「開拓農家の姿に」
農閑期の1月末、直行は久しぶりで北大山岳部の岳友たちとペテガリ岳の、厳冬登頂に挑戦した。
一方、厳冬の原野に1人残されたツルは、夫の留守中、出産間じかの腹を抱えながら、牛、馬の世話で雪の中を駈けずり回っていた。その最中に産気づいた。ただ、頼んであった産婆さんが駆けつけてくれ、無事出産することができた。1ヶ月以上の早産だったが母子ともに元気であった。
登頂は悪天候で果たせなかった直行は帰路途中で、男子誕生の報を聞いた。飛んで帰った直行は二人の笑顔に救われた。
長男、登(筆者)の馬小屋での誕生である。
登はどんどん成長した。ビール瓶に付けた乳首でミルクをぐいぐい飲んだ。食欲は旺盛だった。ツルは、登を背負い農作業に当たった。出来ぬ時は家の柱に帯で繋いで仕事に出掛けた。登は板の間の継ぎ目に溜まったゴミを食べ、炉辺の炭を食べたり、くたびれて寝ていることもたびたびだったらしい。だが、登は元気に育った。
忙しい開墾の傍ら秋には掘っ立て小屋であったが、家畜舎とは別に壁付の小屋を建てた。これで、家の中での除雪作業はなくなった。
年が明け3月に次男 嵩が生まれ家族は4人となった。家畜のほうも子馬と子牛が生まれ、鶏も増え少しづつではあるが、開拓農家の姿になってきた。
直行は畑仕事に、そして前年から収入のために始めた炭焼きに精を出した。秋には鶏小屋も建て、牛小屋は広げた。その年の暮れから翌年にかけて十勝地方は大雪に見舞われた。家畜の飼料の確保も出来ず大雪の中に孤立した状態が続いた。直行は大雪と格闘しながら飼料や薪、水の運搬をしなければならなかった。特に、家畜の飲む水の量は多く、大変であった。いまさらながら、自然の脅威の強大さを知らされた。しかし、晴れ上がった日高の山々を眺めると、自然に抱かれている自分を感じるのであった。
「訪ね来る岳友、そして遭難」
下野塚原野にも春は確実にやって来た。過酷な農作業が続いていた。炭焼きも大変だった。そんな中でも直行はランプの下で本を読み、時には1人で山に出掛けることもあった。出掛けるときには必ずスケッチブックを携帯した。
シーズンになると、札幌の岳友、北大山岳部の学生たちが日高の山登りの帰りには必ず下野塚原野の直行宅を訪れた。疲れを癒し、先輩の話を聞き、山の話を語り、満足して帰って行った。直行は自分は忙しくて山に行けないこともあり、彼らの山の話を楽しみにしていた。
一方、ツルにとっては大変であった。客人の食事、寝床の支度、目の回る忙しさであった。多いときには7、8人、少なくても3人。農作業に疲れた体に鞭打っての接待である。ある時など、食べるものが底をつき、隣から借りてくることもあった。
それでも頑張れたのは、若い学生たちと話していると、何か都会の匂いを感じてちょっぴり楽しみを感じる自分がいたからだろう。つらくとも嫌な顔ひとつ見せもせず、1人で耐えた。
昭和15年正月明け早々のことであった。北大の仲間がペテガリ岳で遭難したとの電報が入った。第2次隊10人編成のパーティで、全員雪崩に遭遇し8人が死亡するという惨事であった。直行は、1次隊で厳冬のペテガリを果たせなかったこともあり、この遭難が大変残念で、ショックだった。
帯広に飛んで行くと、生き残った2人には会うことが出来た。しかし、8人は雪の中から掘り出された。中には、幼少のころ一緒に遊んだ後輩がいたこともあり、直行はしばらく仕事も手につかなかった。
「開拓地の試練」
下野塚原野に入植してから2、3年おきに冷害が続いていた。特に昭和16年の冷害は大凶作となり、家畜も人も食うものがなくなり、芋と大根で越年した。それもなくなると糠を団子にして食べた。栄養失調で作業もままならぬ状態だったが、耐えるしかすべはなかった。
この大凶作で離農する農家が増えた。
