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坂本直行展タグ新緑の原野と日高山脈(水彩)
 
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館日記「海の見える窓」より 〜北の大地・坂本直行〜

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第1回 「北の大地・坂本直行」 2006年3月24日

 

急な出張だった。1泊2日。正味1日の札幌行き。短い時間で、大切な資料を的確にお借りするという目的が無事に果たせるのか。館長との打ち合わせにも、厳しさを感じていた。今の北海道は、サクラの開花宣言があった高知とは気候も違う。雨だろうか。雪だろうか。いつもよりも気持ちが引き締まっていた。
当日。雲の合間から覗く東北地方の雪景色を越えたら、海峡が見えた。早朝出発のふやけた感覚からいっぺんに目が覚めた。久しぶりの千歳周辺。機体が降下し始めると、目に入る白樺の木肌が温かく感じられた。北の大地にも、春が近づいている。
ここは、海から降りるといきなり山に突き当たりそうになる高知龍馬空港とは違う。北海道はどこに降りても、大地に帰ったという感覚がはっきりとある。アメリカやヨーロッパの空港に降り立つような、広々とした豊かさを感じる。機体が着陸するまでのときめきは旅人に近いものがある。
しかし、この大地を開拓し開発して行ったのは、旅人ではない。旅人のロマンなど一蹴する厳しい大地と向き合ったのは、文明の利器など持たない先住民や移民たちだったのだ。
龍馬はこの大地にどれだけあこがれていたことだろう。直寛は何を思い、女こどもの不安と期待はどんなだっただろう。熊本から来た弥太郎。信仰を持った人々と、信仰すら捨てて大地に立ち向かった直行。その家族。時代を遡る感慨が押し寄せてくる。
かつて見たニューヨーク・エリス島のイミグレーション記念館。説明もない日本人のポートレートとパスポートが語ることの多さ。カナダ最東端、プリンスエドワード島は赤毛のアンの島であり、カナダで最初の州であった。先住民と侵略者の闘いと融合。トロントで見た日系5世展。大陸内奥部ウィニペグまで進んだ日本人たちの思い。かつて旅先で見た、未知の土地での過去の人々を思う。
目の前に広がる北の大地。こもごもの思いに再会しながら、これは直行さんや龍馬に出会う旅だと感じていた。

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第2回 「北の大地・坂本直行」 2006年4月2日

 

坂本家の居間に、赤いベレー帽をかぶった直行(チョッコウ)さんがいる。長男・登氏が描いた小さなデッサン画である。その白髪交じりのヒゲを生やした晩年の直行は、欧米の人を思わせるほりの深い風貌をしている。それは芸術家の顔であり、刻まれたしわは長い開拓農民時代を物語っている。
同じ居間には、小品だが力強い冬の日高の油彩画がかけられている。奥さんのツルさんは「これはサインが入っていないので、まだ仕上がっていないのでしょうね」と言う。直行の絵を原野から発掘し、世に出した彫刻家・峰孝氏の小さな直行ブロンズ像(頭部)も、本棚の上から居間を眺めている。
アトリエの直行の写真の前には、いつも花とお茶がある。「私たちは宗教を持たないので、どうやって亡くなった人を祀ればいいのか分からないけれど、こうやってお花やお茶だけは欠かさないようにしています」「坂本家は熱心なクリスチャンで、直行も若い頃には教会に通っていました。でも、やることがたくさんあって、教会に行く時間がもったいなくなったようです」「開拓時代、生活に追われてお墓参りどころではなかったんですよ」「直行は新聞記者たちに龍馬のことを聞かれたら、この部屋に逃げ込んでいましたね」。澄んだツルさんの声が響く。
アトリエには、ツルさんが「この絵が私は好きなんですよ」という冬木立や、新緑の日高山脈の油彩画がかかっている。大作の秋の日高山脈もある。そして、若い日の直行が微笑むパネル写真と共に、龍馬や祖父・直寛、父・弥太郎らの写真が並ぶ。
ツルさんは、かつては六人の子どもたちや夫と共に過ごした大きな三角屋根の家で、89歳になろうとする今も一人暮らしをしている。一人暮らしを続けながらも、この家には子どもや孫、ひ孫たち家族の賑わいが、どこかしこに感じられる。
原野での厳しい開拓生活をした直行の傍らには、いつもこのツルさんがいた。協働者として、子どもたちを腕に抱く母として、妻として。厳しい労働を強いられる毎日の中で、ツルさんに授けられた天性の利発な精神とひるまない生命力が、直行を支えてきたことは容易に分かる。今なお、ツルさんからは生命の健康さが伝わってくるからだ。
ツルさんと共に、今も直行はこの家に生きている。

第3回 「北の大地・坂本直行」 2006年4月27日

 

坂本直行は岳人である。
小学校時代に釧路から札幌に引っ越して来て登ったのは手稲山。中学校時代に登った蝦夷富士で山に魅了される。山に魅せられた少年は、北海道大学山岳部創設期からの部員として、ますます山に親しんでいく。
卒業後も山岳部先輩後輩たちとの交流は日高の原野に続き、開拓農民として生きる人生を支える。そして、山の仲間たちが岳人直行を伝説の人にまで広げていく。
直行は入植した十勝の原野と、日高の山々を愛し続けた。登山時には山の風景に圧倒されて立ち尽くすこともあったらしい。農民運動、自然保護運動に没頭した時期も長い。いつも山や自然とともに生きた直行。そして、彼のかたわらにはいつもスケッチブックがあった。

直行の肩書きは様々だ。開拓農民、農民画家、山岳画家、画伯、随筆家、等々。そして、坂本龍馬の子孫。いずれも直行であり、いずれもそうでないのかもしれない。
直行の絵を見ていると、そこにある人間のまなざしが迫ってくる。まさしく人間である。人間に肩書きがいるのだろうか。
坂本直行は、まさに清冽に生きた一人の人間である。私はそう思う。

4月25日、北海道・中札内美術村「坂本直行記念館」がオープンした。北の大地美術館が、直行生誕100年の今年だけ直行記念館にリバイバルしたのだ。11月5日まで。
わが坂本龍馬記念館にも、直行さんのコーナーが出来た。いよいよ龍馬と直行さんが出会う。
やわらかな何層もの新緑が広がり、椎の木が匂っている。土佐の初夏が始まった。

中札内美術村 http://www.rokkatei.co.jp/facilities/index2.html

第4回 「北の大地・坂本直行」 2006年5月18日

 

先日、札幌にいる坂本ツルさんと電話で話をした。「今、庭のカタクリがとってもきれいなんですよ。サクラも終わりました」と言う声が明るい。今年89歳とは思えない実に涼やかな声だ。電話であってもこの声に出会うとその日一日の力が沸く。
カタクリは春を告げる可憐な花。高山や北国に良く似合う。直行もよく描いた花だ。

「忙しくて2週間程行って見なかったら、樹林地にはもう一面に若草が萌えて、明るい緑に蔽われていた。カタクリのピンクの花が一面に散らばって居たし、その間にエンレイ草やフクベラ(二輪草)の花が美しくちりばめられて居た。北斜面にはオオサクラ草の目を射るような濃いピンクの花の群れが有った。オオサクラ草の葉は、甘たるい良い香りがする。」(「開墾の記」)
「山の姿を描き終つた僕は、安心感と満足感で、今度はおちついて丘の上の若草に腰をおろして、煙草を吸いながら美しい山波と牧場をながめた。・・・・・場長宅の縁側からアポイが見える。これもなつかしい山だ。少し残雪があるのは、何か拾いものをしたような気持だった。僕は若草の露を踏んで牧場の道を歩いた。そして樹林の下に、なつかしいオオサクラ草とオオバナノエンレイ草を見た。そのほか、ニリン草、カタクリ、エゾリュウキンカもあった。なつかしいというのは、僕はこんな美しい野の花と、35年間もいっしょに暮らしたからである。」(「山の仲間と五十年」秀岳荘記念誌)

