亀山社中と海援隊ロゴ

【更新情報】


・17年12月1日(木)
資料を掲載しました

関連企画
展示資料
展示パネル

企画展「亀山社中と海援隊」展示資料のご紹介

現在開催中の企画展「亀山社中と海援隊」で展示中の資料を、いくつかご紹介します。

  ■ 海援隊旗
  ■ 海援隊約規
  ■ 新政府綱領八策
  ■ いろは丸想像図
  ■ いろは丸事件始末記
  ■ 万国公法
 
■ 長井長義日記・写真
  ■ 西洋軍艦構造分解図説
  ■ 輿地航路図(世界地図)
  ■ 脱藩後最初の手紙・乙女宛
  ■ 海援隊長就任直後・乙女宛
  ■ 長岡謙吉宛
  ■ 寺田屋伊助宛
  ■ 溝渕広之丞宛
 
■ 陸奥宗光宛    

 
 
 
 
 
海援隊旗 
【海援隊旗】(複製)
勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元(1865)年、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せました。慶応3(1867)年4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたため土佐藩が引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」となりました。龍馬が隊長となり、海援隊約規を決め、船印として「赤白赤」の旗も決めました。この旗は、「二曳(にびき)」と呼ばれました。海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎は、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークであり、やはり「二曳」と呼ばれているそうです。
 
海援隊約規
【海援隊約規】(複製)
慶応3(1867)年4月の海援隊創設と同時に定められた規則書で、入隊資格と隊の目的、隊長の権限、隊士の義務、隊士の修業課目、隊士の給与といった5箇条から成っています。
この海援隊約規には龍馬の精神が大いに反映されています。隊士になる条件は、脱藩者であることと、海外への志を持っていることでした。明治政府の役人が藩閥意識を維新から50年以上も捨てきれなかったことに比して、誠に希有な事例です。現代に例えれば、日本人という意識から脱却し、世界人(地球人)を名乗るようなものです。また、海援隊は船の繰練だけではなく、英語や政治・法律、機械の仕組みなど様々なことが学べる教育機関の顔も併せ持っていたことが分かります。そして、稼いだお金は互いに分配する平等な精神も盛り込まれています。身分の差がないからこそ可能だったのです。幕末には新選組や奇兵隊など、100以上の様々な組織が誕生しますが、海援隊ほど魅力的な組織はありません。海援隊約規には、自由と可能性が満ち溢れています。またこの「約規」は龍馬の直筆といわれています。
 
新政府綱領八策
【新政府綱領八策】(複製)
土佐藩船夕顔の中で、後藤象二郎とともにまとめた「船中八策」を原形に、慶応3年11月初め、龍馬が作成しました。現在二葉残っており、国立国会図書館と長府博物館が所蔵しています。当館所蔵のものは国立国会図書館のものの複製です。
 
いろは丸想像図
【いろは丸想像図】(村上恒夫氏寄託)
いろは丸=45馬力、160トン。伊予大洲藩から海援隊が借り受け初航海に出ましたが、瀬戸内海、讃岐・箱の岬近くで、紀州藩船明光丸(150馬力、887トン)と衝突して沈没しました。後藤象二郎、龍馬らの交渉の結果、紀州藩が賠償金を支払う事で事件(いろは丸事件)は決着しました。寄託していただいた村上氏は愛媛県大洲市在住の郷土史家で、この想像図は、村上氏が検証し、同郷の岡部澄夫画伯が描いた日本画です。
 
【いろは丸事件始末記】(真物12月4日までのち複製 財団法人土佐山内家宝物資料館蔵)
この資料は、平成7年山内家から、高知県が購入したもので、「備後鞆津ニ於テ才谷梅太郎紀州高柳楠之助等ト応接筆記」=いろは丸事件始末記と言われ、交渉経過を克明に記録した土佐藩の文書ではないかと見られています。言葉は丁寧ながら、厳しい追求の気持ちが行間にあふれ、相手に切り込みをかけようという海援隊士を、龍馬が制した事にも触れています。
 
