いながらのんびりアニメ「おーい竜馬」を見ていた。
 結局、解説員の一人が急いで銅像まで連れて行ったが、その後無事バスに乗って静岡へ帰り着いただろうか。
 龍馬のように、ゆったり大きく育ちそうな少年だった。 
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 「展示室に入らぬ展示物」  2005/09/14

 館の中二階で、先ごろお亡くなりになった小椋前館長をしのぶ追悼展を始めた。
小椋館長は、開館当時から館長をお勤めになった、功労者である。
館の歴史そのものと言ってもいい。
 生前の30枚近いパネルに、そのまま温厚な人柄が覗いている。
「龍馬の手紙」を館の売り物に置いたアイデアも小椋さんの発案と聞いている。
それに、現代語訳をつけたのもやっぱり小椋さんだった。
独特の“小椋節”が窺える訳文は、実に楽しい。
その手紙を、若い入館者が熱心に読んでいる。
ガラスのケースの中に吸い込まれるのではないか、そう見えるほどの熱心さなのである。
 海に向かって立つ館は、館内に展示する資料類にとっては、潮風などの影響もあり、環境は好いはずがない。
そんなこともあって、「記念館には資料が少ない」などとの陰口がささやかれた。
中には、面と向かっての忠告もあった。
しかし、小椋さんは少しも慌てず、こんな風に切り返した。
「実は好い展示物があるのですよ。でも、あまりに大きすぎて展示室には入らないんです。
外に展示してありますので、よく観て下さい」
そして、館内の最先端から、眼前に広がる太平洋を指差したという。
 その海は、まさしく龍馬の見た海である。
 さて今日の海は、果てしなく青く遠い。
白い雲を従えて、呼んでいるのが分る。
その声を聞いて、先日の総選挙結果で起きた頭痛が、やっと消えた。
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 「タイフーン・エナジー」  2005/09/07

 大型台風14号通過。
 この館で、2度目の秋が来ようとしている。
 去年の夏は台風の襲来が多く、休館も相次いだ。
来館者が去って、残留組の職員だけになると、ここはただ台風と向き合うだけの場所になる。
 高知といえば海に面した県だと思っている人も多いのだろうが、実はここは森林率日本一の山の県。だから、市中に住む私にとって海は出かけて行く場所だったのだが、ここに来て海は近しい友人となった。 朝夕の通勤時には海岸線の多いコースを通っているので、なおさら海の表情とは親しいつきあいだ。
 遠く東シナ海で生まれた波も次第にここにやって来る。穏やかな天候が続いているようでも、海は遠くの波涛を教えてくれる。 海は地球上の水たまりなどではなく、鼓動し、動き、おしゃべりし、時に眠る、大きな生き物だと実感する。台風の時はなおさらだ。
 もともと土佐人の私としては、台風に対する畏敬とともにワクワクする気持ちがあるのも正直なところ。もちろん、台風が来て得も言えぬ昂奮を覚えるのは私だけではないはずだ。 波を見に行こう!と思うし、波をかぶりながら突堤から海を眺める人々の背中はパワーを充電しているみたいにも見える。
 館から見る台風時の、海のうねり、風の力。大海に立ち向かう船のごとく、記念館は波と風に大きく揺れている。被災はともかく、台風には不思議な力がある。
                                                               (ゆ)

 「操舵室から」  2005/09/03

 龍馬記念館の建物は、大海に乗り出す船をイメージに設計されている。
船体はブルーとオレンジ色。
大波を一つ乗り越え、次の波に向かって、かっこよくへさきを持ち上げた瞬間である。
まこと、屋上に立ち眼下を見ると、甲板にいる気分になる。
砕ける波。跳ね散る飛沫が白い、白い、白い。
”船内”は壁面がカーブを描いている。
だから、事務室などとして使うには不便この上ない。
机は、壁と直角に突き当たる配置が出来ない。
窓のブラインドが、斜めに上がっていく。
それはいいが、変則なので壊れやすい。
  ”艦長”ならぬ館長に就任して一ヶ月、専ら”船”の修理に追われている。
 ただし気に入っているところもなくはない。
上がり下がりは、鉄製の螺旋階段である。
靴の下に弾む鉄の響きが、手摺の手触りが心地好い。
船腹の丸窓もいける。
しぶきが掛かってくる感じである。
少しさびがきているのも、年月を感じさせて楽しい。
 そして極めつけ、ここは操舵室。
海に突き出した、総ガラスばりの空間は、目線の彼方に水平線である。
まさしく”龍馬の見た海”。
台風余波のうねりの中を、地元の漁船が一艘波をたてて横切って行った。
                                                               (揺)