旅行者にとって美しくロマンティックな白樺林や柏林。しかしそこは、開墾者に痩せた土地と過酷な労働を強いる場所だった。冬は一層厳しいものだ。それだけに春は開墾者に喜びをもたらす。直行は春の喜びを隠さない。
「くる春もくる春も、いつも同じような環境の変化を伴ってくるのではあるが、私達は毎春新しい喜びを感じた。初めて眺める春のように思われた。」(「開墾の記」)

カタクリの花を喜ぶツルさんの声は、今も昔も同じように北の大地に響いていたに違いない。

第5回 「北の大地・坂本直行」 2006年6月10日

 

「反骨の農民画家 坂本直行展」のポスター、チラシ、チケットができた。ポスター、チラシの上半分には直行さんの描いた日高の山並み大きく刷り込まれている。今はさわやかな初夏の日高山脈だが、しばらくすると晩秋の紅葉した柏林の向こうにある日高山脈になる。これらのポスター、チラシは直行さんという人のことを、県下をはじめ日本各地に広めていくだろう。いろいろな街角で直行さんの絵が語り始める。

先日、高知県教育長の大崎博澄さんを訪ねた。私が敬愛する人生の先輩である。山畑を耕し、自然を愛するナチュラリストだ。そんな大崎さんを慕う人たちが素朴な草木を持ち込み、教育長室はさながらジャングルの趣になっている。
直行の話をしていたら、大崎さんは瞬間沈黙した。
「今の話を聞いて思い出したことがあります。昭和40年代に児童詩を集めた『サイロ』という詩誌があって、ボクはそれを北海道から送ってもらっていました。それに挿絵を描いていたのが確か坂本さんという人だったと思います」
「『サイロ』は六花亭が昭和35年から毎月出しているもので、その坂本さんが坂本直行なんです」
「六花亭?いやそんな名前じゃなかったですよ。私はそこの小田豊四郎社長に手紙を書いて、丁寧な手紙ももらいました」
「六花亭はその当時、帯広千秋庵といっていました。小田社長は会長になり、今は息子の豊さんが社長になっています」
「そうですか。それはなつかしい。秋が楽しみですね。きっと見に行きます」
生前の直行さんとつながっている人がこんな身近にいた。
大崎さん自身、児童詩誌「めだま」を長くガリ版出版していた詩人である。静かではあるが、この人もまた筋金入りの反骨だ。教育長室には今、直行のポスターが貼られている。

5日の北海道新聞では、当館の「坂本直行展」が紹介された。龍馬と直行によって、高知と北海道が身近になってきた。

北海道新聞 http://www.hokkaido-np.co.jp/

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第6回 「北の大地・坂本直行」 2006年8月7日

 

北の大地にスズランの花が香る6月中旬。私は“原野”に立った。直行が開拓農民として過ごした土地、北海道広尾郡広尾町下野塚。
広大な大地に横たわる荒涼とした土地。そんなイメージは新緑に呑み込まれた。
そこかしこからコロボックルが現れそうな大きな秋田ブキや巨大ゼンマイとも思える北海道ならではの植物群。さながら高山植物を思わせる野の花々。かつて子どもたちの声が響き、開墾の鍬の音がこだましただろう原野は、今はさ緑の植物群に覆われて「夢のあと」の静けさの中にあった。
坂本一家が暮らした原野は、意外に海(太平洋)に近かった。ここから車で40分も行けば襟裳岬。私は、ずっと前、森進一が歌っていた「襟裳岬」でしか知らない場所だが、歌謡曲からでも最果てを思わせる場所だ。
「一週間ぶりの太陽を見ましたよ」と言うのは、広尾町教育委員会の杉本課長と辻田係長。一緒に参加してくださった直行研究家の上田さんの表情も明るい。
さわやかな大地に太陽は眩しかったが、周辺にあるだろう日高の山々はガス(霧)に覆われていた。大きく周辺をガスで覆われて、目の前の新緑は反ってくっきりとして見える。20代半ばの直行が、北大山岳部先輩の野崎さんに誘われて入植した野崎牧場(現・今井牧場)も、遠くの風景をガスで隠していた。
原野の風景を撮ることが目的であっただけに残念な天候だったが、海から押し寄せるガスが、この痩せた大地に植えられた農作物を容赦なく襲った状況を私に教えた。坂本家の喜びが悲嘆に変わる自然を思った。
辻田さんの案内で行った、直行の愛した楽古岳も私たちに容易に姿を見せようとはしなかった。
そんな原野での坂本家を昭和34(1959)年の暮れに訪ねた一人の人がいた。帯広千秋庵、現・六花亭製菓(株)創業者で名誉会長の小田豊四郎さん。豊似駅から5キロの雪道を歩いて訪ねた小田さんを直行は温かく迎えた。昭和35年1月から始まった十勝管内の子どもたちにおくる児童詩誌「サイロ」誕生の時である。
小田さんと直行の出会いは、多くの子どもたちの未来につながった。つい先日、小田さんは直行と同じ所に逝った。一人の歴史が、大きな歴史の中に入っていった感慨がある。心よりご冥福をお祈りいたします。

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第7回 「北の大地・坂本直行」 2006年8月17日

 

JR札幌駅近くに北海道大学がある。北国の透明な空をバックにした構内は広々として、実に気持がよい。正門を入ってまっすぐ西に向かうと、有名なクラーク博士の胸像が構内を見渡している。北大の前身は札幌農学校であったことを思い出させる。その向こうには、農学部の校舎が広がっている。直行はこの農学部で学んだ。
札幌駅をはさんで南には札幌時計台や、少し行くと知事公館がある。広い敷地と建物である。当時の直行はこの公館に隣接する屋敷から北大に通った。裕福な資産家の息子である直行は、昭和2年(1927)に大学を卒業し、十勝の原野で開拓農民となった。

大学構内には、重要文化財北大農学部第2農場(モデルバーン)が保存されている。中札内美術村にある坂本直行記念館(通常・北の大地美術館)の手本になった建物だ。
モデルバーンへ続く道にはエルム(にれ)の並木がまっすぐに伸びている。その途中に北大総合博物館がある。
今この3階展示室で『北大の山小屋』展が開催されている。北大山岳部OBや学生たち手作りだという企画展からは北大山岳部の歴史が見えてくる。「山は厳父 小屋は慈母」というキャッチフレーズに、北大・山男たちの熱い思いが伝わってくる。
北大スキー部から分かれて山岳部が創設される時期に、直行は真っ先に参加した。中でも初期の「ヘルヴェチア・ヒュッテ」建設には直行も尽力した。小学校時代の手稲山登山以来、山に魅せられていた直行は、北大山岳部で本格的な岳人となっていく。
北大山岳部の先輩後輩たちが、原野の直行を訪ね、直行は貧しさの中でも彼らを最大限にもてなした。画家になった直行の個展を支えたのは、こうした先輩後輩たちだった。
「チョッコウさんのためなら…」と、坂本直行展への北大山岳部出身者のエールは大きい。直行はいまだ伝説の岳人として、北大に生き続けている。

北海道大学総合博物館 http://www.museum.hokudai.ac.jp/

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第8回 「北の大地・坂本直行」 2006年8月24日

 

21日から高知新聞で、『北の大地に生きて 農民画家・坂元直行』という連載が始まった。田村文記者による8回シリーズ。楽しみである。6月の取材では私も一緒だったが、私たちの原野取材の様子は北海道新聞でも紹介された。
7月には、十勝毎日新聞でもゆかりの人たちが語る直行さんが5回シリーズで連載された。『あの日のチョッコウさん 山岳画家坂本直行生誕100年』。「関係者も高齢になってきているので、今聞いておくことが大切だと思った」という安田義教記者の言葉に私も頷く。