万国公法
【万国公法(慶応2年版)】
のちの国際法。ヘンリーホイートンの著書をアメリカ人宣教師ウイリアム・マーチンが漢文に翻訳し出版されました。慶応2年頃日本に入り、返り点などを付け加え読みやすくしたものが、数年に渡って出回りました。龍馬は、慶応3(1867)年4月紀州船との衝突で沈没した「いろは丸事件」の賠償交渉でこれを役立てた記録があり、周囲から日本の「海路定則」を決めたと評価されています。
 
【長井長義日記・写真】(真物 徳島大学蔵)
長井長義(1845〜1929)は阿波藩(徳島県)の出身で、日本薬学の祖といわれる人物です。慶応2年、22歳の頃、藩命により科学を学ぶため長崎へ留学しました。当時写真には多種の薬品を使用するため、写真師・上野彦馬宅に寄寓します。土佐藩士の井上俊三も彦馬に弟子入りしており、長井とは兄弟弟子となります。井上は龍馬の有名な立ち姿の写真を撮った人物で、土佐藩の情報員も兼ねていたと考えられます。長井は、井上から様々な情報を教えてもらい、日記に書き残しています。その中から、慶応3年5月7日(海援隊について)と、慶応3年5月22日(いろは丸事件について)の日記を展示しています。
 
【西洋軍艦構造分解図説】(真物 海の科学館所蔵)
慶応3年に龍馬が所有していた軍艦の分解図。大洲藩の武田成章に譲った事が箱に書かれています。龍馬と武田の接点は確認できませんが、龍馬は「いろは丸」を大洲藩から借りており、その船を沈めてしまいました。その交渉の過程で渡したのかもしれません。また慶応2年には、海援隊士の菅野覚兵衛らを大洲藩に派遣し、航海術の指導を行っていました。これ以降交流が生まれ、渡したとも考えられます。
 
【輿地航路図(よちこうかいず・世界地図)】(真物 海の科学館所蔵)
イギリス人イヨンピュルヂーによってつくられた世界地図(航海図)をもとに、弘化2(1845)年に作られ、安政5(1858)年に改正されたものです。各地が発見された年月日や、航路を通った人やその年月日なども詳細に記されています。日本は「日本諸嶋」として地図右側に描かれ、「四国」「大坂巷」などの記録が見られます。この航海図は、龍馬が24歳の時に作られています。航海術の修行の時には、龍馬たちも見ていたのではないでしょうか。
 
脱藩後最初の手紙・乙女宛
【脱藩後最初の手紙・乙女宛】(複製 京都国立博物館蔵・国の重要文化財指定)
文久3年3月20日、姉乙女宛の龍馬の手紙です。龍馬は文久2(1862)年3月24日、澤村惣之丞とともに土佐を脱藩しました。その後初めて自分の消息を知らせたものです。通称「きんたまの手紙」といわれ、「勝海舟の弟子となり、毎日毎日前々から思っていた海軍の事に精一杯励んでいるので四十歳までは、土佐に帰らず頑張る。兄の権平も賛成してくれた」と希望が叶えられた喜びをあらわにした内容となっています。
 
海援隊長就任直後・乙女宛
【海援隊長就任直後・乙女宛】(真物 中村綱子氏寄託)
慶応3年4月7日、姉乙女宛の龍馬の手紙です。慶応3年4月から龍馬は脱藩罪を許され、土佐藩の海援隊長に就任しました。その嬉しさから、前に攻め込まれ大ケガをした寺田屋に泊まり、今度こそは「俺は土佐藩のものだ」と見返してやりたいといっています。
 