子供は4人になっていた。三男の正博は湯河原の親戚に養子に、四男宏は1であった。
直行は1日15時間以上も働いた。そんな労働の後でも、夕食後やっぱりスケッチの整理をするか本を読んでいた。ランプも点けず、薪ストーブの焚口の灯りでよく本を読んでいた姿が記憶にある。
直行はまた馬車でよく豊似市街に出掛けた。揺れる馬車の上の1時間が読書とスケッチの時間でもあった。馬は主人を乗せて黙って歩いた。豊似へ行くには、日高山脈に向かって進む。刻々と変わる日高の山々を見るのが楽しみだった。
冷害が続き作物の出来も悪く、働いても働いても生活はよくならなかった。収入はほんの少しの炭焼きに頼るしかなかった。それで乗り切るしかなかった。
「新居建築と終戦」
なかだん(中段)の小屋も五人目の子供(勲)が生まれて手狭になった。来客が来ても寝るところもない有様であった。冷害続きで蓄えもない中で、いかにして家を建てるか苦慮していた。しかし、どう考えても金の算段は難しかった。これまで、いかに苦しくても、父だけには無心しなかったが、男35歳を過ぎ仕方なく父、弥太郎に資金を頼んだ。父は黙って出してくれた。このことはツルには黙っていた。
ある日、直行はツルに向かって「家を建てるぞ」と言った。ツルはびっくりし家にお金がないことを告げると直行は「親父が出してくれた」。一言ポツリ言った。
それからが大変であった。子供部屋はどこ、炊事場は、寝室は、山男たちが大勢来ても寝られるようにと設計に余念がなかった。建てる場所は、正面に好きな楽古岳が見える、うわだん(上段)にした。井戸を掘り、手押しポンプも取り付けた。もう、水汲みをしなくてもよくなった。2本の煙突のある大きな家が出来上がった。
ツルは6人目、女の子、直美を出産した。
父、弥太郎と義母、種子が初めて下野塚原野を訪れ新居の完成を祝ってくれた。ツルは父親との確執がなくなったのを感じた。昭和19年(1944)夏のことであった。
昭和20年夏も過ぎたある日、見たこともない飛行機(グラマン)が飛来し、遠くの方で急降下爆撃を行っているのが見えた。何も知らぬ長男の登は、薪小屋の屋根に上り飛行機に向かって手を振っていた。はるか上空をB29の編隊が飛んで行くのが見えた。
まもなく、終戦を迎え新しい時代が始まった。
この年の12月に7人目の子を直行がとり上げた。女の子であった。美雪の誕生である。
「農民運動の波の中で」
直行は10年あまりの開拓生活で、いかに開拓地の農民が苦しんでいるか、農業政策が貧困であるか身を持って経験してきた。そんな中、坂本直行を初代委員長とする、農民の自立と民主化を目指した農村建設同盟が誕生した。
運動が忙しくなると、家に帰れない日が続いた。その分ツルが畑仕事、家畜の世話、乳搾り・・全てしなければならなかった。
直行のしている運動は、確かに農民の民主化を目指した運動と理解していた。しかし、登は“まずツルを民主化してもらいたい”そう思った。直行は農民同盟の委員長を昭和23年までやり、後任にバトンタッチしたが、その後委員として10年間かかわった。
この土地で自立するには生産性があがらなければ話にならない。中途半端な規模ではどうにもならない。畑作は気候の影響を受けすぎて、博打のような危険性に満ちている。労働力の不足は歴然としている。一家総出で、まさに馬車馬のごとく働いても働いても、残ったのは借金ばかり。
働きに見合う収入が得られるようになるには?直行は探す答えをどうしても見つけることが出来なかった。
「父の死と子供たちの成長」
昭和25年の年が明けてまもなく、大雪の日であった。脳溢血で倒れたため2年前から引き取って一緒に暮らしていた父、弥太郎が亡くなった。75歳の生涯だった。直行にすれば、せめて自分の家に迎えていたことが救いであった。この家も、弥太郎が出してくれた資金あって出来たものだ。それを思うと父の形見のように思えた。