直行は15,6歳の少年時代から絵を描いている。それは自分の登った山を描いたペン画で、荒削りな線が年代とともに細やかで表情豊かになってきている。草花のスケッチもしている。サクラ草をテーマに研究した卒論は、やたら花のスケッチが多いものだったともいう。
学生の延長で原野に飛び込み、農民となった直行はスケッチブックを離さなかった。馬車で牛乳を運搬している時など、道は馬に任せて絵を描いている。きつい農作業を終えて帰る途中には花を手折り、夕食までのひと時、窓辺で花をスケッチする姿を子どもたちはなつかしく語る。
農民時代には食べるものも着るものもなく、子どもたちは栄養失調特有の細い手足をしている。北大の仲間に鳥肉を送った時、包み紙は直行が描いた絵のあるキャンバス布だった。直行の絵よりも新聞紙が貴重な時代があった。
直行は貧乏のどん底であっても、絵を忘れなかった。少年時代からスケッチや写真を通して風景や草花を観察してきた。それが画家としての素質と目を養ってきたことは間違いない。

高知新聞 http://www.kochinews.co.jp/   十勝毎日新聞 http://www.tokachi.co.jp/

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第9回 「北の大地・坂本直行」 2006年9月5日

 

9月になった。
開館までにはずいぶん早い時間だが、入り口に貼ったばかりの秋バージョンの直行展ポスターを熱心に見ている人がいた。その後ろ姿に思わず「おはようございます」と声がけしたことから、会話が弾んだ。
その方は私に熱く語ってくれた。
「私は昭和2年生まれで、17歳で兵隊として鹿児島に行ったがよね。そこには北海道から来た人もおった。鹿児島には珍しく雪の降った日、震えている自分を見て北海道の人は『こんなのは寒さじゃない』と言うて笑いよった。私は前線に出ちゃあせんけんど、戦争はつくづく嫌やと思う。福島に行った時には、『土佐から来たのか。帰れ。土佐人は嫌いだ』と言われた。何であんなに言われないかんか分からん。龍馬が生きちょったら、そんなことを言われんでもよかったと思う。龍馬が生きちょったら戦争なんか起こらんかったかもしれんと思う」。
「龍馬の子孫が北海道におったがかね。知らんかった。帯広から太平洋に向かったところにある広尾町かね。だいたいの場所は分かるよ。そこにこの直行という人はおったがかね。いい絵やねぇ」。いかにもいごっそう然とした風格で口調は強いが、澄んだ目をした人だった。
こんな言葉を思い出した。「直行さんは古武士のようで、眼光が鋭かった」。6月の取材中、豊似の市街地で隣家にいた後藤隆さんが語ってくれた。後藤さんは直行の長男・登さんの同級生で、隣家の坂本家によく遊びに行っていたらしい。昭和30年代半ばには珍しい洋式トイレのあるモダンな家だったという。豊似は、直行が原野を出て移住した所。
直行は農民運動、自然保護運動にも没頭した。戦時中には戦争を憎んだ。直行に龍馬のまなざしを感じる。
もうすぐ龍馬の子孫、直行が帰ってくる。そんなことを実感する朝だった。

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第10回 「北の大地・坂本直行」 2006年9月17日

 

このホームページでも直行展のコーナーができた。
コーナーのトップにある「新緑の原野と日高山脈」が何ともさわやかに広がる。春先からのポスターやチラシに使っている絵だ。
初夏の原野は緑に包まれ、直行の愛した日高山脈の楽古岳が、真ん中でとんがり帽子のようにツンと突き立っている。
秋のポスター「初冬の日高山脈」もご覧いただきたいと思う。
雪を抱いた日高の山波(直行は“山並”とは書かず、“山波”と書いた)、どこまでも深いインディゴブルーの空、手前の柏林は見事なインディアンレッドに紅葉している。きっぱりと塗りこめられた白と群青色と赤褐色。見ている私は絵の中に引きずり込まれそうになる。

さて、太平洋を望む2階にある直行の小さなギャラリーも9月から秋の絵に変わっている。
初夏の絵と合わせ、この絵の持ち主は直行の甥にあたる弘松潔さんのもの。昨年の秋、私は弘松さんを訪ねた。初めて札幌の坂本家に行く前にこれらの絵を見せていただきたかったからだ。
弘松さんは伯父・直行のことを熱く語ってくれた。「これは私の座右の書です」と見せてくださった『原野から見た山』(坂本直行著、朋文堂、昭和32年刊)はボロボロになるくらい繰り返し読まれていた。弘松さんは直行のことを心底敬愛していた。そして、直行展開催のことを本当によろこんでくださっていた。
弘松さんは今年2月、あっという間に亡くなられた。「春になったら札幌に行くつもりです」とおっしゃっていたにもかかわらず。北海道からやって来る直行の絵を真っ先に見てもらいたい人だった。

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第11回 「北の大地・坂本直行」 2006年10月25日

 

北海道から直行さんの資料が届き始めた。協力者の皆様からの善意の数々である。
第一便で届いたのは、直行さんの絵葉書の額など30点余り。多くは花々や山岳の絵葉書で、美しくレイアウトされている。児童詩誌『サイロ』創刊号から100号までもある。初期の頃の『サイロ』は今や発行者の六花亭でも貴重なものになっているらしい。送り主の上田良吉さんはカルチャー教室で植物画を教えながら、直行さんの資料収集や展示をしている帯広在住の直行研究家。
第二便も楽しい。北大山岳部、秀岳荘、高澤光雄さんらから合同で届いた山の便り。荷物にはアイゼン、ピッケル、ザック、スキー板はじめ登山グッズの数々が入っている。『開墾の記』『ヌタック』(札幌第二中山の会)などの初版本や、「手にとってさ、みんなに見て読んでもらわないとさぁ」と高澤さん言うところの“閲覧用”直行さん書籍。今年、北海道大学総合博物館で同大山岳部OBらによる『北大の山小屋』展で展示されたパネルもある。
昭和30年(1955)『金井テント』創業者の金井五郎さんは、トラックのシートや日よけシートなどの製造販売を始めた。翌年、北大山岳部が日高山脈全山縦走を行った際に装備を担当し、昭和32年には直行さんによって『秀岳荘』と名づけられた。秀岳荘は北大山岳部とともにあり、今や北海道では有数の登山用具専門店である。昨年、創業50周年記念に出版された『山の仲間と50年』は北海道、いや日本の登山史の1ページになっているといってもいいだろう。
高澤さんは直行さんとも親しく、今は秀岳荘に本部を置く日本山岳会北海道支部・副支部長などしている。荷物の向こうに多くの笑顔が見える。山男たちのエールは力強い。
月末、いよいよ直行さんの絵画や資料を借り受けに北海道に出かける。初めて海を渡って直行さんが帰って来る。
北の大地が今とても熱い。

秀岳荘 http://www.shugakuso.com/

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第12回 「北の大地・坂本直行」 2006年11月18日

 

直行展が始まりました。
オープニングの15日には、地元浦戸小学校の児童をはじめ浦戸地区住民の皆様、待ちかねたようにお越しいただいた方たちで終日賑わいました。「すばらしい」「素直な絵ですね」「迫力がある」「見に来てよかった」等々の声をいただいたことで、開催の実感と喜びがわいてきました。
今回、遠く北海道各地から直行の絵をお借りしました。あれほど高知に来ることを拒み、龍馬を語らなかったという直行さん。そんな人の残した絵や身近なものたちが海を渡ってやってくる。搬出時には、感無量、万感の思いが込み上げてきました。
龍馬生誕の日の15日には、直行さんのご長男登さん、従弟の土居晴夫さんもお越しくださり、熱心にご覧いただきました。
「土佐和紙に大きく引き伸ばした写真の数々も大好評です。ハンサムな直行さんは開拓農民時代の貧しさの中にいるときが一番カッコいい。それは内面の充実が表れている時代だからでしょう。友人知人の撮った写真が多く残っていて、そこに開拓一家の様子が生き生きと映されています。
「農耕馬(ドサンコ)を囲んで集っている一家の底抜けに明るい表情を見ていると、私も50年前の我が家のことが思い出され、懐かしさで胸が一杯になり、集合時間が迫っても立ち去り難い思いでした」(横浜市・男性)。こんな手紙を寄せてくださった方もいます。
「坂本直行展」は始まったばかりですが、直行さんは当館にすっかり馴染んでいます。お借りした絵画や資料は12月、2月には入れ替えの予定です。販売している六花亭のお菓子やグッズも大好評。
一度だけでなく、何度でも直行さんに会いにお越しください。