長岡謙吉宛
【長岡謙吉宛】(複製 京都国立博物館蔵)
慶応3年8月5日、長岡謙吉宛の龍馬の手紙です。京都にいる海援隊の書記・長岡謙吉に、はからずも土佐の須崎まで来てしまい、長崎へ帰ってから京都へ向かうので、遅くなると連絡したものです。慶応3年7月6日、長崎で、イギリス人水夫が殺されたイカルス号事件の嫌疑が海援隊と土佐藩にかかり、否定する土佐藩に対し、イギリス公使パークスは、土佐藩にまで乗り込んでの交渉となりました。土佐藩大監察・佐々木高行も、土佐に向かうため、慶応3年8月1日神戸で薩摩藩の船三邦丸に乗って出港を待っていました。そこへ龍馬が、福井の松平春嶽から山内容堂宛の手紙を託されて駆けつけ、船に上がって佐々木と話しているうちに出港してしまい、しかたなく須崎まで同行したが、立場を考え船からは出ずじまいだったようで、土佐藩船・夕顔丸に乗り移り長崎に向かいます。差出人は、楳拝(龍馬の変名)となっています。
 
寺田屋伊助宛
【寺田屋伊助宛】(複製 京都府立総合資料館蔵・京都府京都文化博物館管理)
慶応3年5月中旬、寺田屋伊助宛の龍馬の手紙です。海援隊長就任といろは丸事件を報告しています。一般的には海援隊は、海軍や商社というイメージで捉えられる事が多いのですが、この手紙の中で龍馬自身は「学問所」と表現している所が目を引きます。また、差出人の名前が3つ書かれているのも面白い点です。大浜濤次郎と才谷梅太郎は、坂本家の先祖が住んでいた才谷村(高知県南国市才谷)大浜屋敷に由来する変名です。取巻抜六は、前年1月の薩長同盟締結後に、寺田屋で伏見奉行所役人に襲われた時に、上手く取り巻きから抜け出した事を表した変名です。他にこの手紙には、プレゼントとして、望遠鏡と時計が添えられていました。
 
【溝渕広之丞宛】(真物12月4日までのち複製 財団法人土佐山内家宝物資料館蔵)
慶応2年11月、溝渕広之丞宛の龍馬の手紙です。土佐藩復帰のかぎとなる手紙で、ふと行き会いそうになった土佐藩海軍の幹部・武藤に気付いて、龍馬が身を隠したのをいぶかり、溝渕広之丞が問い正した事に答えたものです。この手紙を、溝渕が武藤にも見せ、武藤は龍馬に理解を示し、慶応3年1月土佐藩参政・後藤象二郎と龍馬との会談(清風亭会談)の機会をつくり、やがて大政奉還路線へ共同歩調をとるきっかけとなりました。これはその手紙の下書きで、龍馬の兄権平に気持ちを伝えるため送ったものです。
 
陸奥宗光宛
【陸奥宗光宛】(真物)
慶応3年11月13日、陸奥宗光宛の龍馬の手紙です。暗殺2日前のもので、現存する龍馬の手紙では最後のもので、号に「自然堂」と自署した唯一のものです。しかしこの手紙には、「十三日」の日付しか書かれていないのに、何故慶応3年11月13日となるのでしょう。1つは、号にしている「自然堂」から推測されます。下関の伊藤助太夫の別邸を「自然堂」と命名して住むようになったのが、慶応3年1月頃からという事から、年号は「慶応3年」。11月は、龍馬と陸奥がともに京都・大坂にいたのは10月と11月だけで、10月13日は大政奉還発表当日で忙しく、「11月」になるのではないかということです。またもう1つは、龍馬が慶応3年11月7日の陸奥宛の手紙で、刀の交換を催促し、その刀を使いのものが持ってきたので、この13日の手紙は、催促した刀が届いたという礼状となっているからです。内容は暗殺2日前で差し迫った時期にしてはのんびりとした印象ですが、それは結果論で、刀に関心が高い龍馬らしい内容になっています。
 
   
       
   

Copyright (C) 2005 The Sakamoto Ryoma Memorial Museum.