弥太郎の遺骨は札幌に戻り、妻、直意の父、直寛の眠る丸山公園墓地に、直意とともに葬られた。
子供たちは小学校から中学校に進み、順調に成長していた。小学校、中学校までは5キロの距離があった。中学校に進むと、自転車を買ってもらい、自転車通学した。学校に行く時には、まず牛乳がいっぱい入った牛乳缶を自転車に括り付けた。豊似の集乳所間へ運び、帰りには空き缶を引き取ってくる。
子供たちも大事な労働力だった。学校が終わると、まっすぐ家に帰り農作業を手伝った。
中学生になると子供たちは、朝5時に起こされた。厩舎に行き家畜(馬、牛、羊、豚)に飼料をやり、糞を堆肥場まで運び出し、搾乳をし、しただん(下段)に搾った牛乳を冷やしに行く、これが、学校に行く前の日課であった。特に搾乳は手搾りなので、2頭の搾乳をすると手はぱんぱんに腫れ上がった。
朝食を済ませて牛乳缶を自転車に括り付け学校へ向かうのである。中学を卒業し長男の私と次男は広尾線の大樹町にある道立の農業高校へ入学した。下野塚の家からは片道18キロ以上あった。雪が降るまでは自転車通学だった。学校が終わると、急いで帰った。帰ると、日暮れまで農作業が待っていた。
冬は列車通学になった。列車が豊似駅に到着するのは夜の8時近かった。列車を降りて5キロの道のりを徒歩かスキーである。家に着くのは午後9時半を回っていた。
「子供たちの自立、将来への葛藤」
長男の登が高校を卒業する年が来た。
直行は登に自分の後を継がせ、乳牛を中心とした酪農を考えていた。実際、登を始め子供たちはよく働いた。皆で頑張れば立派な農場が出来る、そう信じていた。登は卒業後、農作業を黙々とこなしていた。ただ、母親、ツルには色々相談していた。サラリーマンは一家の主人一人が働き、家族を養っている。ところが、我が家では子供を含めて皆で働いても借金さえ返せない。その、生産性の低さを話した。登は機械が好きなので、その方面の仕事がしたいとの思いがあった。
ツルは登の言うことはもっともだと思った。ツルは三男、正博を養子に出した親戚にそれとなく相談した。暮れが押し詰まったある日、親戚から登宛に手紙が届いた。進学希望であれば入学するまでの面倒はみるとの内容であった。登にやれる自信があるなら、お父さんに話してみるとツルは言った。
ツルから話を聞いた直行は、しばらく黙っていたが一言「登は当てにしない」と言って押し黙った。跡継ぎと信じていた。それが当然だと考えていた。自分に続かねばならぬと決めていた登が今、出て行くという。これまで必死に開拓に打ち込んできたものは一体なんだったのだろうか。直行は自問自答した。しかし、何も見えてこなかった。
直行は、かつて父、弥太郎の反対を押し切り、この地に来た時のことを思った。
年が明け昭和31年(1965)、登が原野を出てゆく日が来た。直行は登のために馬橇を仕立てた。登は柳行李を1個橇に乗せ、後の方に乗った。直行はたずなをとり橇の前に座った。家族と別れ馬橇は滑り出した。
晴れ上がった厳冬の下野塚原野を馬橇はキューキューと雪をきしませながら、5キロの雪道を駅に向かった。日高山脈の稜線が輝いていた。ふたりは一言もしゃべらなかった。駅に着くと、東京までの切符を買った。待合室ではだるまストーブを囲み数人の乗客が列車を待っていた。
やがて列車が雪煙を上げて到着した。改札が始まり、別れの時が来た。
直行はどこかさびしそうな顔で、しかし笑顔で一言「頑張れよ」。登も一言「はい」。それだけであった。
直行は登を送り出してからは、暇を見つけては少しずつ絵を描くようになった。時には、スケッチ旅行にも出かけた。(次回へ続く)
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