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第13回 謹賀新年「北の大地・坂本直行」 2007年1月1日

 

見られないと思っていた初日の出を、記念館の屋上から見た。毎朝繰り返されている地球の儀式は、ただただ美しい。
記念館は開館16年目で初めて、元日にオープンした。7時半のオープンに合わせて、職員は早朝3時から三々五々出勤してきた。記念館のある桂浜周辺は初日の出の名所で、元日の朝は車が動かないと聞いていたからだ。渋滞はさほどではなかったが、朝早くから館の駐車場はいっぱいで、「曇」の天気予報は見事にはずれた。
茜色に染まり始めた大空の下方。水平線の上にある雲間から太陽は出てきた。海からのご来光が桂浜に突き出た館を染めていく。職員の顔も染まっていく。
来館された方には、六花亭のチョコレートがお年玉。200名様限定チョコは、数時間でなくなった。
玄関には直行の「羊蹄山」が凛と在る。千客万来。
新しい一年が始まった。あけましておめでとうございます。

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第14回 「北の大地・坂本直行」 2007年2月25日

 

直行展が始まって3ヶ月余り。すでに32,000人以上の方が直行さんに会いに来てくださった。そして、館内は今までにないほど土佐弁がこだましている。「チョッコウさんが…」「チョッコウさんは…」という来館者の声に、遠い北国で開拓農民や絵描きとして過ごした一人の男が、高知の人々にしっかりと受け入れられていることを実感している。
思えば1年前には、直行さんは関係者だけが知っているような人だった。私が直行展を開催したいと強く思った3年近く前には、本当に限られた人しか知らなかったし、直行さんのみならず龍馬に子孫がいるということすら余り話題に上らなかった。
龍馬のDNAを継承する人はたくさんいらっしゃる。また、親戚縁者も多い。龍馬を語る人、語らない人。それも様々。
直行さんは郷士坂本家の跡取り八代目。坂本家という看板や、祖父の叔父に維新の英雄・龍馬がいたことは大きな重荷だったのだろう。実業家として厳格だった父への反発や山への強烈なあこがれが直行さんの半生を支えている。自分自身の生き方を貫いた姿勢は龍馬に負けない。

直行展は佳境に入った。今月半ばに最後の入れ替えを終え、返却作業の段取りが頭に浮かぶ頃となった。これまでは開催や作品展示、来館者の受け入れ、各種の催しや販売のことetc。慣れない作業に慌しく毎日が流れていった。
今ようやく、ひととき直行さんに向き合う余裕が出来た。直行さんの著書も再度読み返している。直行さんの言葉、風景、気持ちが風のように心に入ってくる。展示している絵画や写真、お宿帳(原野と市街地での30年間に約600人が直行宅を訪れ、泊まり、交誼を重ねている。その記録)、等々。それぞれの光景が生き生きと迫ってくる。分からなかったこともパズルのようにカチッとはまってきた。
秋の農作業、冬支度に追われて、我が家の薪すら用意できずに、北風にさらされながら薪割をする直行さん。私もそんなふうに直行展の千秋楽を迎えるのかもしれない。それでも季節は巡る。
春到来。春はいつも直行さんに新鮮な感動をもたらした。記念館はまもなく、直行さんとともに開館以来200万人目のお客様を迎えることになる。感動とともに春が広がる。

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第15回 「北の大地・坂本直行」 2007年3月22日

 

先日私は、いの町の歴史愛好家たちがつくる「いの史談会」に呼ばれて直行さんの話をしてきた。30名近くの参加者の中には、会員ではないが直行さんに興味があって参加したという人もいて、2時間があっという間に過ぎた。熱心な質問も多かった。
会のメンバーは歴史を通じて自分を高めようという人ばかりである。そして、人生の先輩方である。私自身も皆さんに質問を投げかけてみた。
直行に「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」(坂本家所蔵)という絵がある。ツルさんが一番古いという、板に描かれた4号の小さな油彩だ。遠くの雪山や原野を包む大気が赤らんでいる。
私はこの絵の名前に興味を引かれていた。カムイ〜はアイヌ語で神様のいる何とかという山の名前だろう。モルゲンロートは山を知っている人なら分かるのだろうが、手許の広辞苑とカタカナ語辞典にはないなぁ。と、曖昧なまま放っておいた疑問を問うてみたのだ。
小気味よいくらいの即答が返ってきた。
カムイエクウチカウシ山はアイヌ語で「ヒグマが転げ落ちるほど急な山」、モルゲンロートはドイツ語で「朝やけ」のことだという。いの町立図書館に勤める森沢さんに教えていただいた。森沢さんは十数回も北海道の山に登っているらしく、本のコピーも送ってくださった。私も斜め読みしていた「北海道の百名山」(道新スポーツ刊)を読み返してみた。
カムイエクウチカウシ、通称カムエクは日高第二の高峰。昭和初期から北大山岳部が登頂している。昭和7年には直行も冬季初登を果たしている。ツルさんが開拓時代の一番古い絵だといい、野崎さん(野崎牧場)の所にいた頃のものだというのも頷けた。
森沢さんをはじめご自身の登山や旅行、趣味、人生の体験を直行さんに重ね合わせている方は、まなざしや思いが深い。直行さんを通じて多くの対話が生まれていることだろう。
直行展の会期は残り10日。「カムイエクウチカウシ連山のモルゲンロート」は梱包され、札幌に帰る準備に入った。菜の花畑が広がる春爛漫の高知から、朝やけに染まる白い大地に直行さんが帰っていく日も近い。

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第16回 「北の大地・坂本直行」 2007年4月5日

 

反骨の農民画家「坂本直行」展が終わった。感無量である。
正直、4ヶ月半(141日)という会期は長かった。調査・準備期間を入れると優に1年半になる。旅行会社のチラシで飛び込んだ「韓国直行便」という文字に、「あれっ、直行さんは韓国に行ったことがあるのだろうか?」と思ってしまうほど、気持ちはいつもチョッコウさんに向いていた。いや、いつもと言うと語弊があるかもしれない。行き詰って、直行さんから逃げたい時もあったから…。
と言っても、絵画や資料をお借りするために北海道入りした昨年10月末。最初の坂本家で直行さんの絵が運び出された時の感慨は忘れがたい。いよいよ直行さんが海を越えて里帰りをする。初めて高知に行く直行さんをツル夫人はどんな思いで見ているのだろう。ここに来るまでの道のりは長かった。そんなことを考えていると、ガランとしたアトリエから直行さんの声が聞こえた気もした。様々な思いが交錯し、高揚する気持ちで絵画を送り出した日のことをはっきり覚えている。
札幌から帯広を巡った美専車が、北海道での最後の場所、広尾町の海洋博物館を出発した時も同じだった。太平洋を背にした車は一路高知を目指す。いよいよ海峡を渡って直行さんが高知に里帰りする。感無量であった。

会期中ご来館くださった多くの顔が浮かんでくる。会場にあふれた直行さんや直行一家の顔。直行さんの何人かの息子さん方も来てくださった。家族も知らない直行さんの顔もあったようだ。
北大関係者、六花亭、秀岳荘、直行さんの後輩達。“歩歩(ぽっぽ)の会”のメンバー。直行さんのファン、企画展を機にファンになった方達。多くの高知の人たち。会場で説明・解説しながら、教えられることも多かった。

週1,2度、入口に花を飾ってくださった郷田さんの最終作品のテーマは「三相」(=過去・現在・未来)。中心になる苔むした梅の木は“龍馬”(=才谷梅太郎)。古木に寄り添う野草、吾妻鐙(アズマアブミ=東国武士の馬具)は直行さん。「日本百名山」の深田久弥をして「古武士のような」と表された直行さんのイメージに合う。二人は過去から私たちを呼び止める。つぼみから咲いていったサクラの一枝は現在。古木の下方にはこれから白い花を咲かすだろうユキノシタが未来を指している。
今は未来であり、過去となる。記念館での直行展は終了したが、別の物語として未来に続いて行くだろう。訪れた4万7千人余りの方たち、訪れることはなくても直行さんを知った方たちが、これからも直行さんを語り続けてくれることを信じている。龍馬と同じように。
多くの皆様に言葉にならないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

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館だより「飛騰」より 〜日高のいごっそう 坂本直行伝〜  

 

第1回  第2回  第3回               坂本 登(坂本直行・長男)著

  第1回 「3つの出会い」 飛騰57号掲載
   
 

まず「山」との出会い(誕生と少年期)

父、直行は明治39年(1906)7月26日、材木業を営む弥太郎の次男として釧路に生まれた。大正3年(1915)小学2年、札幌に移住した。そこで、釧路にはなかった自然と出会う。山である。札幌近郊の山々、特に手稲山の圧倒されるスケールに立ち尽くした。登りたいと思った。その願望は小学3年の登山遠足であっさり実現した。
その時受けた印象が、後々、山と係わり合う原点となった。
中学校は現在の西高校へ進んだ。スケッチは中学校で始めた。最初のころスケッチの対象は草花だった。それが、登山を始めるとともに対象は「山」そのものへと変化していった。
蝦夷富士登山で、ご来光を仰ぎ、眼下に広がる雲海を見たとき、自然の壮大さと、荘厳さに打たれた。いっぺんで「山」の虜になっていた。中学時代など、勉強はろくにしないで、日曜ともなれば近くの山に登っていた。
とにかく、自然の草花が好きであった。高じて草花の栽培に興味を持ちはじめていた。このころ、将来は園芸を目指そうと漠然と考えるようになっていた。

次に「新天地」との出会い

直行の父は、息子が役人になることを望んでいたが、直行はその道を選ばず、大正13年(1924)4月、北海道大学農学部実科に入学した。園芸を勉強するためであった。
登山は相変わらず続けていた。そんな中、北大山岳部が創設されるやすぐさま席を置いた。そして北海道の山々を、仲間と片っ端から走破した。
昭和2年(1927)3月、北海道大学農学部を卒業した。目標通り温室園芸を目指して、東京の園芸会社に就職、2年の園芸修行を終えて札幌に戻った。父との約束で、温室経営の資金を出してもらうことになっていたが、それが都合で出来なくなり計画は頓挫した。直行は浪人となった。
夏が過ぎ、初冬のある日、北大の同級生、野崎健之助から1通の手紙が届いた。十勝の広尾で牧場を始めたのでという誘いの内容であった。父の猛反対にあった。許しは得られなかった。しかし、直行はまだ見ぬ友人の牧場、新天地へと旅立った。昭和5年(1930)秋たけなわのことである。
当時、札幌から帯広までは汽車で10時間かかった。長旅である。帯広駅に降り立った直行は、まだ見ぬ野崎牧場を頭にめぐらせながら、牧場に向けて第一歩を踏み出した。まさかその1歩が、35年の永きにわたる1歩になるとは直行自身、知る由もなかった。
帯広では南西に遥かに見えていた日高山脈が、牧場に近づくにつれ、その姿を鮮明に現しはじめた。やがて牧場へと左折、徐々に上り進む。全貌が見えた。振り返れば、日高山脈の大パノラマである。眼下に広がる柏林の褐色の海。青空にくっきり浮かんだ稜線の美しさ。(柏は秋から冬の時期は枯れ葉が落ちない)
直行は一瞬息を呑んだ。自然はなんとすばらしいものか。札幌で悶々としていた自分がなんとちっぽけなものであったか。自然の前では、人間はひとたまりもないと思った。

そして「伴侶」との出会い

野崎牧場では、自分が学んできたこと修行してきたことを、はるかに超えた仕事が多岐にわたっていた。家畜の世話、搾乳、放牧、堆肥作り、耕作、開墾、ハム、ソーセージ、バターなども作った。これらの仕事を牧夫2人、主人と直行でこなした。牧場の裏山に登るとそこは、日高山脈を一望できる絶景の場所であった。直行はそこが好きでよく出掛けスケッチをした。
牧場に来て1年が過ぎた。すべての仕事をこなせるようになった。仕事に対する自信と手ごたえを感じていた。
そんなある日、仕事から帰ると1人の少女が働いていた。
「石アツル」と名乗った。後の直行夫人である。
ツルは17歳であった。牧場主の奥さんの出産の手伝いのために来た。よく働く少女であった。気に入られお産が終わっても、そのまま引き止められていた。そして5年が過ぎて直行とツルは結婚することになった。
ツルは直行の知り合いの牧場で、農業家庭の勉強をすることになり、帯広の三沢牧場に行くことになった。勉強はそれで終わらず、一通り済ますとさらに、別の牧場へと修行は続いた。
いくつかの障害を乗り越え、豊似川の下流、下野塚に入植地25町歩の土地を830円で購入した。政府から25年年賦の借金もした。それで、なんとか土地の手当ても出来た。
昭和10年(1935)の秋、住み慣れた野崎牧場を後にした。広尾村豊似市街に仮住まいを設けた。入植の準備である。毎日往復10キロの山道を通った。小屋掛けの準備は着々進められた。1月には小屋掛けも終わり念願の入植を果たすことが出来た。が、春までには自分たちの住居と厩舎を作らなければならなかった。3月に入り、雪の合間を縫って家を建てるのに必要な丸太の伐採、を行い、資材をそろえられた。
応援も得て、棟上された掘っ立て小屋は徐々に出来上がってきた。
完成した小屋は入り口を入ると左側は馬が2頭入り、右側は牛と羊の寝場所になっていて、人間のスペースは馬舎と牛舎の間で、出入り口は馬と一緒であった。
小屋の完成を待って直行は、1年半にわたる見習い奉公に出ていたツルを、迎えに帯広に行った。結婚式は帯広の会館で行われた。
父、弥太郎は欠席した。ただ、直行は一言ツルに言った。「父から許しは出ている」と。

「ツル」。私の母は大正6年(1917)9月21日、石狩の浜益村送毛の漁村で、石ア家の7人兄弟の次女として生まれる。小さい時から鰊場を手伝い、昭和2年15歳の時、養女として親元を離れ伯父のもとに引き取られる。帯広での都会生活が始まったと思ったのも束の間、伯父が多額の借金を残して他界した。伯母とツルは女中として働きに出た。ツルが親戚の家具屋で女中奉公していた際、店のお客だった野崎牧場の奥さんのお産があり、手伝いに行き、直行と出会うことになるのである。

原野開拓

開拓地での第一歩は開墾であった。一番大変なのはうっそうと茂る柏林の抜根。木を切り草を刈り土を耕し畑にするのであるが、柏の根は非常に硬く深く、抜根をするのに1日がかりもざらで、気の遠くなるような、過酷な労働が連日続いた。
特に大変なのは2頭立ての馬によるプラウでの作業である(2頭の馬に引かせて、土を耕す農具)。2頭の馬を1人の御者が操縦し、もう1人がプラウを操作する、人馬一体の作業である。御者が新米だったり馬が疲れてくると、草を食む、別々の方向に行こうとする、暴走する、寝てしまう、御者の云うことを聞かず勝手な行動をするようになり大変である。
一方、プラウを操作する人も大変だ。重量60キロ以上もあるプラウを、馬に引かせているとはいえ、耕す畑の角々で、プラウを90度の方向転換をしなければならない。また、耕す土の中に石や木の根が潜んでいると、2馬力の力でプラウが跳ね飛ばされることも珍しくない。時には、ハンドルで肋骨を折ることだってある。作業は危険だ。
1日この作業を続けると、人も馬も数10キロの距離を歩くことになる。御者がツル、プラウ操作を直行が担当する、過酷な作業が続いた。
開拓農家の嫁は、どこでも重要な働き手である。男と同じ畑仕事をし、家事もこなさなければならなかった。
やがて、数町歩の開墾ができ、種を蒔きまずまずの生育を見た。初年度としては滑り出しは悪くなかった。
樹林の中には、たくさんの恵みがあった。
開拓地には、うわだん(上段)、なかだん(中段)、しただん(下段)と地形が3段になっていた。2人はそう呼んでいた。
うわだんには、カシワ、ミズナラ、シラカバ等が多く自生しスズランが咲きワラビウドもよく採れた。開墾し畑を作ったのもうわだんである。
なかだん、しただんは自然の宝庫であった。しただんには小川が流れヤマメが泳ぎ、山菜と草花が自生していた。春になると、ネコヤナギが芽をふき黄色い花粉をつけ、フキノトウが芽を出しヤチブキが黄金色の花をつけ、見上げれば、真っ白な北コブシの花が青空に映えていた。
春の訪れである。待ちかねたように一斉に花が咲く。木々は緑を濃くし花粉を撒き散らす。虫たちの活動の季節だ。直行はこの季節を好んだ。
早起きし畑を見廻り、樹林地の草花を摘んできては結婚式でもらった大きな花瓶に生けた。
自然はたくさんの恵みをくれる反面、非常な厳しさを見せる。特に、開拓地の下野塚は東北海道の太平洋岸に位置し、6月から8月にかけて特有の冷たいガス(霧)が襲ってくる。ガスがくると気温が下がり、ひどい時には傘を差さないと濡れてしまうほどになる。ガスが続くと日照時間が少なくなり作物に悪影響を及ぼす。雨続きだと作物は全滅となった。
初年度から、自然の厳しさを知ることになった。
過酷な労働と厳しい自然が、新婚生活を容赦なく襲った。(次回へ続く)

 
  第2回 「自然に抱かれて」 飛騰58号掲載
   
  「開拓農家の姿に」

農閑期の1月末、直行は久しぶりで北大山岳部の岳友たちとペテガリ岳の、厳冬登頂に挑戦した。
一方、厳冬の原野に1人残されたツルは、夫の留守中、出産間じかの腹を抱えながら、牛、馬の世話で雪の中を駈けずり回っていた。その最中に産気づいた。ただ、頼んであった産婆さんが駆けつけてくれ、無事出産することができた。1ヶ月以上の早産だったが母子ともに元気であった。
登頂は悪天候で果たせなかった直行は帰路途中で、男子誕生の報を聞いた。飛んで帰った直行は二人の笑顔に救われた。
長男、登(筆者)の馬小屋での誕生である。
登はどんどん成長した。ビール瓶に付けた乳首でミルクをぐいぐい飲んだ。食欲は旺盛だった。ツルは、登を背負い農作業に当たった。出来ぬ時は家の柱に帯で繋いで仕事に出掛けた。登は板の間の継ぎ目に溜まったゴミを食べ、炉辺の炭を食べたり、くたびれて寝ていることもたびたびだったらしい。だが、登は元気に育った。
忙しい開墾の傍ら秋には掘っ立て小屋であったが、家畜舎とは別に壁付の小屋を建てた。これで、家の中での除雪作業はなくなった。
年が明け3月に次男 嵩が生まれ家族は4人となった。家畜のほうも子馬と子牛が生まれ、鶏も増え少しづつではあるが、開拓農家の姿になってきた。
直行は畑仕事に、そして前年から収入のために始めた炭焼きに精を出した。秋には鶏小屋も建て、牛小屋は広げた。その年の暮れから翌年にかけて十勝地方は大雪に見舞われた。家畜の飼料の確保も出来ず大雪の中に孤立した状態が続いた。直行は大雪と格闘しながら飼料や薪、水の運搬をしなければならなかった。特に、家畜の飲む水の量は多く、大変であった。いまさらながら、自然の脅威の強大さを知らされた。しかし、晴れ上がった日高の山々を眺めると、自然に抱かれている自分を感じるのであった。

「訪ね来る岳友、そして遭難」

下野塚原野にも春は確実にやって来た。過酷な農作業が続いていた。炭焼きも大変だった。そんな中でも直行はランプの下で本を読み、時には1人で山に出掛けることもあった。出掛けるときには必ずスケッチブックを携帯した。
シーズンになると、札幌の岳友、北大山岳部の学生たちが日高の山登りの帰りには必ず下野塚原野の直行宅を訪れた。疲れを癒し、先輩の話を聞き、山の話を語り、満足して帰って行った。直行は自分は忙しくて山に行けないこともあり、彼らの山の話を楽しみにしていた。
一方、ツルにとっては大変であった。客人の食事、寝床の支度、目の回る忙しさであった。多いときには7、8人、少なくても3人。農作業に疲れた体に鞭打っての接待である。ある時など、食べるものが底をつき、隣から借りてくることもあった。
それでも頑張れたのは、若い学生たちと話していると、何か都会の匂いを感じてちょっぴり楽しみを感じる自分がいたからだろう。つらくとも嫌な顔ひとつ見せもせず、1人で耐えた。
昭和15年正月明け早々のことであった。北大の仲間がペテガリ岳で遭難したとの電報が入った。第2次隊10人編成のパーティで、全員雪崩に遭遇し8人が死亡するという惨事であった。直行は、1次隊で厳冬のペテガリを果たせなかったこともあり、この遭難が大変残念で、ショックだった。
帯広に飛んで行くと、生き残った2人には会うことが出来た。しかし、8人は雪の中から掘り出された。中には、幼少のころ一緒に遊んだ後輩がいたこともあり、直行はしばらく仕事も手につかなかった。

「開拓地の試練」

下野塚原野に入植してから2、3年おきに冷害が続いていた。特に昭和16年の冷害は大凶作となり、家畜も人も食うものがなくなり、芋と大根で越年した。それもなくなると糠を団子にして食べた。栄養失調で作業もままならぬ状態だったが、耐えるしかすべはなかった。
この大凶作で離農する農家が増えた。
子供は4人になっていた。三男の正博は湯河原の親戚に養子に、四男宏は1であった。
直行は1日15時間以上も働いた。そんな労働の後でも、夕食後やっぱりスケッチの整理をするか本を読んでいた。ランプも点けず、薪ストーブの焚口の灯りでよく本を読んでいた姿が記憶にある。
直行はまた馬車でよく豊似市街に出掛けた。揺れる馬車の上の1時間が読書とスケッチの時間でもあった。馬は主人を乗せて黙って歩いた。豊似へ行くには、日高山脈に向かって進む。刻々と変わる日高の山々を見るのが楽しみだった。
冷害が続き作物の出来も悪く、働いても働いても生活はよくならなかった。収入はほんの少しの炭焼きに頼るしかなかった。それで乗り切るしかなかった。

「新居建築と終戦」

なかだん(中段)の小屋も五人目の子供(勲)が生まれて手狭になった。来客が来ても寝るところもない有様であった。冷害続きで蓄えもない中で、いかにして家を建てるか苦慮していた。しかし、どう考えても金の算段は難しかった。これまで、いかに苦しくても、父だけには無心しなかったが、男35歳を過ぎ仕方なく父、弥太郎に資金を頼んだ。父は黙って出してくれた。このことはツルには黙っていた。
ある日、直行はツルに向かって「家を建てるぞ」と言った。ツルはびっくりし家にお金がないことを告げると直行は「親父が出してくれた」。一言ポツリ言った。
それからが大変であった。子供部屋はどこ、炊事場は、寝室は、山男たちが大勢来ても寝られるようにと設計に余念がなかった。建てる場所は、正面に好きな楽古岳が見える、うわだん(上段)にした。井戸を掘り、手押しポンプも取り付けた。もう、水汲みをしなくてもよくなった。2本の煙突のある大きな家が出来上がった。
ツルは6人目、女の子、直美を出産した。
父、弥太郎と義母、種子が初めて下野塚原野を訪れ新居の完成を祝ってくれた。ツルは父親との確執がなくなったのを感じた。昭和19年(1944)夏のことであった。
昭和20年夏も過ぎたある日、見たこともない飛行機(グラマン)が飛来し、遠くの方で急降下爆撃を行っているのが見えた。何も知らぬ長男の登は、薪小屋の屋根に上り飛行機に向かって手を振っていた。はるか上空をB29の編隊が飛んで行くのが見えた。
まもなく、終戦を迎え新しい時代が始まった。
この年の12月に7人目の子を直行がとり上げた。女の子であった。美雪の誕生である。

「農民運動の波の中で」

直行は10年あまりの開拓生活で、いかに開拓地の農民が苦しんでいるか、農業政策が貧困であるか身を持って経験してきた。そんな中、坂本直行を初代委員長とする、農民の自立と民主化を目指した農村建設同盟が誕生した。
運動が忙しくなると、家に帰れない日が続いた。その分ツルが畑仕事、家畜の世話、乳搾り・・全てしなければならなかった。
直行のしている運動は、確かに農民の民主化を目指した運動と理解していた。しかし、登は“まずツルを民主化してもらいたい”そう思った。直行は農民同盟の委員長を昭和23年までやり、後任にバトンタッチしたが、その後委員として10年間かかわった。
この土地で自立するには生産性があがらなければ話にならない。中途半端な規模ではどうにもならない。畑作は気候の影響を受けすぎて、博打のような危険性に満ちている。労働力の不足は歴然としている。一家総出で、まさに馬車馬のごとく働いても働いても、残ったのは借金ばかり。
働きに見合う収入が得られるようになるには?直行は探す答えをどうしても見つけることが出来なかった。

「父の死と子供たちの成長」

昭和25年の年が明けてまもなく、大雪の日であった。脳溢血で倒れたため2年前から引き取って一緒に暮らしていた父、弥太郎が亡くなった。75歳の生涯だった。直行にすれば、せめて自分の家に迎えていたことが救いであった。この家も、弥太郎が出してくれた資金あって出来たものだ。それを思うと父の形見のように思えた。
弥太郎の遺骨は札幌に戻り、妻、直意の父、直寛の眠る丸山公園墓地に、直意とともに葬られた。
子供たちは小学校から中学校に進み、順調に成長していた。小学校、中学校までは5キロの距離があった。中学校に進むと、自転車を買ってもらい、自転車通学した。学校に行く時には、まず牛乳がいっぱい入った牛乳缶を自転車に括り付けた。豊似の集乳所間へ運び、帰りには空き缶を引き取ってくる。
子供たちも大事な労働力だった。学校が終わると、まっすぐ家に帰り農作業を手伝った。
中学生になると子供たちは、朝5時に起こされた。厩舎に行き家畜(馬、牛、羊、豚)に飼料をやり、糞を堆肥場まで運び出し、搾乳をし、しただん(下段)に搾った牛乳を冷やしに行く、これが、学校に行く前の日課であった。特に搾乳は手搾りなので、2頭の搾乳をすると手はぱんぱんに腫れ上がった。
朝食を済ませて牛乳缶を自転車に括り付け学校へ向かうのである。中学を卒業し長男の私と次男は広尾線の大樹町にある道立の農業高校へ入学した。下野塚の家からは片道18キロ以上あった。雪が降るまでは自転車通学だった。学校が終わると、急いで帰った。帰ると、日暮れまで農作業が待っていた。
冬は列車通学になった。列車が豊似駅に到着するのは夜の8時近かった。列車を降りて5キロの道のりを徒歩かスキーである。家に着くのは午後9時半を回っていた。

「子供たちの自立、将来への葛藤」

長男の登が高校を卒業する年が来た。
直行は登に自分の後を継がせ、乳牛を中心とした酪農を考えていた。実際、登を始め子供たちはよく働いた。皆で頑張れば立派な農場が出来る、そう信じていた。登は卒業後、農作業を黙々とこなしていた。ただ、母親、ツルには色々相談していた。サラリーマンは一家の主人一人が働き、家族を養っている。ところが、我が家では子供を含めて皆で働いても借金さえ返せない。その、生産性の低さを話した。登は機械が好きなので、その方面の仕事がしたいとの思いがあった。
ツルは登の言うことはもっともだと思った。ツルは三男、正博を養子に出した親戚にそれとなく相談した。暮れが押し詰まったある日、親戚から登宛に手紙が届いた。進学希望であれば入学するまでの面倒はみるとの内容であった。登にやれる自信があるなら、お父さんに話してみるとツルは言った。
ツルから話を聞いた直行は、しばらく黙っていたが一言「登は当てにしない」と言って押し黙った。跡継ぎと信じていた。それが当然だと考えていた。自分に続かねばならぬと決めていた登が今、出て行くという。これまで必死に開拓に打ち込んできたものは一体なんだったのだろうか。直行は自問自答した。しかし、何も見えてこなかった。
直行は、かつて父、弥太郎の反対を押し切り、この地に来た時のことを思った。
年が明け昭和31年(1965)、登が原野を出てゆく日が来た。直行は登のために馬橇を仕立てた。登は柳行李を1個橇に乗せ、後の方に乗った。直行はたずなをとり橇の前に座った。家族と別れ馬橇は滑り出した。
晴れ上がった厳冬の下野塚原野を馬橇はキューキューと雪をきしませながら、5キロの雪道を駅に向かった。日高山脈の稜線が輝いていた。ふたりは一言もしゃべらなかった。駅に着くと、東京までの切符を買った。待合室ではだるまストーブを囲み数人の乗客が列車を待っていた。
やがて列車が雪煙を上げて到着した。改札が始まり、別れの時が来た。
直行はどこかさびしそうな顔で、しかし笑顔で一言「頑張れよ」。登も一言「はい」。それだけであった。
直行は登を送り出してからは、暇を見つけては少しずつ絵を描くようになった。時には、スケッチ旅行にも出かけた。(次回へ続く)

 

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  第3回 「画家の世界へ」 飛騰59号掲載
   
  「彫刻家 峯孝との出会い」

昭和31年(1956)夏、1人の小柄な男が豊似の駅に降り立った。直行に会うために東京から訪ねてきた武蔵野美術大学教授で、彫刻家の峯孝であった。彼の作品は北海道でもあちこちにあった。札幌大通りの「牧童」、日本の最北端、宗谷岬にある「間宮林蔵」像などの作者である。峯が北海道に来た目的は、北海道の酪農家の顔を作品にしようというものであった。事前に酪農協会に「いい顔の農家を紹介してほしい」と協力を求めた。結果、直行に白羽の矢が立った。それを受けての訪問であった。峯は直行に会うなり“この顔は彫れる”と感じた。
訪問の経過を話し、2人は意気投合した。徹夜で話した。峯は数日直行宅で過ごした。そんな中で、直行の絵を見る機会が生まれた。そして感動した。1枚1枚に自然を捉える直行の目の確かさと温かさに打たれた。ここの自然の中で実際に生活した者だけにしか描き得ない色彩がそこにあった。当然たくさんのスケッチも見た。峯は見事だと思った。
峯の申し出を受けて、直行はモデルになることを承諾した。仕事を終えて直行宅を離れるに当たって峯はツルに言った。
「ご主人の絵はすばらしいものだ。あのままにするのはもったいない。個展を開くように進めたのですが、返事は頂けませんでした。でも、惜しい。個展を開けるように手配しましょう」。
ツルはびっくりしてお礼を言った。ただ、峯と直行がそんな話をしていたとは全く知らなかった。もしかすると峯は直行の生涯の恩人かも知れないと、ツルは感じていた。

「原野との決別」

農作業のかたわら、直行は絵を描き始めた。スケッチをしに山に入る。スケッチ旅行にも出かけた。少しずつ作品が仕上がっていった。個展の準備を始めたのである。
しかし、直行は絵を描いて家族を養っていける自信など少しもなかった。それでも個展に踏み切ったのは、峯の強い勧めがあったからにほかならない。
昭和32年3月(1957)、札幌大丸ギャラリーで第1回「坂本直行スケッチ展」が開催された。37点の出品作品の中で、12号の油絵を含む21点が売れた。大成功である。大都会での1週間の個展、直行は反響の大きさに驚き少しの疲れと併せて、自信も生まれた。原野に入植して、命がけで開墾し早20年が経過していた。それなりに畑も牧場も整えられていたが、生活のほうは依然として楽ではなかった。
直行はこの原野と自然がたまらなく好きであった。とにかく、直行とツルが全生命をかけて戦ってきた人生の足跡が、原野には刻まれていた。だから、ここを離れて他所に行くなど考えも及ばなかったが、現実は厳しかった。子供たちは、高校を卒業すると次々と原野を去って行った。
直行は、東京を舞台に計画した次回の個展のために、原野を山を歩きながら、自分の進むべき進路を整理していった。ツルは言った。
「お父さんは大変ですね」。
畑仕事をしながら、たくさんの絵も描かねばならない直行の体を、ツルは案じていた。
一言、直行は「絵を描くことにする」とだけ言った。それを聞いてツルは、農業を継いでくれる子供のいない直行をかわいそうに思った。「百姓をやめて、お父さんの好きな絵を描きますか」と語りかけたツルの言葉に、直行の答えはなかった。
昭和34年(1959)第1回の東京個展を渋谷東急デパートの画廊で開催した。会期は1週間である。油絵、水彩取り混ぜて100点以上の作品を展示した。東京にいた私は久しぶりで父の個展を手伝った。かって、“かに族”として下野塚の原野を訪れた学生たちが立派な社会人となっていて、直行の絵を喜んで買ってくれた。
第1回の東京個展はほとんどの絵が売れ、大成功であった。個展が終わるとすぐに次回(2年後)の会場予約をした。札幌からスタ―ト個展は札幌、旭川、帯広、釧路、東京へと広がり、直行は確かな手ごたえを感じていた。百姓の片手間に絵を描く状態ではなくなった。個展に間に合わないから、夜を徹して描き続けた。
ついに直行は、出て行った息子たちを呼び集め「百姓をやめる」と宣言した。子供たちは黙って聞いた。つらかったけれど、すばらしい原野だった“故郷”をいよいよ離れることになると感じていた。
ツルはほっとした。そして直行の胸中を思った。その鼓動を感じていた。直行は原野を開墾した時と同じ馬力で絵を描いていた。鍬を絵筆に持ち代えただけで自然に立ち向かう直行の姿を見ていた。
直行も30年前にこの原野に足を踏み入れた時と同じ興奮を覚えていた。
「百姓はやめたが、俺は負けないぞ!」。声が聞こえてきたと思った。
やがて、呼び集めた子供たちは原野を去っていった。ツルはこの原野で子供たちに苦労をかけなくてよくなったことで、一つ肩の荷を降ろした。だが、これからはお父さんの筆1本が頼りなのだと思うと、寂しく、気の毒になった。
絵描きの第1歩であった。

「初めて電灯のある生活・・」

その年、春になっても直行は畑の耕作はしなかった。いや、絵を描くことで畑仕事は出来なかった。昭和35年(1960)、豊似市街に以前商店だった家を譲り受け引っ越した。入植以来、初めて電灯のある家であった。最後の荷物を運び出し、2人はがらんとなった城(家)と古戦場(畑)を眺めた。2人は丘に登った。日高山脈が正面に見え、楽古岳が際立って高く聳えていた。振り返ると太平洋がかすかに見えた。2人は黙っていた。
と、直行がツルに話しかけた。
「結局、俺は負けたな」。
畑は草でいっぱいであった。ツルの胸もあふれる思いでいっぱいだった。しかし、言葉にはならなかった。取り巻く自然は、厳しくたくましい姿を見せていた。
直行はランプのしたではなく電灯の下で、夜を徹して絵を描いた。個展の回数も札幌では毎年、その他、旭川、釧路、仙台、大阪などで開催した。東京では1年置きが決まりになっていた。

「習慣は開拓時代と同じに」

豊似市街での絵描き生活5年間を経て昭和40年(1965)、十勝平野を後に札幌に移った。35年前、希望にあふれ新天地を求めて出てきた札幌に、今度は絵描きになって帰ったのである。
手稲山が正面に見える宮の沢に、友人の設計による新居を構えた。本格的に画家としての活動を開始した。毎年の各地の個展はもとより、昭和42年(1967)にはヒマラヤへスケッチ旅行に遠征した。ヒマラヤはその後何回か訪ねている。直行おきに入りだった。昭和48年(1973)には、ツル同伴で仲間とカナディアンロッキ−へスケッチ旅行に出かけ、昭和49年(1974)功績により、北海道文化勲章受賞、昭和51年(1976)には北海タイムスの「北大百年の百人」に選ばれた。坂本直行には絵の師匠、所属はない。しいて言えば自然が師匠であった。絵描きになったのは“方向転換ではない。開拓時代の延長に過ぎない”という。開拓時代の習慣で朝5時には起き、付近の丘を散策、冬はスキーを欠かさなかった。

「終焉」

札幌に住んで14年が経過していた昭和54年(1979)年の初めころ、直行は上腹部から背中にかけて、鈍痛と違和感を覚えるようになった。ただ、しばらくすると消えるので余り気にせず相変わらず、絵を描き続けていた。体重を落とすと言って、家の近くを走ったりもしていた。体重は落ちたが、同時に体力が衰えていった。本人は「体が軽くなった」などと言っていたが、今考えると、既に癌が体を蝕んでいたのだと思う。
昭和56年(1981)ころになると、スケッチ旅行から帰った後、疲れはさらにひどくなっていた。同年6月、東京での第11回目の個展を開催した。久しぶりに会った父はスマートに見えたが、以前に比べて体力がなくなっているのが明らかであった。昭和34年から2年毎の個展を11回積み重ねて、最後になった。
東京での個展が終わると、待っていたかのように腹痛の症状が顕著になった。疲れやすさも加速度的である。個展が終わり安心したのが引き金になった。ツルの強引な進めもあって、直行はやっと病院で診察を受けることになった。結果は、膵臓炎で、すぐ検査入院を勧められた。直行は気丈にも平静を装っていた。しかし、衰弱は目に見えていた。
昭和57年(1982)の正月が過ぎ1月の末、検査入院だと言い聞かせて札幌同交会病院へ入院した。検査の結果、直行には膵臓炎で少し長引くと告げられ、ツルには膵臓癌と宣告された。
しかも、2、3ヶ月の命かも知れぬと言われ、ツルは愕然となった。お父さんには癌を悟られぬよう家族に固く口止めした。
何も知らぬ直行は病床にありながら、「治療代をかせぐ」などと画家魂、“いごっそう”ぶりを発揮、スケッチブックを広げて絵を描き、家族を楽しまそうとしていた。ツルは、なんという人かと心を熱くした。
昭和57年5月2日午後4時28分、直行は75年の生涯を閉じた。父、弥太郎と同じ年齢であった。
直行は幕末の志士、坂本龍馬の家系にありながら、龍馬のことを子供たちに一切話すことはなかった。
高知へ行ったとの話も聞いたことはない。
日高の“いごっそう”を貫いた一生であった。

直行が下野塚へ入植する原因となった野ア牧場は、現在、今井牧場となり南十勝では有数の牧場の一つである。ご主人、彦一氏は筆者と同級生、小学校から高校までの通学仲間である。広尾町の農業協同組合長を2期務める。 (終わり)

 

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